41 航の決意

41 航の決意




冬の冷たい風が、すっかり葉を落とした木々にあたり、強く揺らす。

航が左手に持ったコーヒーカップからは、まっすぐに湯気が上がり、

窓ガラスが少しだけ曇った。

目覚める時間が早すぎたのか、まだ、どこからも生活の音が聞こえてこない。

航はカップに口をつけた後、曇ったガラスを手で軽く拭き取った。


海人が家を出てから、航の周りでは、それを平然と受け入れる人たちと、

悲しみ嘆く人たちが交じり合い、

自分の気持ちをどこへ持っていけばいいのかすら、わからなくなっていた。

誰に弱音を吐くことも出来ずにいた航を支えたのは、

やはり友海しかいなかった。

きつい言葉の中にある、大きな優しさと、自分を受け入れてくれた暖かい場所に、

崩れそうになった気持ちを、立て直すことが出来た。





「海人が?」

「出て行く前の日、『天神通り店』にふらっと立ち寄って、
私に、お前はそんな態度で怖くないのかって」

「怖い?」



昨夜の航は、月明かりの下で、互いに肌を寄せ合ったまま友海の言葉を聞いた。

海人がいなくなる前の日、『天神通り店』に姿を見せたことなど知らず、

あの日は、聖のところに会いに行き、結局、心のうちを語ることが出来ないまま、

家を出たのだとそう思っていた。


「地位のある人間には、それなりの態度を取るのが当たり前だみたいなことを言って。
私は、それを突っぱねたんですけど……その時」

「何か言ったの?」

「私は、ここではない場所でも、生きていけるからってそう言いました。
その言葉を繰り返すようにつぶやいていたので、気になって」



『ここじゃない場所でも、生きていける』





航は、昨日聞いた友海の言葉に海人が全てを捨て、

新たな場所を探そうと思ったのかと、まだ、夜が明けきらない町の静けさに、

じっと耳を傾ける。


「あら……航、早いじゃないの。昨日は何時に帰ってきたの?」

「ん? うん……」


羽織ったカーディガンに腕を通し、澄香は先に起きたのなら、

暖房のスイッチくらい入れなさいと言い、タイマーで炊きあげた炊飯器を一度開く。

温かく優しい香りが台所に広がり始め、航は窓の側から離れると、

カップをテーブルに置いた。


「昨日は、ちょっと遅かったんだ」

「そう……。会社、まだ落ち着かないの」

「うん……」


友海の部屋で過ごしていたことを知らない澄香の質問に、

航は当たり障りのない返事だけをした。それでもじっと見つめる目に、

何かが読まれそうな気がして、つい、視線をそらす。


「航、睡眠はしっかり取りなさいよ、体、壊すからね」

「あぁ……わかってる」


航は着替えるからと階段を上り、澄香はそんな様子が気になり、

姿の見えなくなった階段の方を見ながら、冷蔵庫の扉に手をかけた。

航と澄香が、下で一日を動かし始めた時、

友海は、まだ布団をしっかりと握りしめたまま、

いつもの場所にある『碧い海の絵』をじっと見つめていた。

航と二人で過ごした時間は、月の明かりが消えても、

友海の中にしっかりと残っている。



『来なければよかったのかもしれないな……』



弱気だった航の気持ちは、少しでも前向きになれたのだろうかと思いながら、

ぬくもりのあった枕に、そっと唇を寄せる。

友海は、暖かい布団からすぐ抜け出すことが出来ずに、

あと少しだけと、目を閉じた。





航の携帯電話が鳴ったのは、朝食を食べ終えてからすぐのことだった。

かけてきたのは叔母の登志子で、会社へ向かう前に家に来て欲しいと言われ、

出社時間をずらし、そのまま新谷家へ向かった。

北風はさらにきつく吹きつけ、航は首に巻いたマフラーに触れる。


「叔母さん……」

「航……ごめんなさいね、とにかくそこへ座って」

「うん……」


登志子はリビングへ航を入れると、すぐに紅茶の準備をし始めた。

航はサイドボードの上に乗せてあった、祖父の写真を手に取ってみる。

写真をしっかり見ることも、航にとっては初めてのことだった。

自分の存在を知りながら、結局、最後まで語り合うことのなかった祖父。


「朝戸さんから聞いたのでしょ、遺言のこと」

「うん……」

「もっと早く、航には言うべきだったのかもしれないわね。
でも、騙そうとしていたわけじゃないの、それだけはわかって」

「わかってる。そんなふうには思ってないよ」

「そう……ならばいいんだけど」


和彦と海人の二人が、会社をしっかりと支えていけばいいと、

一番思っているのはここにいる登志子のはずで、

こうなったことで一番苦しいのもまた、登志子なのだろうと、

航は一度も会うことのなかった祖父の顔を見ながら、軽くため息をつく。


「ねぇ、航。これなんだけど……」

「何?」

「昨日、海人の部屋を色々と見てみたの。どこか行き先の手がかりがないかとか、
でも、それらしきものは何もなくて。ただ……」


登志子がテーブルの上に置いたのは、業界新聞から切り抜いた記事だった。

片方はライバル店舗が協会を抜け、独自の商法を始めたこと。

そして、もう一つが、『SI石油』の『天神商店街』との共同出資で

設置された駐車場のことだった。


「あの子が、新聞を読んでいる姿も見たことがなかったし、
仕事に対してもやる気があるのかどうかもよくわからなかった。
でもこうして、日付を残して切り抜いているのを見ると、
ただ、嫌になって出て行ったとは、思えなくて……」


『天神商店街』のことに関しても、さんざん文句を言い続けていた海人が、

実はしっかりと気にしていた事実を知り、航はその切抜きを見ながら、

あらためて、もっと歩み寄ることが出来なかったのだろうかと、ため息をつく。


「叔母さん、僕も海人に会ってきていい?」

「会うって?」

「出て行った日は、真湖が興奮していて、海人の部屋にあまりいられなかった。
今日はもう一度、あいつと語り合えるように、部屋に入ってみたいと思って」

「海人に?」

「うん、きっと、何か感じることがある気がするし、
こんな切抜きがあるってことは、もしかしたら……」


航は切抜きをつかみ立ち上がると、そのまま階段を上がった。

海人の部屋へ入り、あらためて中を見回してみる。


「この切抜きはどこから出てきたの?」

「あ……この机の引き出し」

「うん」


海人は出て行く前に友海と会い、この場所でも生きていけると言われ、

気持ちを固めたのかもしれないと、そう思っていた。

しかし、海人がこの部屋を出て行った日、

聖はすぐ、海人はこの場所でしか生きたことがないのにと嘆いたことを思い出す。


「叔母さん、考えれば考えるほど、僕も海人がただ出て行ったとは思えない。
何か、行き先のヒントがあるような、海人の心がどこかに残っているような
そんな気がして。だから一緒に探して欲しいんだ」

「探す?」

「あいつが、ここを出て、何をしようとしているのか」

「航……。でも、あれから机の中に、何か地図でもと思って見てみたけど、
何もなかったわ。仕事で出かけた場所の資料などはいくつかあるけれど、
それはただ置いているだけに見えるし、前からずっとあるものだし」


海人がいなくなってから、登志子はすぐに部屋の中を探したらしく、

以前、泊まったことのあるホテルなどには、すでに連絡をしたと付け足した。

航はその話を聞きながら、机の引き出しを一つずつ手前へ引く。

確かに登志子の言うとおり、これといったヒントになるようなものは、

何も出てこない。


「ん?」


しかし、一番左にある薄い引き出しを開けようとした時、

何か奥で挟まっているようなそんな違和感があった。

航はもう一度引き出しを戻し、あらためてゆっくりと手前に引いていく。


「何か引っかかっているみたいだ」


机の下に潜るようにして、引っかかりと探すと、

挟まっていたのは1冊のノートだった。

航はそのノートを左手でつかみ、破れないように取り出していく。


「これ……海人の字だよね」

「……そうね」


航はまだ、高校生くらいの海人が、『SI石油』の経営者になるために、

懸命に学ぶつもりで調べた、資料の切り抜きをじっと見た。

ライバル会社となる店舗に顔を出し、

気になったところを書き留めてあるページも見つかる。

何年も前のものもあれば、ほんの数週間前の記事も、

まだ貼り付けないままになり、ノートに挟まっていた。

登志子が見つけた切り抜きも、その中の一つなのかもしれないと、

航は引き出しの中にあった糊を使い、空いたページに貼り付けていく。


「叔母さん」

「何?」

「海人は必ず戻ってくる。冗談でも、慰めでもなく本当にそう思う」

「航……」

「あいつほど、会社のことを考えている人は、他にいない」


航は貼り付けた切り抜きをしっかりと押さえ、ノートを閉じた。

表紙に残された文字を見ながら、沸き上がった思いを整理する。


「でも……海人は……」


登志子は、海人が仕事を投げ出し、家を飛び出したことで、

社員がこの先、着いて来ないのではと、また下を向く。


「大丈夫……このノートがあれば、きっと一つになれる」


航は、海人が残したこのノートの存在に、

どこかもやがかかっていた自分の道も、なぜか開けてきた気がした。


「叔母さん、これ、僕が持っていてもいいかな」


登志子は、海人が前向きに仕事に取り組んでいたことを知り、

ここへ来た航が、海人の復帰を信じていることがわかり、

少しだけ笑顔を取り戻し、何度も小さく頷き返す。


「よかったよ、ここへ来て」


航は、ノートを握りしめながらカーテンを開け、外の空気を中へと送り込んだ。





42 手探りの過去
<photo:tricot>

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コメント

非公開コメント

ここまで一気に読んできちゃいました。^^

海人、姿を消しているけれど彼にはこの会社しかなかったし、
高校生の頃にはこの会社のために、という純粋な気持ちが強かったのね。

ならば、今はどうして?なにが?
父の存在が大きくて、会社というものの存在が大きいのか
それでも航と一緒で彼が戻ってきそうな気がする。

離れてみて心がシンプルになったらきっと自分の必要なものが
ちゃんとわかりそうな気がする。

航は自分の存在や自分が会社に来たことで
思わぬ波紋が投げたように思っていけるけど、
やっぱりそれは引き合わなければいけなかったんだろうね。
これからの会社のために、友海との出会いのためにも。

ちょっとづつ、明るい兆しが見えそうです。^^

心をシンプルにね

tyatyaさん、こんばんは

>ならば、今はどうして?なにが?

跡継ぎであるということを、たたき込まれてきたはずの海人。
しかし、彼が思っているよりも、現実は厳しく……というより、
切なく……。

>離れてみて心がシンプルになったらきっと自分の必要なものが
 ちゃんとわかりそうな気がする。

そうそう、離れてみてと、
自分のいた環境の良さも、悪さも、
わかることってありますからね。

さて、海人はいずこに……

それに関連し、落ち込んだ航ですが、
友海の励ましと、海人の本音が少しだけ見え、
気持ちを入れ替えました。