16 肌の距離

16 肌の距離


父には、自分のことを見つめなおしたいと理由をつけ、一人で暮らすことを話した。

あらかじめ不動産屋に頼み、すでに物件も見つけた後だったので、

僕の強い意志を感じ取ったのか、特に反対はされなかった。

薄々、葵の気持ちに気づいている母は、何も言わずに見守り続け、

葵はあれから、一度も僕と口を聞こうとしない。

季節が10月になる少し前、僕は生まれて初めて、一人暮らしをすることになった。

仕事から戻っても誰もいない部屋は、味気なくもあったが、

わずらわしい視線がないことは、逆に心の余裕を作る。

何もかも一人で一つずつこなしながら、慌しく1ヶ月が過ぎた。





僕は、久しぶりにあかりの店へ向かう。


あかりは別の客と席に着いていて、珍しく『かな』が横に座った。

店のトップが、指名客でもないのに座るのはどうなのかと聞くと、

自分にはそんなこだわりはないのだと、笑顔を見せる。

それにしても、お酒を作るタイミングから、話題の振り方まで、

さすがにそつがない。


「君の話題は豊富だね、笑わされたよ」

「そうですか? それならばよかったわ。
どうせお酒を飲むのなら、楽しい方がいいでしょ?」


挨拶程度に座ってくれた『かな』が席を離れ、あかりが隣に座った。

相手をしていた客はいいのかと聞くと、あかりは人の右足を、強くつねってくる。


「痛いなぁ……」

「何よ、『かな』にデレデレして」

「していないよ、考えすぎだ。もう少し色々と話をしようと思ったのに、
君が怖くてすぐにいなくなってしまった」

「あら……それならきちんと指名でもすれば?」

「そうだね」


あかりの目は鋭く、これはこの後、あれこれ嫌味を言われるだろうなと覚悟する。

それでも、そんな焼き餅を妬かせる行為が、

あかりの女である部分を刺激することも、僕は知っている。

人の脳はきっと、研究されているよりも単純なものなのだろう。

仕事を終えるまで店で付き合い、その後彼女の部屋で当たり前のように抱き合った。

互いに酔いを残しながら、ただひたすら相手の体に触れていく。

口付けを交わし、五官を使って刺激しあいながら、満足する瞬間を迎えた後は、

すっかり酔いも覚めていた。


「これ……なんだよ」


テーブルの上に置いてあった、金色の招待状を手に取ると、

そこには『ヴィーナス』という店名が入っていた。

あかりはそれを僕から奪うと、中に入っていた紙を自分の胸に貼り付ける。


「ん?」

「私ね……スカウトされているの、来てくれないかって」

「スカウト?」


『ヴィーナス』は、先日まひるがここへ来て語ってくれた、

杉町が贔屓にしているホステスが、援助を得た形で開いた店だった。

『かな』と同期でライバルだった女は、その現在のライバルあかりを引き抜き、

店のトップになれと手紙をよこした。

僕はあかりが胸に貼り付けたその手紙を、自分の舌を使って取ってやる。


「うふふ……くすぐったい」

「そうしろってことだと思ったけれど」


井ノ口雅美というのが、『REICA』と呼ばれるママで、

店を持った以上、自分は経営のことを第一に考えていきたいと、

直筆の手紙で胸の内を明かしている。


「自分がホステスで、さらに経営してっていうのは、相当に辛いことなのよ。
それだけの投資をしてもらっている以上、彼女にも意地があるのでしょう」

「意地……ね」


杉町が出入りする店に、あかりが出入りすることになったら、

いや、僕があかりと付き合いがあるなどと知ったら、

あいつは意味もなく、あかりを沙織のようにがんじがらめにするかもしれない。

ことごとく人の邪魔をする男だと、腹立たしくなる。


「私はいかないつもり」

「いいのか? 今よりも待遇がいいんだろ」

「『REICA』さんは、『かな』に対して嫌がらせをしているだけよ。
そんな中に巻き込まれるのはごめんだわ」


僕の手からその紙を奪い返し、あかりはビリビリと破り始めた。

そして僕の胸に口付け、もう一度その先へ進む準備があると目で合図する。


「それに……『REICA』さんには、もう一つの意地がある」

「もう一つの意地?」


あかりの唇が少しずつ下に向かい、僕の左足の内ももに、指が届く。

僕はされるがままの感覚に自分を酔わせながら、次の手を待った。


「杉町に、ひざまずかせることよ」

「ひざまずかせる?」


あかりはそれ以上語ることなく、少しずつ僕の体を支配する。

おそらく、井ノ口雅美と杉町とは、沙織と結婚する前からの付き合いだろう。

自分を贔屓し、愛してくれていると思っていた男は、

どこからか来た女性を妻にしてしまった。

店を持たせたのも、その罪滅ぼしを杉町がしたのではないかと、

僕は一つの意味を探し出す。


「大貴、ねぇ……」


仔猫が甘えるような声を出し、あかりは僕の胸の上に頭を乗せた。

僕は体を起こすと、あかりと体を入れ替え、そしてさらにしっかりと口付ける。

両手で彼女の頭を押さえ、その髪の中に指をからめていく。

僕の右ひざは、あかりの求める場所へ向かい、その合図に彼女は素直に道をあける。



人の脳は……

恐ろしいほどに単純だった。





その日の僕は、杉町への怒りと、沙織への思いが交差し、

空が少しずつ色づくまで、あかりの体を離すことが出来なかった。





その年のクリスマス。

町は金色に輝き、その日の意味など考えずに、ただ浮かれ、人が歩いていく。

僕は取引先との打ち合わせを終え、相手を送り出すと、エレベーターに向かった。

下向きのボタンを押し、何も考えずに扉が開くのを待っていると、

上に向かうエレベーターが開き、そこに一人の女性が姿を見せた。





沙織……





突然の再会に、僕は迷わずエレベーターに乗り込んだ。

扉は自然に閉まり、エレベーターはゆっくりと上へ向かう。

誰もいない空間に、たった二人……

階数は最上階をさしていて、店舗フロアが終了したため、ここからは一気に上がっていく。

それでも、ほんの数秒しかないだろう。

懐かしい彼女の横顔に目を向けると、沙織はまだ信じられないのか、

僕をじっと見たまま、動きが止まっていた。

エレベーターの音が少し変化し、終点が近いことを教えている。





「幸せなの……」





こんな言葉しか出せなかった。

こんな無意味な質問しか、僕は出来なかった。





「……えぇ……」





たとえ相手に長年付き合った女がいても、

そして、何もかもがんじがらめのまま耐えている結婚であったとしても、

沙織がどう返事をするのか全てわかっていたのに、僕は……





そんなおろかな言葉しか、彼女にかけてやれなかった。





エレベーターは扉を開き、沙織はそのまま降りていく。

何かイベントが行われているのか、人の話す声が聞こえ、

そこに向かうことの出来ない僕を中に残したまま、扉はゆっくりと閉められた。





また新しい年を迎え、そして、その年の夏色が見えて来た頃、

めぐみは『東日本企業駅伝』のために、毎日練習の日々だった。

僕はたまに仕事の合間を見つけては、彼女たちを激励し、

自分には出来ないことが出来る人たちを、心の底から応援した。


沙織とは、クリスマスの再会以来、会うことは出来なかった。

杉町とは色々なイベントで、嫌でも会うことがあったのだが、

結婚する前には、嫌味なくらい横に連れていた沙織が、

この半年、全く姿を見せていない。




『杉町に子供が生まれるらしいと、風の噂で聞いた』




父の話に、僕は沙織に子供が出来たのだと、そう思った。

女遊びの激しい杉町でも、子供が生まれるとなれば、少しは変わるかもしれないと、

その言葉を受け止める。

母になれば沙織も、別のところに心の置き場を持てるはずで、

僕は、本当に自分の気持ちを、全てリセットするときが来たのだとそう思った。





しかし……

杉町の子供を身ごもったのは……沙織ではなく……





「『REICA』さんが、妊娠したんだって」


その話は、ホステスたちの中でも、大きな話題になった。

杉町家には現在の代表となっている長男がいるが、子供はいないため、

杉町の子供が、実質的な跡取りになる可能性が高い。

井ノ口雅美は、あかりの代わりに引っ張ってきた女を店に立たせ、

自分は生まれてくる子供のためと、すっかり夜の仕事を放棄しているという。

本来なら、愛人に子供が出来たことを喜ぶなんて非常識なことはないだろうが、

杉町家にとってみたら、どこからであっても、やっと出来た子供であって、

両親も手放しに喜んでいるらしく、近頃は雅美が家へ出入りすることもあるという。





沙織は……

どこでどうなっているのだろう。





年が変わったら、すぐにでも誕生するという杉町の子供。

それと反比例するように、姿を見せなくなった沙織。





『幸せなの……』





あの時、沙織はどんな思いで、僕に頷いたのか。

胸に封じ込めたはずの怒りと、そしてあふれそうな愛しさが、

僕の心をかき乱していく。

どうしようもないまま部屋の天井を見つめていると、携帯が鳴り出した。

見慣れない番号に、少し身構えながら受話器をあげると、聞き覚えのある声が、

聴こえてくる。





「……大貴……くん……」





それは沙織の母親だった。

僕はすぐに、沙織に何かが起こったのだと察知する。


「お母さん、沙織に……沙織に何かあったのですか?」

「あ……あぁ……」


泣き崩れる声が聞こえ、僕はそのまま立ち上がった。

窓から見える景色に目を向けても、沙織の様子などわからないが、

眩しい光とは違った状況にいることは間違いなく、

なんとかお母さんに話してくれと、必死に語る。


「今、どこなんですか? どこにいるんですか。
沙織は……沙織は一緒なんですか?」





僕は……

君がいなくなったら、きっと、

生きていることをやめてしまうかも知れない。





何とか語ってくれたお母さんの言葉を受け止め、僕は車のキーを取ると、

急いで部屋を飛び出した。







17 涙の訳

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コメント

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No title

こんにちは。
沙織さん、どうなってしまったのでしょうか。
先が知りたいような、怖いような複雑な気持ちがしています。
幸せはまだまだ先のようですね。

チッ!

わ~~~~!!!!!!!

この!この!次男!!!!!(ドガッ!バシッ!)

沙織は一体・・・・

あかりと良い関係が築けてると思っていたが、やはり心は佐織だよね。ウンウン

大貴の周りの女性

yokanさん、こんばんは

>嫌がらせメールはやっぱり葵ちゃんだったんだ。

はい、予想通りの葵でした。
大貴も、これはいかんと思い、家をでたと言うことに。
このまま冷めてくれるでしょうか。

>ここで再び沙織さんの登場!これからどうなっていくのか~・・・、
 先が読めないわ^^;

先が読めないという感想は、とっても嬉しいです。
沙織がどんな状況なのか、それは次回明らかに!

沙織の今

あんころもちさん、こんばんは

>沙織さん、どうなってしまったのでしょうか。
 先が知りたいような、怖いような複雑な気持ちがしています。

沙織の様子は、次回わかります。
大貴はどんな思いを持つのか……
ドキドキしながら、お待ちくださいませ。

幸せかぁ……まだまだそうです。

!!!

yonyonさん、こんばんは

>この!この!次男!!!!!(ドガッ!バシッ!)

あはは……気持ちはそうなるね。
杉町のおかげで、話が進んでいるんだけど。

>あかりと良い関係が築けてると思っていたが、
 やはり心は沙織だよね。ウンウン

うん、うん……そうなんだよね。
大貴は沙織に会って、どう思うのか、
それは次回で!

最低なのです

拍手コメントさん、こんばんは

>杉町は、どうしようもない男ですね~・・・。
 沙織は、どうなっちゃうのでしょう?

色々な創作を書いてきましたが、おそらく杉町は史上最低の男となってます(笑)
沙織の『?』もこれから明らかになりますし、
なんせ昼ドラを目指しましたので、ドロドロした展開を、楽しんで下さい。