21 心の刃

21 心の刃


杉町との歪んだ暮らしの中で、沙織は自分の感情を押し殺して生きてきた。

その代償として、ストレスから声を出すことが出来なくなり、

受けた傷を癒すために『陽香里』を訪れた。


豪華な造りでもなく、ただ、人の笑い声だけが響く田舎町で、

傷ついた沙織の心は、少しずつだけれど回復に向かい、

固かった表情も柔らかさを見せるまでになった。

しかし、この計画に僕がからんでいたことを知った彼女の父親は、

今すぐにでも東京へ連れて帰ると、冷たい視線を向ける。

僕は、彼女を治せるのは自分だけだと、強い口調で言い返した。



何があっても、引くわけにはいかない……

沙織を守ってやれるのは、僕しかいない。



「私達よりも自分の方が正しいと言い切るのなら、それだけの覚悟があると、
そう思っていいんだな」

「……はい」


戸籍上、杉町の妻である沙織を、こうして助けていること自体、

覚悟がなければ出来ないことだ。世間からどんな冷たい目で見られたとしても、

それが彼女を助けることにつながるのなら、何一つ迷いはない。


「杉町との生活に、彼女の幸せはないと確信しています」


見かけた沙織の顔が笑顔なら、杉町の子供を身ごもったのが沙織なのなら、

僕は諦めることが出来たかも知れない。


「ならばもし、沙織の状態が今よりも悪くなるようなことがあったら、
その時には、二度と娘の前に顔を出さないと約束してくれ」


沙織の父親は僕の方を向き、しっかりと視線を合わせて言い切った。

こんなことになっても、僕に対して冷たい言葉しかかけてもらえないのかと、

悔しさの中、両手を握りしめる。

沙織の父親にとって、僕はあくまでも邪魔な存在でしかないらしい。

感謝をし、協力を約束してくれた母親とは正反対の態度を見せてくる。


「わかりました、そんなことはありえませんから……その条件で結構です。
でも、もし僕が沙織を元の状態に戻すことが出来た時には……」


沙織の傷を癒し、また、昔のような笑い顔を戻すことが出来たなら……


「僕を認めていただけますか」


沙織の父親は、僕の問いに何も答えることなく、また視線を外へ向けた。

冬の冷たい風は、僕たちの間にある、絶対に埋まらない溝を吹き抜けるように、

強い声をあげる。


沙織の父親が持つ携帯が鳴りはじめ、結局、何も言葉をかけてもらえないまま、

僕たちの対決は終了した。


めぐみの実家を出て『陽香里』へ戻ると、その音に気づいた沙織は部屋から飛び出し、

僕の後ろへ隠れるように立った。

子供のような沙織の行動に、それを見ていた父親が大きく息を吐く。





沙織は、父親ではなく、僕の背中を選んだ。





「……戻るぞ」

「先生」

「明日は会議が入っている。船がなくなったら、東京へ戻れなくなるだろう」

「あなた……」


沙織の母は、このまま自分たちはここに居ることが許されたのかと、問いかけた。

沙織の父は、もう一度僕の方を向く。


「私にとっても沙織は大事な娘だ。それだけは言っておく」


何かがクリアになったわけではないが、とりあえずの事態は避けられた。

僕は、スーツの背中をつかんでいる沙織の手を感じながら、

父親に向かってしっかりと頭を下げる。

沙織が僕の背中をつかんだ手を離したのは、父親が乗った車のエンジン音が、

完全に聞こえなくなってからだった。





大きな災難が去り、その日僕たちは少しの時間を得ることになった。

めぐみの母親をはじめとした『陽香里』のスタッフは、

ご近所の集会場で開かれている、会議という名前の親睦会に参加することになり、

沙織の母も、こちらで仲良くなった女性の家に、先日作った染め物を取りに向かう。

小さなこたつに沙織と二人で入り、一緒の急須から注いだお茶を二人で飲む。

そこに言葉は何もなかったが、久しぶりに訪れた心地よい空気を感じた。


「美味しいね」


沙織は遠慮がちな笑みを浮かべ、しっかりと頷き、

このまま時が止まればいいと思うくらい、僕の気持ちは満たされた。

すると沙織は立ち上がり、ふすまを開けると部屋を出て行ってしまう。

一人になったことで、あらためて部屋の中に目を向けると、

沙織の部屋はここへ連れてきた頃に比べて、色々なものが増えていた。

生活しているのだから当たり前なのかも知れないが、

小さな鏡を置いた手作りの簡単な化粧台や、東京でも売られている雑誌があることに、

沙織が生きることに前向きになってくれていると、感じ取れる。




ほんの少しなのだろうけれど、前へ進んでいる……




そう思うことが出来た。



戻って来た沙織の手には、小さなお盆が握られていて、

その上には『パウンドケーキ』が乗っていた。それはすぐに彼女の手作りだとわかる。



『紅茶のパウンドケーキ』



大学時代、沙織が僕によく作ってくれた思い出の味。

ゼミの仲間達にもお裾分けすると言われ、自分の分だけ明らかに厚く切り分けた。

彼女が作る物、彼女が触れるもの……

誰にも渡したくないと、思っていたあの頃。


「懐かしいな……これ」


僕の言葉に、沙織は小さく頷いた。

おそらく沙織も当時を思い出しながら、作ってくれたのだろう。

『陽香里』へ来る時、渡したミルクティーには反応がなかったが、

こうして過去を思い出してくれるようになったことだけで、大きく進歩した気がする。


時は経ち、状況は変わってしまったが、まだこれからがある……。

めぐみの言葉を借りれば、人生は終わるまで誰にもわからない。

僕たちは久しぶりの香りを吸い込みながら、懐かしい味を口にする。

思い出のアールグレイの香りが、広がった。





『それだけの覚悟があると、そう思っていいんだな』





沙織の父親に言われた言葉と、彼女の優しい気持ちが重なり合って、

僕の心に確かな思いを植え付ける。



沙織は、必ずよくなってくれる……



僕は、思いを重ねたパウンドケーキを、しっかりと飲み込んだ。





沙織が2杯目のお茶を湯飲みに入れてくれた時、『陽香里』の玄関が開く音がした。

今日は客が来る予定はなかったはずで、業者ならば声を出すのだろうが、

玄関は静かなままだった。


「……ちょっと見てくる」


郵便か何かだろうと玄関へ向かうと、どこかで見たことがあるような男が、

僕にまっすぐ近付いてきた。

ただ一点を見つめている目、どこか力の入った表情に、僕は殺気めいたものを感じ、

手元を見るとナイフが握られているのがわかる。


「何をするんだ」


僕は、咄嗟にその男の腕を取り、自分に向かう刃をそらし、

互いに体をぶつけ合いながら、その力を支配しようともみ合っていく。


「くそぉ……お前たちのせいで、うちがどうなったと思っている!
お気楽に暮らしやがって!」

「何……」


もみ合っている中で、その男の被っていた帽子が取れ、顔がハッキリと見えた。


「あ……」


なんとかナイフを避けようとした時、

声に気づいた沙織が廊下へ出てくるのが見える。



もし、この刃が沙織に向かったら……そう思った。



「沙織!」


その瞬間だった。

僕の背中に強い衝撃が走り、異様な感覚が、体の一部分から広がり始める。


「くっ……」


男は僕の背中越しにいるため、前から見ている沙織には、状況がつかめないのだろう。

僕は、左手で傷口を押さえ、体重をかけようとする男の足を、必死に蹴飛ばした。

男は勢いでその場に倒れ、手に持っていたナイフは下に落ち、

刃物の高い音が、コンクリートの床に跳ね返る。





沙織……





「こっちへ……来たらダメだ……」


男は沙織がいたことに驚いたのか、彼女の方へ向かうことなく、

そのまま玄関を飛び出していく。遠ざかる足音を聞きながら、

僕は右足を1歩前に出し大丈夫だと言うつもりが、

左足に体重をかけた瞬間、力が入らずその場に崩れ落ちた。





生温かい感覚が、僕の左手を濡らしていく。

震えるような手つきで、受話器を外した沙織を見ている目が、

自分の意志とは別の意志で、閉じられてしまう。



あの男が沙織に向かってこないように……



必死に前へ進もうと思うと、背中に感じる違和感はさらに強くなり、

そして痛みが増していく。




沙織……




僕の目に映るのは、冷たいコンクリートだけになってしまった。

君は今、どこにいる?



もし、そこにいるのなら、僕の手を握ってくれないか……





言葉など、なくてもいいから……

今、君のぬくもりだけは、感じていたいんだ……





ねぇ……沙織……





僕は……







君を守らないとならないのに……







22 君の声

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