田ノ倉さんだ……
昨日、あんなことがあったから、ちょっと顔は見づらいけど。
「こんばんは」
「こんばんは……」
田ノ倉さんの視線が、私から下へ動く。
下?
「飯島さんも、それを見に……」
それ? あぁ、この本。
そうか、田ノ倉さんが見ようと思っていたんだ、だからはみ出て……
「すみません、どうぞ、私はなんとなく見てしまって。仕事で使うんですよね」
「いえ、いいんです。僕も仕事とは言えないので……」
田ノ倉さんの笑顔、なんだか久しぶりに見た気がする。
体も元通りになったみたいですね。
「あ、そうだ、昨日は驚かせてすみませんでした。
僕が金網のところにいたので……」
「あ、いえ、あれは私の勘違いです。
こちらこそ、慌てて廊下を汚しました、すみません」
忘れてしまった過去のことじゃなくて、私の現在の話。
なんだかみっともないところを見られたけれど、それでも、会話が出来て嬉しい。
田ノ倉さん、私の方を見ながら、口元を緩めている。
なんだろう、何かおかしいのかな、私。
「何か……」
「あ、違います、ごめんなさい。そうじゃなくて、
昨日、飯島さんが真剣な顔をして屋上へ飛び出てきて、
金網を僕がのぼるのではないかと心配してくれたけれど、
下から見えた僕は、そんなに切羽詰った顔をしていたのかな……と、
なんだかおかしくなって」
笑うところじゃないですよねと言いながら、田ノ倉さんは何度も謝ってくれた。
確かに、昨日は恥ずかしかったけれど、でも……
「そうですよね、私、慌て者なんです。だからいつも菅沢さんに怒られてばっかりで」
「怒られてばかりなんですか」
「はい、常に怒られています」
まぁ、ほとんどは私が悪いんですけど。
「あいつは口で言うほどの半分も、怒っていないと思いますよ」
菅沢さんが短気だとか、すぐに怒るという話をすると、
そう、以前も田ノ倉さんはそんなふうに、私を励ましてくれた。
飯島さんは、そのままでいい……
そんな優しい言葉を、何度もかけてもらった。
懐かしい……
「……それじゃ、私」
「飯島さん」
本を田ノ倉さんに手渡し、資料室を出ようとした私を呼び止めてくれた。
なんだろう、何か思い出しましたか?
「もう一つ、お礼を言いたくて」
「お礼?」
「はい、『ケ・セラ・セラ』です」
『ケ・セラ・セラ』
「あの言葉を聞いて、気持ちが楽になりました。
考えて悩むよりも、今を楽しまなければいけないって、そう思えるようになったので。
自分の命が助かって、怪我も治ってきた。その幸運を感謝すべきだと。
こう思えるようになったお礼を、お会いしたら言おうと思っていたのに、なかなか……」
『ケ・セラ・セラ』
過去を思い出せず、イライラを募らせていた田ノ倉さんに、私がかけた言葉。
気に入ってくれたんだ。
「余計なおせっかいかと思いましたが、そう言ってもらえたら嬉しいです」
以前、跡取りになることが嫌だと嘆いた田ノ倉さんに、私が言ったのも、
『ケ・セラ・セラ』だった。
人生なるようになると思った方が、結果として上手く行くことが多い。
「私の……亡くなった父が、よくそう言ってくれたんです」
「お父さんが……」
……そう、あのときも、この話をしましたよね。
「その本の中に出てくるような、山の景色と一緒に見える空や、
たくさんの星たちを見ると、亡くなった父を思い出せるので、
それで見ていました」
まだ、あの記憶は戻っていないようだけれど、
でも、同じように聞いてくれたことが、私は嬉しかった。
また、こうしてお話ができるなんて……思っていなかったし。
「……偶然……かな」
田ノ倉さんは『日本の空』を広げて、
最初はある漫画家さんが書いた『うろこ雲』のデッサンが気になり、
この本を開けたことを語ってくれた。
「そうしたら、僕もこの『星空』が気になったんです」
「星空……」
「はい」
田ノ倉さんが開いてくれたページには、日本の各地で見られる星空が特集されていた。
その中でとりわけ大きく掲載されているのが、あの日に見たような星空。
「冬は空気が澄んでいるので、星が綺麗に見えるのだそうです。
この星空のページを見ていたら、なぜだかわからないけれど、気持ちが落ち着いてきて、
何か仕事で難しいことが起きても、それを受け止められるようになりました」
田ノ倉さんは、この星空を見たくて、時々資料室へ顔を出し、
気持ちを落ち着かせるのだと語ってくれた。
記憶はまだ、元通りにはなっていない。
でも……敦美おばさんが言っていたように、
田ノ倉さんが『大切なもの』として、あの日のことを心の奥にしまってくれているから、
だから、この星空を見て、落ち着けるのかもしれない。
あの日の記憶は……
今もちゃんと、田ノ倉さんを励ましているんだ。
「私も……同じです。この空に励まされています」
私は……
今でも、あなたが好きです……
星空のページを開いている田ノ倉さんの横顔に、
私は心の声だけを、しっかりと向かわせた。
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コメント
記憶はいつ戻る?
これが和ちゃんにどんな影響を与えるか?
もう与えちゃってるかな~^^;
テラスの君の記憶は戻るのか?
心の奥底にある、大事にしているもの
少しずつ、少しずつでもいいから
和ちゃんのもとへ戻してあげて。。。
2013-01-11 17:58 yokan URL 編集
日付が空いてしまって……
>テラスの君の記憶は戻るのか?
データ保存のトラブルがなければ、
本来11月くらいに連載していたはずの内容なので、
ずいぶん間が空いてしまって、
諒の記憶の空白も、長いイメージですよね。
少しずつヒントらしきものが散らばり始めて、
どうなのかなぁ……
なんて思いつつ、もう少しお付き合いください。
2013-01-11 23:42 ももんた URL 編集