TRUTH 【残してやれるもの】

TRUTH 【残してやれるもの】

TRUTH 【残してやれるもの】



菜穂子のピッチは落ちなかった。

付き合っていた頃よりも、さらに酒を飲む量が増えている。


「本当に離婚するのか」


その時、初めてグラスの動きが止まった。さすがに考えることもあるのだろう。

菜穂子はそれでも何かを振り切るように顔を上げ、

少し酔いの回った頭を冷まそうと、軽く左右に振ってみせる。


「するわ。信頼も出来ない相手と、一緒に暮らす意味などないから」


昔から菜穂子の決断は早かった。

正しいか間違っているかではなく、相手がいるとか、いないとかでもない。

自分と心と、世界がどれだけ広かろうと、それだけしか見えなくなる。


「山内社長は、大変だっただろうけれど、いい決断をした。
『トワレ』へ入ったことで、老舗ブランドは残った。
社員のことを考え、この先の会社のことを考え……。
精神的にもそうとう追い込まれただろう。君は彼を支えようとは思わないのか」

「思わないわよ、何もかも壊しておいて、謝罪して欲しいのは私の方だわ」


入っていた酒を飲み干し、空になったグラスを見つめ、悔しそうに唇をかみ締めた。

菜穂子にとっては、どこまでも自分の思いだけがそこに漂っている。


「人なんてズルイものよね。山内が事業に失敗して、
『トワレ』に頭を下げたって話題になったら、誰も寄り付かなくなった。
ねぇ……あれだけ飲みに出かけてくれた八坂君でさえ、居留守使うのよ、私に……。
信じられる?」


人を見抜くのは難しい。頭ではわかっていながらも、

褒め称えられれば、それが自分の評価だと、勝手に勘違いする。

若い頃の私はあの日、そんな状態のまま突き落とされたのだ。

あの店で千波さんに出会わなければ、もっと沈み込んでいたかもしれない。


「君がそういう付き合いをしてきたからだろう。
山内社長夫人であることを、一番利用してきたのは君だ」

「……ダメだってことよね、結局。『お金』は『愛』にならないんだって、
やっとわかったわ」


菜穂子はそういうと、捨てられた猫のように私を見た。

今誘えば、彼女はどこにでもついてくるだろう。

向けるその懐かしい唇に触れ、互いの寂しさを埋めあえば、

その時だけは現実を忘れることが出来るかもしれない。


「聡の隣にいたあの子を見たら、無性に悔しかったのよ……」



『最後に頼るのは、聡じゃないかと思って』



そう言った翠の言葉が蘇った。私の左手に向かった菜穂子の手を、グラスで遮断する。

二度も三度も、騙されるわけには行かない。


「君も色々と学んだのだろう。山内さんとの結婚で」

「……聡」

「私も君から学んだことがある」

「私から?」


同じ職場に入り、互いに技術を競い合い、

そして、その笑顔に惹かれ、愛を語り合ったこともあった。

人のものになってからも、埋まることのなかった隙間を埋めるように酒を飲み、

距離を保ったまま、日々を過ごしてきた。

でも、もう二度と会うことはないだろう。

私は強く心にそう決めながら、席を立つ。


「君は……パートナーに選ぶ女性ではない。
人の痛みがわからない人間には、真の幸せは来ないということだ」

「聡、それどういうこと」

「君の生き方を見ていたら、そう思えた。ただそれだけだ」


悔しそうな菜穂子を置き去りにして、振り返ることなく店を出た。

冗談じゃないわと叫ぶ声が外にまで聞こえたが、私は動じることなく歩き続け、

携帯を取り出すと、菜穂子の番号を消去した。





それからも柚希は電話に出ることがなく、行き場のない思いを抱えながら、

あの日から2ヶ月が過ぎていく。

『緑山南店』へ顔を出しても、話をする隙間さえ与えてくれない。

7年前、いや、今はもう8年となっているが、その出来事で知り合った女性が、

千波さんだという事実がある以上、柚希の心を取り戻すのは無理ではないかと、

そう思う自分もどこかにいた。

その悩みの中、少しずつ痛む場所が広がり、傷みと傷みの感覚が狭くなる中で、

このまま別れてしまったほうが、互いに楽なのかもしれないと、思い始める。


どこへ向かうことも出来ず、ただ動きまわった夏は過ぎ、

季節は少しずつ秋の色になった。

今年の秋は、寂しがる人の気持ちに遠慮がないようで、

色づいた葉は、その役目を終えたのか、力なく舞い落ちていく。





「さすがは北条さんだ、素敵なお店をご存知ですね」

「いえ……政治家の先生方とも親しくさせていただくので、
自然にデータだけは増えました」


私は、自由になる時間と、自分の体力に限界を感じるようになり、

心をあることに向け始めた。

北条芳香と何度かプライベートで酒を飲むようになり、

翠としかコンタクトを取らないのかと思われていたイメージを、少しずつ払拭する。

それにしても、この年齢で、政治家と親しいとハッキリいうあたりは、

相当、覚悟を決めた女なのかもしれない。


「沼尾さんはとても優秀な方で、私も尊敬しているんですけど、
仕事を抱え込んでしまうので、私たちはどう動いていいのか、わからなくなるんです」

「彼女は責任感が強い。だから、人に任せるのは、
投げ出したように思うんじゃないのかな」

「でも……寂しい」


北条芳香は、向かい合う席での食事を決して選ばなかった。

常に体を寄せ合うようなカウンターを選び、

女である印象を、強く植えつけようとする。


「もっと、北条さんの方から、全てをさらけ出した方がいい。
彼女は面倒見もいい人だから、もっと近づけるような気がするけれど」

「さらけ出す? 私を?」

「あぁ……」


私の組んだ足の先が、彼女のふくらはぎに触れる。

どうでもいいと思っているからか、予定よりも早く行動に出てしまった。

そんな接触を嫌がるかと思ったが、北条芳香は待っていたように、笑みを浮かべる。


「全てをさらけ出したら、うまくいくかしら」

「だと思いますよ。誰でも、構えた人間に語るのは、難しい」


それはウソではなく、私の本音だった。

思い切り手を広げてくれない人に、安心して何もかも語ることは出来ないだろう。

誰だって、落ちて行くのは怖いものだ。


「……森住さんも? そう思われますか?」


細すぎない白い足を、すぐ隣の席で組み替えた。

右足のアンクレットが揺れ、光が私を誘う。


「何を私から得ようとしている」

「……言ってもいいの?」

「叶えられることならね」


北条芳香は軽く頷くと、ある大手製薬会社の営業部長と

会う手はずを整えて欲しいと言い出した。

『トワレ』が今取り組んでいる新商品開発で、先にそれを成功した

別企業の実験結果を欲しがっているのだ。

その部長と以前から交流のあった我が社に、間に入って欲しいとかけあったが、

沢木は首を縦に振らなかった。


「沢木はなぜ?」

「個人的に知らないって、そう言われたんです。
きっと彼は、貸しを作るのが嫌なんだと思って」

「貸し?」

「えぇ……」


相手方の研究結果を知り、まだ間に合うようなら研究を続け、

もし、後発になるようならば、別の方法を模索したい。それが北条芳香の提案だった。

そういえば、名前を出された営業部長は、女好きで有名な人だ。

彼女が近付けば、それこそ喜んで飛んでくるだろう。


沢木は、それもわかっていて、自分を愛していると信じている北条芳香を、

あえて近づけたくないのかもしれない。


「確かに、沢木は貸し借りをするタイプじゃないな。
真面目だし、正面に構えてしまうし」

「私も、無理にはお願いできなくて。結局、沢木さんにも信用されていないんです」


何もかもを沢木にさらけ出し、その男を利用している女。

今さら何が信用だと言ってやりたくなったが、

そこはあえて知らないふりをして、騙され続けることにする。

相手の手の内を知りながら、その上で転がるのも悪くない。


「わかった。私の方から連絡をしてみよう」

「本当ですか?」

「あぁ……しかし、私の方から、全てを明らかにしてほしいとは言えないが」

「えぇ……まずはお会いできたらそれで」

「それで私は、君の期待に答えられるのか?」


隣に座る女の脚に組んだ右足を向かわせ、すりあげるように刺激する。

北条芳香は、軽く笑みを浮かべ、誘う目で私を見る。


「もちろんです。こうしてお話を聞いていただいているだけで、すごく嬉しくて。
もっと早くお会いして、色々とご相談に乗ってもらえばよかったと、今、後悔してます」

「そう……」

「森住さんにも、私、もっと自分をさらけ出さないといけませんね」

「……そう思ってもらえるのなら、こちらもそれなりに対処しないと」


このタイミングで互いのグラスを空け、そのまま店の外に出た。

一番奥にあるこの店の前に客の姿は見えず、私は目の前の女を引き寄せてみる。


「あ……」


もたれかかったその女は、私の鼓動が聞こえる場所に、しっかりと顔をうずめ、

両腕はこちらの腰に、しっかりと沿って当てられる。

彼女のあごを指で上へあげ、正面からじっくりと見た。

互いの息がかかるような距離まで近付き、耳元につけられた香りを吸い込んだ。




確かに色気もあり美人だが、私の心が1ミリも動くことはない。




「今触れたら、止まらなくなりそうだ」

「……そんな嬉しいことを言わないで」


その揺れた気持ちにだけ念を押し、互いにその日は別れた。

ここからが本当の勝負だと大きく息を吐き、タクシーに乗り、

後部座席にもたれかかったまま、何度も信号を通り過ぎる。

急ブレーキがかかり、目を開けると、『緑山南店』の前だった。

すっかり店の明かりは落ちていると思ったが、たった1台だけライトが光り、

その下で懸命にシザーを動かす柚希がいる。


彼女は私の元を飛び出し、さらに前へ向かっている……。

私は店と反対に視線を向け、その愛しい人から目をそらした。





疲れ切った体を、なんとか動かし部屋へ入り、上着を脱ぎ捨てた。

カーテンを少し開き、ソファーへ沈むと少し前に見た柚希の顔を思い出す。



『私、チーちゃんに人生をもらったから……』



千波さんは、妹のようにかわいがった柚希に、

自分にもあるはずだった、その先の人生を渡した。

意味をわかっているからこそ、柚希は夢を諦めず、

辛い試験や仕事にも耐え、さらに前へ進もうと努力しているのだ。




私は、君に何をしてやれるのだろう。




千波さんの身代わりではなく、柚希自身を愛した証。

それを、確かな形で残してやることが出来るだろうか。




こげ茶色の棚にある引き出しを開き、

その中にしまってあったシザーケースを取り出してみる。

もう何年も使っていないシザーを握り、軽く指を動かした。






【最後の花】


森住の心は、どこへ向かうのか……
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コメント

非公開コメント

納得しました

自分の心の向かう先を森住さんもしっかりとわかっていながら受け入れてもらえないなんて。。
体のこともますます心配です。

菜穂子の携帯番号は消去
芳香の誘いには乗るふり
したたかな女と男の勝負の軍配はどちらに?!

森住さんの真剣な気持ちをちゃんと伝えて
ちゃんと受け取ってほしいです~

森住の今

れいもんさん、こんばんは

>自分の心の向かう先を森住さんもしっかりとわかっていながら
 受け入れてもらえないなんて。。

森住も、辛いところです。
体の心配があるだけに、前へ出られないのもあるかな。
そして、柚希への思いは、
また、一つの方向へ……

さて、芳香との駆け引きは、
次回に続きます!