8 心を癒す場所

8 心を癒す場所


その日は、酒を浴びるほど飲み、タクシーで家へ戻った。

何が起きたのかと心配する母と父の横で、葵だけが冷静にコップを差し出してくる。


「……ありがとう」


スーツにかかることなど考えず、とにかく水を口に入れた。

ノドの乾きはおさまることなく、水道の蛇口を強くひねる。


「何があったの、大貴」

「いいから、放っておけ」

「でも……」


父に連れられた母がリビングを出た後、僕はそのまま長いソファーで横になった。

ネクタイを緩め、それを床に落とす。

こうしている間にも、時は確実に過ぎ、

沙織との距離がますます離れていく気がしてしまう。


「はぁ……」


広島に向かうことも出来るが、相手の牙城を崩すのはそう簡単なことではないはずだ。

何かミスを犯して、警察に捕まるようなことにでもなれば、元も子もない。


「お兄ちゃん」

「大丈夫だ、ほっといてくれ」

「沙織さん、広島へ行ったの?」


葵の言葉に、僕はすぐ飛び起きた。

どうして葵がそのことを知っているのだろう。


「お前……」

「今日、杉町さんの従兄弟が、そう言っていたから。
沙織さんとは言わなかったけれど、広島に、翔のお嫁さんが来ているって、だから……」





『お嫁さん』





粘着力の強い、そして限りなく質の悪い接着剤が、僕と沙織にからみつく。

もがけばもがくほど、相手の手の中に落ちそうな、

蟻地獄があるようにさえ、思えてきた。


「勝手に連れて行かれただけだ。沙織はそんなことで、折れたりしない」

「……そうよね」

「あぁ……いいから寝ろよ。次に会ったらそう言っておけ」

「……うん」


葵は僕が落としたネクタイを拾い、丁寧にたたむと、それをテーブルの上に乗せた。

時計が夜の2時になり、一度大きな音をさせる。

どうにかして突破口を見つけなければと思いながら、目を閉じると、

小さな暗い部屋の中で、一人座っている沙織が浮かび上がった。





絶対に助けてやる……





そう思いながら、両手を強く握りしめ空想を断ち切っていく。

ふらつく体をなんとか起こし、リビングを出ると洗面台の前に立った。

蛇口をひねり、勢いよく流れていく水に両手を差し出し、

僕はまた、明日を迎えなければならないと、その手で水をすくい何度か顔を洗った。





次の日、研究所前のグラウンドへ向かうと、めぐみが一人で朝練をしていた。

今日は、九州で大会があり、メンバー達は昨日から移動を済ませている。

まだ、正式なメンバー扱いではないめぐみは、エントリー出来ず居残っていた。


「おはようございます、寝不足ですか?」

「……よくわかるな」

「わかりますよ、疲れは顔に出ますからね」


どんなに乱れた気持ちで朝を迎えても、何かに熱中している人を見ると、

どこか心が晴れる気がした。めぐみが締めの運動をしているのを見ながら、

少し前に語ってくれた話を思い出す。


「癒しの町には、帰っているのか?」

「エ……あぁ、実家ですか? あさってから3日くらい戻って来ます」

「あさって?」

「はい。大会メンバーのみなさんが戻ったら、
それから本格的にレースへの準備が始まるので、
その前にちょっとだけ、親の顔を見てこようと思っていて」

「へぇ……」


発作的に、その旅にそのまま着いていきたい気持ちに駆られた。

『癒されたい』という思いが、ため息になって下へ落ちる。


「何かあったんですか? 昨日は……」

「昨日?」

「昨日、広報の尾崎さんが、大貴さんが来るからって動いていたのに、
結局いらっしゃらなくて、がっかりされてました」

「そんなに毎日、顔を出したっけ?」

「はい、ちょこちょこ……」


めぐみは笑いながらそう言うと、仕事の時間が迫っていると、

慌てて研究室へ入っていった。





その日は、なかなか体が自由にならず、夕方と言われる時刻を通りすぎた頃、

僕はやっと自分の時間を作り、沙織の父がいる事務所へ向かった。

出てきたのは秘書と名乗る男で、『先生はお留守です』の一点張りを貫こうとする。


「それならば、いつお戻りになるのか、教えてください。
何時でもここで待ちますので」

「お帰りください」

「帰れません」


沙織の父親が、すぐに動くとはとても思えなかったが、

何もしないでいることは出来なかった。僕はまだ諦めていないのだと、

意思を表示するだけでも、違うはずだ。

事務所の前の道にある、電信柱に寄りかかりながら帰りを待っていると、

夜の8時近くになって、黒い車が事務所の前に止まった。

思わず駆け寄りそうになったが、出てきたのは沙織の父親ではなく、

杉町と、それを囲む男たちだった。

何度も僕を拒絶した秘書が、すぐに扉を開け、中へ通す。

いないなんてウソだった。

始めから、会うつもりもなかったのだろうか。

もう一度、道路を渡り、秘書に中に入れてくれと頼んでみるが、

明らかにウソだとバレているのに、『先生はいない』を繰り返す。


「いい加減にしろ。今、杉町が入ったじゃないか! 話しをさせてくれ。
このままじゃ……」

「お帰りください」

「お前……」


僕は秘書に腕をつかまれたまま、大声を出した。

仕事帰りのサラリーマンがコンビニの袋を持ち、

また、部活を終えた学生が自転車に乗り、何人も通り過ぎていく。

商店街の中にある事務所前で、いきなり叫び声をあげた男に通行人が足を止め、

玄関前にいた秘書は、明らかに困った顔をする。


「開けろ! 中に入れるんだ」

「出来ません。いい加減にしてください」


そんな押し問答を5分くらい繰り返していると、近所の交番から警官が走ってきた。

僕はちょうどいいと思い、事情を話そうとしたが、腕をつかまれたのは僕の方で、

体を事務所前から、曲がり角まで引っ張られてしまう。


「何をするんだ、離せ」

「いい加減にするのはあなただ。通報があったんですよ。
事務所前で奇声をあげている男がいて、身の危険を感じるって」

「身の危険? 何を……」


警官は僕の言葉に首を振り、そして小さな声で、帰りなさいとつぶやいた。

このまま意地を張り、事務所前に居続けると、

逮捕しなければならなくなると付け加える。


「相手は政治家だ、とにかく今日は下がりなさい」


なぜ僕が、これほど必死なのか、不思議そうな顔をして通り過ぎる、

町の人は誰一人として知らない。

僕の全てと信じ愛した人が、救い出せないもどかしさを、どう伝えたらいいのだろうか。



フラフラと歩きながら、公園のベンチに腰かける。

月明かりは、全ての人を同じだけ照らすのだろう。

囚われた沙織も、今、この月を見ているのだろうか。

見上げた月がゆがみだし、僕の目からは涙がこぼれ落ち、

その姿を見ているのが申し訳ないと思ったのか、月は雲を使い自らの姿を隠した。




僕の足が向かった先は、昨日の店だった。

あの『少女A』は、別客の接待をしていて、僕の席にはまた新しい女の子が座る。


「ボトルがあるんだけど」

「あ……はい、お名前は」

「……佐久間です」


沙織が奪われた出来事に、疲れきった顔をしていたのだろう。

その女はあまり愛想のいい顔をしないまま、ボトルを取りに向かったが、

酒の銘柄に羽振りがいい男だと思ったのか、急にニコニコと戻ってくる。


「すぐにお作りします。オードブルもいかがですか?」

「いらない」

「でも……」


金があるとわかった途端、露骨に顔色を変えた女は嫌だった。

男性店員を呼び、他の女性に変えてくれと頼んでみる。

僕は確かに、虫の居所が悪かった。

彼女にはそれほど罪はないのだろうが、妙にその態度が気に障る。


「お客様、うちの『まひる』が、何か失礼なことをしましたでしょうか」

「いいんです。気分が変わったので、女の子を変えてください」

「でも……」


『まひる』と呼ばれた女の子は、どうしたらいいのかわからない顔をして、

その場に突っ立っていた。

それでも僕が何も言わないので、仕方なくボーイが他のホステスに変えようとすると、

その間を割って出てきたのは、『少女A』だった。


「まひるちゃん、ここへ座って。ほら、お客様にすぐ作って差し上げないと」

「あかりさん……」


『少女A』の名前が『あかり』だったことを、このとき初めて知った。

あかりは少し背中の空いたドレス姿で、僕の横に腰かける。


「君を呼んだ覚えはないけれど」

「意地悪いお客様には、私が向いているんです。まひるちゃんはまだ新人ですから、
どうか暖かく迎えてあげてくれませんか?」


あかりにそう言われると、なんだか自分がとても子供じみたことをした気がして、

申し訳なくなる。


「悪かった。ちょっと色々とあって……」

「いいんです、色々とあるからこそ、みなさんここへいらっしゃるんですから」


あかりは手馴れた手つきで、昨日と同じ酒を目の前に用意した。

僕は、立ったままのまひるにも声をかけ、一緒に飲みましょうと誘ってみる。


「ありがとうございます」


まひるは少しほっとした顔で、あらためて僕の横に座った。

騒動が治まったと思ったボーイは、一度頭を下げると、また玄関前にスタンバイする。


「うちは指名されてアップ、クレームでダウンの給料方式なんです」

「アップとダウン?」

「そう。だから、まひるちゃんがもし、あなたに追い返されたら、
ダウン……ってことになる」

「あ……」

「佐久間さんにも事情があるように、私たちにも色々と事情があるんですよ」


あかりはそういうと、また左にえくぼを作って見せた。





それから2日後、僕はある船の中にいた。

どこまでも広がる海の上を、かもめと競争するように進んでいく。

快晴になった空は、太陽の光を海に映し、眩しい光を送り出す。


「大貴さん、そろそろです」

「うん……」

「久しぶりなんです、私」

「そうか……」


沙織がいなくなって5日後、

めぐみが教えてくれた癒しの町に、僕は初めて足を踏み入れた。







9 女の香り

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コメント

非公開コメント

辛いな~~

何から初めて、どう行けばいいのか分らなくなっている状況では、
めぐみの癒しに同行するのは悪くないと思う。何かが少しでも変わる気がする。

しかし佐織父や杉町次男、やり方が汚い。

純粋な心をもてあそぶな!

ガマンの時

yonyonさん、こんばんは

>何かが少しでも変わる気がする。

大貴もそう思い、めぐみと癒しの町へ出かけました。
思い詰めているだけでは、進まないですからね。

創作史上、最強の杉町ですから、
汚いのは当たり前で(笑)

辛い展開ですが、よろしくお願いします。

すみませ~ん

pokoさん、こんばんは。

>どこから解決していくのか、全くみえないですね。

はい、大貴もそう思っていると……。
癒しの町で、何かが変わるといいのですが。

>ちょっと読みながら辛いのですが、逃げずに頑張ります。

あぁ……すみません。
そう言われちゃうと、私も辛いんですが……
なんとかお付き合いください。

イラつくかもしれないなぁ

yokanさん、こんばんは

>今回はチトいらいらしながら読んじゃいました(ーー;)

いやぁ……確かにそうかもしれませんが、
まだイライラは増えてしまうかもしれません。

大貴の周りにいる女性達、
どんな役割を果たすのか、それもお楽しみいただければ……


……いいんですけど(笑)