32 大事なこと(1)

32 大事なこと(1)


今日は、日向さんの『赤鼻探偵』最終収録日。

何か用事があるようなふりをして、『OK』の声を聞きたいところだったが、

私は久しぶりに休みを取って、『ベルルッチ展』へ出かけることにした。


高校時代、テストで失敗する私に、いつも笑顔で語りかけてくれたのは服部先生で、

当時、大学を出たばかりの新任先生だったが、

なんでも話せる姉を持ったような気分で、夕暮れまで語ってもらった記憶もある。


あの、のんびり屋の私が、芸能界の裏方だなんて、

近況を報告したらどんな言葉をかけてくれるだろうかと、

ショーウインドーに映った自分を確認し、履き慣れないパンプスの足元を見た。


隣の店の前には、『メビウス』のポスターになった日向さんがいて、

あらためて、この人の別の面を知っていることが、嬉しくもあり、また怖くもなる。

まだ外は寒くて、息を吐けばわかるくらいだけれど、

そこにいる日向さんからは、あたたかい春の香りがしそう。



『『ベルルッチ展』行っておいで』



優しく送り出してくれた、日向さんの気持ちに感謝しながら、

街の中へとまた一歩踏み出した。





高層ビルが立ち並ぶ、東京の中心部。

待ちあわせ場所に指定されたホテルのロビーには、

先に到着した若村さんと、懐かしい服部先生がいた。

私の気配を感じたのか、すぐにこちらに気づき、大きく手を振ってくれる。

私の気持ちは、一気に学生時代へと戻っていく。


「史香! 懐かしい!」

「先生! お元気ですか?」


結婚し家庭を持った服部先生は、教員を辞めたものの、

近所の子供たちを集めた小さな塾を経営し、ご主人と一緒に、

今も教育の片隅にいるのだと、報告をしてくれた。

先生のそばには、旅行用のトランクが置かれ、

そのままどこかへ行きそうな雰囲気が漂っている。

なんとなく若村さんから聞いた状況とは、少し違う時間が流れているのを感じながら、

それでも、懐かしい友達の話や、自分の仕事の報告を済ませ、

注文したアイスティーに何度か口をつけた。


「あぁ……1時間なんてあっという間ね」


服部先生は、これからご主人の実家がある名古屋まで、

新幹線で向かうのだと教えてくれた。

本来なら昨日移動するはずだったのだが、私と会いたくて、

今朝まで一人東京に残ったのだと話してくれる。

『ベルルッチ』へは行かないのですか? という疑問符が、

口元まで出かかったが、そのまま現れることなく沈み込んでしまった。

服部先生との懐かしい再会は、結局、1時間だった。





「さて……行くか」

「若村さん、『ベルルッチ展』服部先生も一緒にって話じゃなかったですか?」

「ん?」


ごまかさないで欲しい。

服部先生が来てくれる、一緒に行ってくれるという条件だから、

休みを取って、こうしてやってきたのだ。



日向さんのラスト収録、見るチャンスをみすみす逃して!



「一緒に見に行くなんて、話したかなぁ」

「言いましたよ、服部先生も誘ったら、ぜひにって言うからって……」

「あぁ……じゃぁ、少し話がごちゃまぜになってるな」

「は?」


若村さんが言うには、服部先生が東京へ出てくる日は決まっていて、

私の予定と組み合わせるのが、無理だったと付け加える。


「史香、仕事が忙しいって、最初言ってただろ」


確かに、若村さんから誘われたときには、仕事の都合がつかないと、

避けたのは事実だった。あまり服部先生のことをこだわりすぎて、

あれこれ文句をつけるのも、なんだか悪い気もしてくる。しかし……

このまま全てを受け入れるのには、少し抵抗感が……


「わかったよ、ほら」


若村さんが差し出してくれたのは、『ベルルッチ展』のチケットだった。

2枚は特別招待券と書かれていて、それを私の目の前に置いてくれる。


「お前の彼氏、色々とうるさいんだな。
高校時代の先輩と出かけることも、嫌がるんだ」





私の彼氏……





色々とうるさい人なんかじゃない。

いつも、至らない私のことを考え、忙しい身なのに、

優しい言葉をかけてくれる素敵な人だ。


「そんなことは……」


その瞬間、私の頭が言葉を止めた。

あまり具体的なことを語るのは、避けた方がいい。咄嗟の判断。


「史香は正直だな、そうか、付き合っている男がいるってことか……」


若村さんは、思ったとおりだというような顔をして、席を立とうとした。


「彼と行ってこいよ。無理に行こうとは言えないからさ」


納得できるような、出来ないようなそんな展開に、

これはいりませんと強く出て、反対を向き、帰ってしまえばいいのだろうけれど、

私が受け取ったのは、1枚のチケットだけ。

このまま背を向けて帰ってしまうことも、若村さんと仕事場で会うことがある以上、

どこかしこりを残すような、そんな気がした。


「わかりました。ここまで来たから行きます。『ベルルッチ』は見てみたかったので」

「いいのか? 彼氏に怒られるぞ」

「そんな心配はしなくて結構です。若村さんが悪いんですからね、
お昼も全部、おごってください」

「おぉ!」


若村さんの、少しほっとしたような顔が、目の前にあった。

結局、その日は『ベルルッチ』を見た後、完成間近のタワーを眺め、

ランチをおごってもらう。

休日ならデートをするカップルが多そうな場所だけれど、

平日だったことが幸いし、待たずに眺めのいい席へ座ることが出来た。


「史香、お前は事務所の正社員なの?」

「私ですか? あ、はい。一応」

「そうか……実はさ、俺、『パーツワン』で働いているとはいえ、
正社員じゃないんだよね、毎年、毎年更新する契約社員なんだ。
この不況時代、いつ切られるのかわからない状況で、成績を収めないと残っていけない。
だからこそ、一生懸命仕事に取り組める気もするんだけど、
時々、疲れたと思うこともあって」


私はその話を聞きながら、若村さんのような立場の人が、この業界には多いものだと、

あらためてそう思った。大きな会社には、当然のように子会社があり、

その下で働く下請けの会社がある。

年功序列ではなく、その人の腕次第という厳しい面もあるため、

年下の人に指示をされる年配の男性も少なくない。


「で、あの日、『MMB大賞』の記事に史香の顔を見つけてさ。
あの、『のんびりマイペース』だった史香が、
この世界に足を踏み入れていることが信じられなかったんだ。
それと同時に、懐かしい思い出が色々と蘇って……」


確かに、若村さんの知っている私は、この忙しい世界の中に飛び込み、

走り回っている姿など、想像出来ないものだろう。


「そうですよね。私もこの状況で、就職が思ったように決まらなくて、
たまたま知り合いの縁で入ることになって。
すぐに別の仕事でも探そうかと思っていたんですけど、だんだんと楽しくなって……」



楽しくなった理由。

それは間違いなく日向さんに出会ったこと。


日向さんに出会ったことから、田沢さんや米原さんとも関わりを持つことになり、

仕事の楽しさも、厳しさも、少しずつ理解した。

支える人達の存在がどれくらい大切で、また、それに応えようとしてくれる、

タレントさんたちの努力も、目の当たりにしてきた。


「そうか、意外に史香みたいな人間の方が、向いているのかもしれないな。
ウソだらけの中で、それに染まらずにいるには、鈍いくらいじゃないと……」


一瞬、若村さんらしくない言葉だ……そう思った。

学生時代、剣道部で毎日汗を流していた憧れの先輩は、

まっすぐに立ち向かうことが、大切だとそう言い続けてきた人なのに。


「……どういう意味ですか?」

「いやいや……ごめん、変な意味ではないんだ。
あ、そう、あの子、楽しい子だね。なんだっけ、新人」

「保坂さん?」

「あぁ……。意外と1、2年したら、トップに立っているかもしれないんだぞ、
あぁいった怖い者知らずみたいなのが」

「そういうものですかね」

「そういうものだって。芸能界なんて……。何がいいことか悪いことか、
正しいのか、間違っているのか、わからなくなることが多い」


若村さんは、きっと仕事で迷いがあるのだろう。

とても充実しているのだと、口で言えば言うほど、どこか歯車がずれているような

そんな気さえしてしまう。

服部先生との時間が余りにも短すぎて、始めは気持ちが乱れそうになったが、

単純に懐かしい先輩との会話は、楽しいものだった。

久しぶりに高校の剣道部に顔を出したら、部室がきれいになっていて驚いたこと、

昔、厳しかった数学の木村先生が、体も気持ちも丸くなっていたこと。

若村さんは、私が懐かしく思う話を、リズムよく送り出してくれた。

流れていくのがのんびりだと思っていた時間は、話のリズムと比例するように、

どんどん過ぎていく。


夕日が空を染めて、駅へ向かう人の流れが出来るまで……。


「ありがとな、史香。久しぶりに緊張感なしで楽しかった。
まぁ、お前がフリーじゃなかったってことだけは、残念だったけどさ」


結構ドキッとすることを、いとも簡単に言ってくれる。

ノドに通した紅茶が、一瞬戻りそうになった。


「史香の彼って、どんな仕事をしているの?」

「……仕事?」

「あぁ……」


紅茶のカップを置き、懐かしい時間をくれた若村さんには申し訳ないが、

私は堂々とウソをつく。


「普通のサラリーマンですよ」

「へぇ……だとすると、なかなか会いにくいだろ。この仕事、不規則だし」

「あ、そうですね、でも、今は事務職ですから」

「そうか……」




日向さんのこと。

これは絶対に語れない。




「幸せなの? 今」


私は言葉にせずに、しっかりと頭を下げた。

こうして自由に出かけることが出来なくても、誰に付き合っていることを話せなくても、

私のふわりの場所は、たった一つしかない。


「そうか……」


レストランの窓から見えた景色は、ほんの少しずつだけれど春に向かっていて、

川を泳ぐ鳥のつがいが飛び立つのを、私は窓越しに見つめた。





日向さんから電話があったのは、その日の夜だった。

明日からは『相良家の人々』の最終ロケのため、上海に向かう。

『赤鼻探偵』の収録が無事に終わり、好葉さんと再び競演することを約束し、

充実した1日だったことが、明るい口調からもすぐにわかる。


「恩師はお元気だったの?」

「はい。今は北海道でご主人と、小さな塾を経営しているらしいです。
一度は教育現場から離れたけれど、結局は元に戻ったって、笑ってました」

「そうなんだ、史香がどんな学生だったのか、聞いてみたい気もするよ」

「聞いても、失敗したとか、心配かけたとか、
そんなことしか出てこないと思いますけど」

「そうかな……」


『ベルルッチ展』のことを話しながら、有名な作品の前に、

大きな人の輪が出来たことなど、私は久しぶりに外の世界を見たからか、

いつもより頑張って話し続けた。






33 大事なこと(2)


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コメント

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気になりますね

先輩の様子は気になりますね。
高校生のときは一直線なひとだったんですね、

社会に出て働くこと、なかなか雇用もむずかしいから
上手く行かなかったり・・・

史香はちょっとさびしい思いをしたんですね。

でも芸能界ってスキャンダルやどこに目があり耳があるか分からないから
素直に言えない部分もあって、なかなか苦労しますね。

学生時代と違って社会に出ると
何でも真っ直ぐに一生懸命にやるだけが良い!って訳じゃないもんね

芸能界で働く事でいろいろと迷いを抱えているような若村先輩
仕事を離れた場所で昔のように史香と話したかったのかもしれないね
でも・・先輩、わかったでしょ!
彼女にはちゃんと優しい彼が居るんだからね!(誰かは言えないけど・・・)

「幸せなの?今」の問いに
しっかりと頷ける史香がとっても素敵です^^v

明日も頑張ろう!

真っ直ぐで一本気な人ほど、まじめに考えて悩んでしまう世界なのかな?

嘘をつかなくてはいけない日向との関係でも、
『幸せ』と答えられるなら、それは正しい交際。

若村さんは仕事も恋人もしっかりある史香が羨ましかったかな?
でもきっと大丈夫だよね。

違った日を過し、報告し合える楽しさ。
だから明日も頑張れる。

戸惑いの再会

tyatyaさん、こちらにも、こんばんは

>先輩の様子は気になりますね。
 高校生のときは一直線なひとだったんですね、

環境は人を変えますからね。
史香にとっては、ちょっと戸惑う若村との再会です。

おつきあいしている人がいること、
普通ならハッキリ言えることですけどね。
色々と苦悩する、史香でございます。

続きもぜひ、おつきあいください。

幸せ……ということで

パウワウちゃん、こんばんは

>学生時代と違って社会に出ると
 何でも真っ直ぐに一生懸命にやるだけが良い!って
 訳じゃないもんね

学生時代はね、社会人とは悩みも違うし、
そのままのイメージを持っていた史香は、
ちょっと戸惑っているところです。

>「幸せなの?今」の問いに
 しっかりと頷ける史香がとっても素敵です^^v

はい、だって、幸せですもの(笑)

順調なんだけど

yokanさん、こんばんは

>好きな人がいるとはっきりと頷ける史香ちゃん、
 素敵だわ~^^

言葉に出すことは出来なくても、
『幸せ』なのです、史香は。
互いの想いは順調なのですが、
それだけでは済まないのが、この世の中。

うーん……

ということで、さらにおつきあいください。

ステップアップ

yonyonさん、こんばんは

>真っ直ぐで一本気な人ほど、
 まじめに考えて悩んでしまう世界なのかな?

見えているところと、見えていないところと、
芸能界は、色々あるのではないか……(あくまで想像です)

>違った日を過し、報告し合える楽しさ。

そうそう、史香と淳平は、
また一つ階段をのぼっています。
このまま行けばいいんだけど……
(と意味深に終わる・笑)

不穏。。

史香と淳平
順調順調♪と思っていたら
↑ももんたさんのコメントに不穏な動きが(笑)
そうですね。このままいくはずがありませんね。
これから何が起こるのか楽しみにして待ってます。

あはは……

れいもんさん、こんばんは

>順調順調♪と思っていたら
 ↑ももんたさんのコメントに不穏な動きが(笑)

あはは……不穏な動きかぁ(笑)
まぁね、何か起きないと、話が進まないので。
楽しみに、おつきあいくださいませ。