41 大事なこと(10)

41 大事なこと(10)


日向さんのイベントで負った足の傷は、すっかりよくなった。

落ち込んだ心の傷も、ちゃんと前向きに変わり、

また、仕事に戻ることが出来るという矢先、

私のお見舞いに来てくれた日向さんの写真が、週刊誌『WEEK』に掲載された。

少し前に撮られたはずの写真は、『相良家の人々』の公開日にあわせて発売され、

舞台挨拶に来る日向さんは、その報道から逃げることが出来ず、

私との付き合いを認めるコメントを出してしまった。


ファンの方や、事情を知らないスタッフも驚いただろうが、

何も知らなかった事務所の社長も、ゴルフコンペを欠席し、

積み重なっていく取材やマスコミの応対で、動けなくなった。





写真が掲載されてから3日後、私は事務所のあるビルの前に立ち、大きく息を吐く。

まさか、こんな気持ちで、ここに戻ってくることになるなんて……。





「失礼します」


事務所の奥には、少し前まで一緒に仕事をし、

美味しい紅茶を飲んだ佐藤さんが座っていた。私はきちんと頭を下げる。


「前島さん、足、大丈夫?」

「はい、怪我はすっかりよくなりました。あの……」


佐藤さんは私が言いたいことをわかってくれているのか、

左腕をつかみ、無言で何度か頷いてくれた。

結果的に、隠していた事になることが申し訳なく、私は言葉を返せない。


「社長が奥にいるから」

「はい……」


いい話じゃないことはわかっている。それでも、入らなければならない。

そんな1歩を踏み出す私の足は、接着剤の上を歩いているように重たかった。


「失礼します、前島です」

「入りなさい」


社長と顔をあわせるのは、入社してから3度ほどしかない。

父に近い年齢で、ゴルフへ行った時のお土産をもらったり、

いつも楽しい話ばかりしてもらった。しかし、今日は、そういうわけにはいかない。


「昨日、日向をここへ呼んだ。事情を説明させたけれど、
片方だけの意見を聞くわけにはいかないから、君をここへ呼んだ。
言いたいことはわかるよね」

「はい……」


社長は1冊のファイルを開き、並ぶ写真を見せてくれた。

うちの事務所に所属しているタレントは、研究生の保坂さんを含めて20名いる。

その先頭の写真は日向さんで、事務所内の壁にかけてある写真も、

同じく一番左が日向さんだ。


「うちは、業界では小さい事務所だ。大きな組織ではないから、
スキャンダルが出ると、それを打ち消すことも難しい。
年頃のタレントを抱えているのだから、こういった恋愛ごとを
全てNGというわけにもいかないことくらい、私だってわかっているが、
しかし……君はスタッフだろ、入社するときに『社内恋愛禁止』の話は、
聞いていたはずじゃないのか」

「はい……」




聞いていた。わかっていたけれど、だけど……

そんな文字を横に並べるように、気持ちはうまくコントロール出来ない。




「日向は昨日、自分の気持ちに、君が応えてくれたんだと、
そう何度も言っていたが、それで間違いないのか」

「一度は会社を辞めようと思いました。でも……」

「田沢も、自分が事務所に残るように指示をしたとそう言っていた。
それも間違いないのか」




田沢さんが私を残したのだとすれば、田沢さん自体も規則違反をしたことになる。

そのまま認めてしまっていいのだろうか……




「米原さんと田沢は知っていたと、そう報告を受けた。
本来なら、日向を含めて全てが規則違反だとなるところだが……」


社長は目の前に1枚の紙を置いた。そこにはグラフらしきものが記されている。


「日向の活動は、今、うちの事務所の中心だ。
その売り上げで支えられていると言っても、過言じゃない。
その日向をここまでにし、支えてきたのは、ベテランで経験のある田沢だし、
米原さんの仕事も、他の人に変えるわけにもいかない」





誰かに、代わってもらうことなど、出来ない人たち……





そう、私以外の人たちは、みんなそれだけ存在価値のある人だった。





「こんなふうにしか言えないのは、申し訳ないと思うが、それが現実だ。
理解してもらえるだろうか」

「はい……」


誰の邪魔もしたくないし、誰のお荷物にもなりたくない。

私は、私なりに仕事をしていたつもりだったけれど、それはほんの小さなこと。



「日向は、これからこの世界を背負って立てる役者になる。
今、他の事務所から、余計なことをされて、つぶされるような素材じゃないんだ」

「はい……」





別れて欲しい……





きっと、社長はそう言いたいのだろう。





「相手女優とでも噂になれば、営業につなげるが、
スタッフ相手じゃ、どうにもならないなぁ……」


軽い冗談を言うように、社長はソファーから立ち上がったが、

私はその冗談に、笑い返すことなど出来なかった。

久しぶりの再会は10分も経たないくらいで終わり、

社長は次の仕事に向かうため、事務所を出て行った。

出されたけれど、口をつけなかった湯飲みを両手に持ち、私は社長室を出る。


「前島さん、紅茶一緒に飲まない? また美味しいの見つけたんだよ」


下を向いたまま社長室を出てきた私に声をかけてくれたのは、

ずっと一緒に仕事をしてきた佐藤さんだった。


「佐藤さん、色々とご迷惑かけました」


佐藤さんは首を何度も振りながら、私のために紅茶を入れてくれる。

いつも使っているカップに、新しい紅茶の香りがし始めた。


「社長も辛いのよ。前島さんが来る前に、ずっとため息ばっかりついていたんだから」

「ため息……ですか?」

「そうよ。あなたが一生懸命仕事をしてくれていたことも知っているし、
昨日、日向君がここで訴えたこともわかっているし、
でも……それを認めてしまったら、規則を作った意味がないでしょ。
他のタレントさんたちからすれば、日向君だけ特別扱いしていることになってしまう」




そうだった。

ここには保坂さんをはじめ、年頃のタレントが所属している。

決めた規則に違反したことを許してしまえば、次の時に、しかることさえ出来なくなる。




「日向君はね、社長が見つけた素材なのよ。
映画の製作会社に入って、大道具の手伝いをしていた時、
薄汚れたジーンズで、使い終わったセットに腰かけて、本を読んでいたんだって。
彼を見た途端、心がググッと動いて、自分がなんとしてもトップに立たせるから、
うちへ入ってくれって、そうスカウトしたんだぞっていうのが、
酔ったときに社長がよく話す、自慢なの」


日向さんがそんな形でこの世界に入ったことは、前にも少し聞いたことがあった。

若村さんも言っていたが、そこにいるだけで存在感がある人というのは、

確かにいるのかもしれない。





選ばれた人……





まさしく、日向さんは、それだけの人だ。





「書類、渡すね。こちらの事情で辞めてもらったことにするから、
失業保険、すぐに出ると思う」

「はい……」


佐藤さんは引き出しの中から書類の入った袋を取り出し、私に差し出した。

私は軽く頭を下げ、それをしっかりと受け取っていく。


「楽しかったよ、あなたと一緒に仕事が出来て」


優しい佐藤さんの言葉に、私は紅茶のカップを手の中に収めたまま、

流れそうになる涙を止めるのに、ただ、必死だった。





私は、久しぶりにアパートへ戻り、部屋の空気を入れ替えた。

怪我をする前の日そのままの状態で、イベント会場の案内図や、

スタッフの配置が書かれた書類のコピーが、小さなテーブルに残っている。

あの日、あのイベントが問題なく終了していれば、

私は、今日と言う日を、迎えることもなかったのだろうか。





『たら』と『れば』は無意味なことだけれど、

今は、そんなことしか、考えられない。





明日は、どうなるんだろう……





書かなければならない書類を握り締めたまま、私は壁に寄りかかり、

通り過ぎていく、車のエンジン音を聞き続けた。





その日は家に戻る気持ちにはなれずに、アパートで過ごすことにした。

日向さんから電話があったのは、その日の夜で、手に持っていたボールペンを置き、

受話器を開ける。


「はい……」

「あ、史香……今日、事務所に行った?」

「はい、社長と会いました」

「……で」


私は、話し合いで納得し、退社を承諾したことを告げた。

日向さんはしばらく黙ったままだったけれど、

受話器越しに、小さく『ごめん』という声が聴こえてくる。


「どうして謝るんですか。日向さんの責任じゃありません。
規則を守らなかった私が悪いんです」

「守ってないのは、僕も同じだろ……それなのに史香だけ……」

「当たり前じゃないですか。
うちの事務所から、日向さんがいなくなったらどうなるんですか。
小さいんですよ、すぐにつぶれちゃいます。
田沢さんの実力だって、他のマネージャーさんたちとは、比べものになりませんし、
私、これでも色々な方を見てきましたから。それくらいわかります。
米原さんだって、トップのスタイリストなんですよ。
指名がかかるくらいの人なんですから」



しんみりしたらいけない……

そんなふうにしてしまったら、日向さんが苦しいだけ……

日向さんを助けることが出来れば、私はきっと、また、前向きに生きていける。



「みなさん、それだけの人なんです。
その点、私の仕事は、代わってもらうことも簡単ですし……」







「史香の代わりなんて……僕にはいない」







止まってしまった。

小さな頭で必死に考えたシナリオは、どこかに飛んでいってしまった。

ただ、日向さんの気持ちが、嬉しくて……





そして……





苦しくて……






42 大事なこと(11)


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コメント

非公開コメント

辛いねT_T

>「史香の代わりなんて……僕にはいない」

淳平ってぶれなくて変わらない。
今日は、思わずはじめの5話を読み返してしまいました。
第1話から今まで淳平は変わってない*^^*
周りの人のこを考え過ぎちゃう史香も変わってないです。

これからどうなるのかしら~
切ないわ。

ダメと言われても・・

仕方が無い処分なんだろうね。
社長も辛いだろう。

でもね~恋って落ちちゃうものだから、恋愛禁止だからしないわ。
で終わるなら誰も苦しまない。

とりあえず『別れる』ということは無さそうだし・・・
淳平の気持ちが、史香の代わりは無い。ってことなら大丈夫でしょう。

淳平としては

れいもんさん、こんばんは

>淳平ってぶれなくて変わらない。

私は芸能人ではないんですけれど、とうの本人は、
特に一般人と変わっている……という認識はないような気がします。
なので、どこが悪いの? くらいにしか、
感じていないはず。

しかし、史香の立場は複雑で。

さて、どうなるのか、もう少しおつきあいください。

社長さんも辛いよね

yonyonさん、こんばんは

>仕方が無い処分なんだろうね。
 社長も辛いだろう。

ここはね。
仕方がないよね。
許してしまったら、決めごとの意味がないし。

淳平には別れる選択肢はないでしょうね。
史香も複雑ではあるけれど、
あえてスパッとやめて、意地を通すことになる……のだろうか。

もうしばらく、おつきあいください。

みんなの力

yokanさん、こんばんは

>ここは踏ん張りどころかしらね。

はい、そうでしょうね。
人として当たり前のことなわけでして、
それをプラスとするのか、マイナスとするのかは、
みんなにかかっている気がします。
さて、どうなるのか……

もうしばらく、おつきあいください。