36 大事なこと(5)

36 大事なこと(5)


今日という日は、そう……ただの1日ではなく、

日向淳平が、俳優として、またひとりの芸能人として、ステップアップするため、

みんなで舞台を用意した、そんな晴れの日だった。

しかし、ポールが崩れた事故でイベントは中止になり、

日向さんは今、スポンサーに頭を下げている。





私は一人、何もすることが出来ず、病院のベッドで横になるだけ。





「悪いな、史香。なんとか淳平をここへ連れてこようと思ったけれど、
『メビウス』の木村部長につかまって、連れて行かれた」

「いえ……」


いつもなら、理由をつけて断る誘いも、こちらの方が不利な立場では、

断るわけには行かない。右足の小さな骨折は確かに痛むけれど、

そんな接待を日向さんにさせていることのほうが、もっと心を痛めた。


「しばらく実家に戻ってろ」

「田沢さん」

「骨折じゃ、色々と不便だろ。米原さんがお母さんに電話したみたいで、
お母さんも戻ってくるように言って欲しいと、そう返事をくれた」


雑用でも何でも、眠る時間を削って、マイナス点を埋めたいところだったけれど、

今の私ではきっと、また足手まといになるだけだろう。


「淳平も、お前が一人で部屋にいると思うより、
ご両親のところにいると思うほうが、安心するだろうし」

「そうですね」


何も言い返すことが出来なかった。

今、私が唯一出来ることは、仕事が詰まっている日向さんの、邪魔をしないことだけ。


「なら、タクシーを呼んでください。うち、車がないですし」

「いや、誰かが運転してくるって、そう言ってたぞ」

「誰か?」


父の将棋仲間でもある、向かいの酒屋さんにでも頼んだのだろう。

私のことも小さい頃から知っているし、

うちにもよく食べに来てくれる、お得意さんの一人でもある。


「『試写会』じゃなくて、よかったんだぞ、史香」

「田沢さん」

「うちの中で済ませられる規模で済んだんだ。
あまり落ち込むな。お前の責任じゃないんだし……」


いつもきつい言葉で、私の甘いところを指摘してくれる田沢さんから、

こんな優しい言葉を聞いてしまうと、逆にどうしようもないくらい、

落ち込んでしまう。


「田沢さんから、そんなふうに言われると、私……」

「ほら、下向いて泣いてばかりいるな。淳平にこれ以上、心配かけさせる気か!」

「……はい」





そうです。そのほうが、落ち着きます。





結局、その夜、日向さんが病院に来ることはなかった。

そんなことわかっていたのに、それでよかったと思っているのに、

私の頭は、少し眠ってまた起きてしまう。

何も考えないようにしようと思うたびに、出てくるのは涙だけで、

布団の端で、何度もぬぐいながら、必死に目を閉じた。





真っ暗な心のままでも、朝は必ずやってくる。

私は病院の先生から、診断書を受け取り、母が来るのを待った。

忙しいことはわかっているし、今会ったら、どんな顔をしたらいいのか、

それすらも決まってないのに、病院の玄関に止まるタクシーを見ると、

そこから日向さんが降りてくることはないのかと、じっと見てしまう。


「史香!」

「お母さん……」


父と二人で切り盛りしている店もあるのに、ここまで来させてごめんねと謝ると、

そんなこと気にしなくていいからと、母は私の足を軽くさすった。


「ねぇ、酒屋のおじさんにでも頼んだの? 車」

「ううん、若村くんが昨日、店に来てくれたんだよ。
米原さんから史香の事故のことを聞いて、それでどうしようかなんて言っていたら、
来てくれて」

「若村さん?」


このイベントを取り仕切った会社が、自分の会社の子会社だからと、

若村さんは私の輸送を引き受けてくれたのだと。母から聞いた。

確かに、うちの店と若村さんの実家とは、そんなに離れてはいない。

部活動の帰りに、何度か店で食べてくれたこともあった。


「申し訳ないと思いながらもさ、都心の運転なんて、
酒屋のおじさんも慣れてないし、この際、頼んじゃったのよ」

「うん……」


母が来るだけなら、部屋へ戻って持って行きたい荷物もあったけれど、

若村さんがついてくるのなら、あの部屋には行かないほうがいい、そう心が判断した。

ちょっとしたところに、日向さんのものが置いてあるかもしれない。


「駐車場に一応止めました」

「あ、若村君、今日は悪いね、本当に」

「いえ……」


昨日、すぐに顔を見せてくれた若村さんに、私は心が乱れたまま応対し、

失礼なことを言ってしまった。それを謝罪すると、気にするなと笑ってくれる。


「誰だって予想外のことが起きたら、笑ってなんていられないよ。ほら、行こう」


特に荷物があるわけではないし、病室を出て行くことは簡単なことだ。

でも、何か忘れているような気がして、後ろ髪をひかれてしまう。





『なんとか、病院にいけるようにするから、待っていて』





日向さん、次はいつ、会えるんだろう……

せめて声だけでも、聞いておきたかった。





車椅子に乗った私を、若村さんが押してくれた。

母は小さなカバンを持ち、先回りしてボタンを押してくれる。

エレベーターが1階に到着すると、玄関を入ったところに、小さな輪が出来ていた。

あからさまに携帯電話のカメラを向ける人もいて、私はその輪の中が見たくて、

動かしにくい体をなんとかそちらへ向けようとする。





日向さん……





母はすぐに気づき、日向さんに頭を下げた。

田沢さんと一緒に、スケジュールの合間を使って、ここまで来てくれたんだ。

感謝の気持ちを、言葉で伝えたいけれど、

ありがとうございますと、頭を下げることしか出来ない。



本当なら、昨日はどうだったのかとか、

顔を見て、手を握って、声をかけたいのに……





今、ここで……そんなことしてはダメ。





「ごめんなさい、日向はプライベートで来ていますし、
ここは病院ですから、写真はやめてもらえませんか」


田沢さんの言葉にすぐカメラをしまう人もいるが、しつこく何度も向ける人もいる。

中には勝手に日向さんの手を握り、握手をしようとする人まで現れた。





もういいです……日向さん。

仕事に戻って……

また、罪のないあなただけが、大変な思いをすることになる。





「大丈夫?」

「はい、すみません」


きっと、日向さんの心の中にある言葉は、こんなありふれた言葉じゃなかったはず。

もっと笑顔を見せてくれたはずだし、涙だってぬぐってくれたはず。

でも今、悲しい顔を見せてしまったら、きっと日向さんだって困ってしまう。

ここはなんとしても、笑顔で応対しないと。



私は大丈夫、心配なんてしないで……って。



「わざわざありがとうございます。しばらく休んできます」

「仕事のことは、心配するな」

「はい」


返事をしてくれたのは、田沢さんだった。

田沢さんも、私の精一杯の強がりを、きっとわかってくれている。





日向さん。あわせる顔がないと思っていたのに、

本当は会いたくて仕方なかったんです。

でも今は、あなたに近づけない。





「日向さん、ここだと患者さんに迷惑になるので、行きます」


若村さんの言葉に、ほんの数分の再会は、あっけなく幕を下ろされた。

田沢さんも日向さんの背中を叩き、行こうと合図する。

ガラス窓に映る日向さんの姿を見ながら、握り締められた右手のこぶしが、

ずっと頭の中に残った。


「忙しいんだろうにね、わざわざ来てくれたんだ」

「うん」


母は、おそらく気づいているだろう。

日向さんは私のために、一度家まで来てくれたことがある。

勇気のなかった私の心の扉を開けるために。


「行くよ、史香」

「はい……」


私と母を乗せた若村さんの車は、日向さんを残した病院から、どんどん遠ざかった。

交差点で止まった車の中に、すぐメールが届く。



『史香に必ず会いに行くから』



私は嬉しさを出さないように、『大丈夫ですから』を何度も送り返した。

本当は、会いたくて仕方がない。

足を引きずって歩いてでも、あなたの隣にいたいけれど、

今は……



『大丈夫です。しばらく親に甘えてます』



そんなそっけない返事をするだけで、

運転している若村さんに涙を見せないようにするだけで、精一杯。



『車椅子、押してやりたかったのにな……』



ずるいよ、日向さん。

こんなセリフ出されたら、我慢できなくなるのに。





涙……





自分の家なのに、幼い頃からの思い出も、たくさん詰まっている場所なのに、

心だけが落ち着かない。

とりあえず部屋に入り、ベッドで横になったけれど、

無駄な音だけが耳を通過し、母の言葉も、若村さんの言葉もあまり入ってこない。


今は会えない大事な人の声を忘れたくなくて、私の心は、少しだけ扉を閉めた。






37 大事なこと(6)


恋する二人と、空想に励む私に(笑)
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コメント

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けなげな史香。。

淳平、会いに来てくれたんだねT_T

握り締められた右手のこぶしと
『車椅子、押してやりたかったのにな……』の言葉に
淳平の悔しさが込められてます。
そばにいてあげられない辛さも。。

若村さんにも二人のことはわかっちゃったかな~

会いに行っちゃうだろうなあ~淳平
会いに行ってあげてほしいなあ~

嫉妬

ここでも『若村』
何かの意図を感じるな~~、それも嫌~な感じが・・・

時間をやり繰りして見舞いに来てくれたであろう淳平。
堂々と会えない悔しさは史香以上に感じてるだろうね。
そして車椅子を押す若村に嫉妬。。

会えない時間が愛育てるのさ~♪
と今更ながらこんな歌が出てきた。

淳平、寂しさ全開です

れいもんさん、こんばんは

>淳平、会いに来てくれたんだねT_T

はい、会いに来ました。
必死に来たのでしょうが、若村がいるし、
病院には一般の人もいるし……

結局、何も出来ない状態でした。

さて、会いに行くのか、行けないのか、
そして若村の存在は! ということで、次回へ続きます。

疑いの目

yonyonさん、こんばんは

>ここでも『若村』
 何かの意図を感じるな~~、それも嫌~な感じが・・・

yonyonさんの疑いの眼差し……が、想像出来る(笑)
目の前にいながら、声をかけることも難しい淳平。
こういう時は、イライラするでしょうね。

さて、若村の正体は? ということで次回へ!

どんな淳平かなぁ……

verwearさん、こんばんは

>毎回、はーとふるを楽しみにしています。
 私の淳平像は、今、ちょっと人気の俳優なんですけど(;^ω^A

楽しみにしている……
この言葉が、どれくらい励みになることか!

ありがとうございます。

verwearさんの淳平、誰なんだろう。
お好きな人で、空想、想像してくださいね。

試練ですね

yokanさん、こんばんは

>ちょっと溜息がでちゃうね~・・・、
 こんなことでへこたれていてはいけません!

はい、史香と淳平、試練が訪れました。
まぁ、色々ないと、続かないし(笑)
この後、どうなるのか……もう少しおつきあいください。