17 涙の訳

17 涙の訳


僕が車で向かったのは、沙織の家だった。

ここへ来るのは、久しぶりのことだ。

車で近くを通ることはあっても、どこか意地もあって、前を通ることはしなかった。

車を家の前に止め、そしてインターフォンを鳴らす。

玄関が開き出てきた沙織の母親は、僕の顔を見るなりしがみつき、そして泣き叫んだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい」


あれだけ開かなかった家の扉は開き、その奥から漏れる空気は、

湿気にまみれた、感触の悪いものだった。


「沙織は、中ですか?」


お母さんはしっかりと頷き、僕は言われるとおり家の中に入った。

薄暗い部屋の隅に人の影が映り、そこにいたのは確かに沙織だった。


「沙織……」


しかし、僕が思っていたよりも、起きている現実は異様なもので、

大きな人形がそこにあるのかと思うくらい、沙織は無表情だった。

僕の呼びかけにも、一度もこちらを向こうとしない。

僕はゆっくりと彼女に近付き、そして、以前より痩せてしまった細い腕に触れる。


「沙織……」

「もう……1ヶ月以上も、声を出していないんです。
話しかけても答えることもないし、視線さえ……合う気がしなくて」


杉町との生活は、やはり想像以上に辛いものだったのだ。

僕の後ろで、沙織の母親は疲れ切った体を椅子に沈める。


「二人のマンションに、家政婦として出入りしていた女性がいて、
その人が、あまりにも沙織がかわいそうだって……私に連絡をくれたんです」


杉町は沙織と暮らすために、高級マンションを購入した。

都心の中にある高層ビルの30階で、広さは5LDKだという。

結婚当初は沙織を連れて歩くことも多かったため、杉町はそのための家政婦を雇った。

半年くらいした頃から、状況は少しずつ変わりだし、家政婦が家に向かうと、

沙織の代わりに、化粧の濃い女が出迎えたこともあると言う。


「翔さんには、結婚前から関係のあった女性がいたようで、
沙織もそれには気づきながらも、仕事の付き合いもあるしと黙っていたようです。
でも、沙織がおとなしくしているからなのか、彼女の方は積極的で、
店の営業を終えた後、そのままマンションまで来て、それで……」

「それで?」

「泊まっていくこともあったとか……」


顔を見たこともない井ノ口雅美、『REICA』という名前を持つホステスは、

籍の入った沙織を認めることなく、時には、店の後輩達をそのまま家へ連れ込み、

大騒ぎをしたこともあると言う。

杉町は、『ミス日本』の候補にもなった、付き合いの長い雅美と、

結婚を理由に別れることも出来ず、沙織は別の部屋でじっとその騒ぎを聞きながら、

黙って耐えていた。

そんな無反応の沙織に対し、雅美の態度はさらに大きくなり、

店を開く約束を取り付け、そして打ち合わせだと理由をつけ、

何時だろうと勝手にやってくるようにさえなってしまった。


「沙織が、翔さんに態度を改めて欲しいと話すと、
彼は、スーツを閉まってある大きめのクローゼットに、
沙織を閉じ込めることもあったって……」

「閉じ込める?」


口答えをしたと部屋に押し込まれ、そして反省したかと問い詰められ、

結婚して1年が過ぎる頃になると、

沙織は家政婦ではないかと思うくらいの扱いになっていた。

雅美がソファーに堂々と座る下の床に座らされて、何時間も耐えている姿を見た時、

家政婦は光景の異常さに、杉町家を去ったと言う。


「自分の声を聞いてくれない、意見を受け入れてはくれない。
そのうち、声を出すことも少なくなって……
沙織は、声を出すことを辞めてしまったんだと……」


僕がふざけたことを言うと、白い歯を見せて楽しそうに笑い、

少し困らせてみると、頬を膨らませて怒ったこともある。

悲しい映画を見た後、目が腫れてしまうくらい泣き続けてしまう。

沙織は、そんな女性だった。





はずなのに……





「医者にも連れて行きました、でも、体に悪いところはないようで、
おそらく、強いショックから来たストレスが原因だろうと。でも……
翔さんに子供が産まれることになって、向こうはそれに夢中です。
沙織がこれだけ追い込まれていることになんて、誰一人興味がない」


僕は、話を聞きながら、目の前にいる沙織の手を取った。

沙織は無表情のまま、僕を見ている。

僕は、沙織の指を1本ずつ握りながら、

ゆっくりと、そして確かな血の流れを感じられるように、優しくさすった。





生きているのだと、沙織が気づくように。





「毎日、毎日、ただじっと窓の外を見ているだけなんです。
主人はとにかく医者を探して連れて行けというばかりで。
でも、毎日一緒にいる私には、とてもそれで治るとは思えなかった。
食べる量も減ってしまって、体も……わかるくらい痩せてしまって……」


手首に浮かぶ骨の形が、妙にしっかりとしていて、逆に異様なほどだった。

僕は沙織の指をさすりながら、熱いものがこみ上げるのを、懸命にこらえ続ける。


「大貴君に話すなんて、とんでもないとは思ったの。
あんなことになったのに、今さらって……。
でも……沙織を救えるのは、あなたしかいないと……」


涙声になった沙織の母親は、それ以上、語り続けることが出来なかった。

母親として、どんな経緯があったとしても、娘が結婚した以上、

その生活が幸せであって欲しいと願うのは、当たり前のことだ。

それがたった2年で、これだけ別人のようになってしまった娘を見て、

冷静に語り続けることの方が、無理だろう。

僕は、指から手の平をしっかりと包み、あらためて沙織を見る。


「沙織……僕がわかる?」


目が少しだけ動き、固く閉じられていた唇が、ほんの少し動いた気がした。

それでも、声は出ることもなく、それすらも無理なのかと思った時、

沙織の目から、一筋の涙が流れていく。


「沙織!」


娘の無言の涙に、沙織の母親は、声をあげた。





沙織はわかっていた。

僕が誰なのか、そして、自分に何が起きているのか。

流し続ける涙に、この2年の思いがあふれ出る。


「わかっている……大丈夫だ、沙織」


僕はそう語りかけながら、冷たかった沙織の手を、

何度も何度もさすり続けた。





これだけのことが起きながらも、僕の心は恐ろしいくらい冷静だった。

沙織の手を離し、一度安達家を出た後、すぐに携帯電話を取り出す。

時刻は夜の9時を示していたが、まだ寝ている時間ではないだろうと、

めぐみの番号を呼び出しかけてみた。


「もしもし、めぐみ?」

『あれ? 大貴さん? うわぁ……珍しいですね、どうしたんですか?』

「頼みがあるんだ。明日、時間をくれないか」


僕はめぐみに全てを話し、協力してもらおうと考えた。

電話を終え戻って来た僕を、沙織の母親は不安そうな目で見続ける。


「明日、もう一度昼間におじゃましてもいいですか?」

「それはいいですけれど、何か……」

「うちの陸上部員に、石垣めぐみという女性がいます。
彼女に、協力してもらおうと思いまして」

「石垣めぐみさん? どうして、その方が……」

「彼女も、声を出せなくなった過去を持っています。
ですから、どんなふうにそれを克服したのか、聞いてみたいんです」


沙織の母は、知らない女性が中に入ってくることには抵抗感がある顔を見せた。

しかし、病院を頼ってもどうにもならなかった沙織を救うには、

僕にはその方法しか浮かばない。


「お母さん、僕が沙織を元に戻してみせます。だから、信じてください」


沙織の母親は、不安な顔を見せながらも、僕を信用するしかないと大きく深く頷いた。





次の日、僕はめぐみを車に乗せ、沙織の元へ急いだ。

沙織は、昨日と同じ場所に座り、昨日と同じように窓の外を見続ける。


「めぐみ、彼女なんだ」

「はい……」


沙織にどんなことがあったのか、細かくは語れなかったが、

それでも、めぐみには何もかもがわかったようだった。

幼い頃、家が火事になりショックを受け、めぐみも声が出なくなった。

沙織の気持ちが、めぐみにも伝わって欲しいと祈るようにしてしまう。


「こんにちは沙織さん。私、『Tosp』の陸上部員、石垣めぐみです。
大貴さんには、いつもお世話になっているんです」


めぐみは沙織に聞こえるように、ハッキリとした声で自己紹介した。

沙織はめぐみを見ることもなく、視線は、窓の外だけを捉え続ける。


「沙織……」

「ダメですよ、大貴さん」

「何が?」

「焦ってはダメです。色々なことを言って、
なんとか言葉を出させようともがけばもがくほど、沙織さんが辛くなります。
私も、はじめは友達や母に『どうして、どうして』って繰り返されて。
思えば思うほど、口が動かなくなりました。当たり前のことが出来ないから、
苦しいんです。それをまず、しっかりとわかってあげなくちゃ……」

「あぁ……」


めぐみの言うとおりだと、そう思った。

こちらからどんどん話しかけていれば、きっと出るようになると、

そう思っていたことも事実だった。





沙織のいる部屋を出て、僕たちは沙織の母がいるリビングへ入った。

僕たちの前に、お茶を入れた湯飲みが、並んで置かれる。


「君をここへ呼んだのは、相談したいことがあったからなんだ」

「相談?」

「『陽香里』へ、沙織を連れて行けないだろうか」

「……『陽香里』へ?」

「うん、めぐみがあの青い空と海と、自然の風に癒されたように……
きっと沙織も、息を思い切り吸い込める日が来るんじゃないかって」


何かがあると訪れた、小さな町の小さな宿。

土地の人達は、自分を大切にし、そして仲間を大切にする。

僕も、少し心が疲れた時、何度も通った『癒しの町』。


「大貴さん」

「何?」

「以前、話してくれた人ですよね、沙織さんって。大切な人だって言っていた」

「あぁ……」


めぐみはそれだけを聞くと、ポケットから携帯を取りだした。

すぐに『陽香里』に電話をし、部屋を取ると言う。


「大貴さんの大切な人だって言ったら、母は絶対に嫌だとは言いませんよ。
私があの町で、大きく息が吸うことが出来たように、沙織さんもきっと、
また、笑える日が来るはずです」


めぐみがかけてくれた電話を受け、そして、沙織のことを頼んでみた。

めぐみの母親は、細かい事情を聞く前に、

とにかく連れてこいと頼もしい言葉を乗せてくれる。


「お母さん……」


そして、僕は沙織の母に、めぐみのこと、めぐみが過去に、

沙織と同じように声が出なくなり、それを『陽香里』のある町で、

癒していったことを話した。


そして、沙織と一緒に、しばらく風に吹かれてみないかと誘う。


「風に?」

「はい、沙織一人では心配もあります。小さな町ですから不便なことも多いでしょう。
それでも、お母さんが一緒なら、沙織も……」


悪い話ではないはずなのに、すぐに返事が戻らなかった。

議員として忙しく動く父親を残したまま、ここを去ることにも抵抗があるだろうが、

それよりも、沙織の状態を知られることがいやだったのかも知れない。

僕は、無理に押しつけるわけにもいかず、次の言葉をじっと待つ。


「『陽香里』は本当になんてことのない、釣り人相手の小さな宿です。
スタッフも私の母と、その仲間達で、気を遣う人なんて一人もいません。
沙織さんがずっと部屋にいたければ、それを邪魔したりすることもないですし、
逆に色々と体験したいことが出来たら、地元の人達が、
喜んで手を貸してくれる土地なんです」


めぐみの言葉に、沙織の母は、娘が座り続ける部屋の方を向き、小さく何度も頷いた。

このまま時をやり過ごしていては、何かが狂ったままになることも、

十分すぎるくらいわかっているのだろう。


「大貴君」

「はい」

「……色々とありがとう。……お世話に……なってみます」

「はい」


その言葉に、僕はめぐみと自然に目を合わせ、

沙織に話をするため、その場から立ち上がった。







18 神に誓う時

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コメント

非公開コメント

なんてことを!

次男は佐織をどうしたかったのだろう?
と改めて疑問がわく。
雅美を妻に出来ない、隠れ蓑?
それにしても・・・
大貴に対する嫌がらせにしても、ここまで?と思うってしまう。

「陽香里」で少しでも佐織が癒されれば良い。

傷ついた沙織

yonyonさん、こんばんは

>次男は佐織をどうしたかったのだろう?

杉町がどんな人間なのかは、これからどんどん明らかになります。
まぁ、嫌なヤツっていうのは、すでにわかってるでしょうけど。

>「陽香里」で少しでも佐織が癒されれば良い。

『陽香里』での生活、大貴の気持ちの変化、
これからもお付き合いくださいね。
(まぁ、ここからが本番のようなものですので……)

現実から……

yokanさん、こんばんは

>沙織さんがこんなふうになっていたなんて(TT)
 杉町のヤツめ~(ー_ー)!!

そのyokanさんの思いと、同じ思いを大貴も持ったはず。
ここから沙織のために、動き始めます。
二人の運命はもう一度交わるのか、
それとも……

これからもよろしくお願いします。