70 私に出来ること

70 私に出来ること



驚いていた私の腕が、抱きしめてくれる田ノ倉さんに応えようと、ゆっくり動き出す。

ただ触れるだけできっと、互いの気持ちは伝わるはず。


「急になんだろうと思うよね」

「いえ……」

「少しだけ、黙って聞いていて欲しい」

「はい……」

「今までの僕は、郁の言うとおり、いつも何かを抑えていた。
自分の生きているこの道が、もう最初から決められていて、
それが誰かの犠牲になっているような、不満ばかり口にしていた」


自分のことよりも、他人のことを思う田ノ倉さんだから……


「でも、君に出会えて変わった。嘆いているだけでは何も変わらないし、
新しいことも生まれない。この道を進んだのは僕自身で、
だからこそ、心の奥にある、思いを出してみようとそう……」



『ケ・セラ・セラ』

人生は、なるようになっていく……

わからないことや、決められないことを悩んでも仕方がない。

それよりも、もっと、やるべきことがあるはず。



「郁を送り届けた後、どうしても君に会いたくて。
流れのまま終わるのではなくて、僕自身の意思で君に会って、
それで今日を終わりにしたかった」



私のためだけに……

走ってきてくれたんだ。


「明日、『スプリング社』に出向いて、
これが迷惑行為であることを、しっかり話すつもりです」


契約を終えた作家が、どこで新作を書こうと、それは全て自由なはず。

田ノ倉さんは、色のついた作者を敬遠するようなことをしている業界の妙な常識に、

自分の意見を述べると宣言する。


「田ノ倉さん……」

「大丈夫です。心配しないで……
僕は今までこなしてきたどの仕事よりも、気持ちは前向きですから」


私が手伝えるようなことではない、それはわかっている。

それでも、何か出来ることはないのだろうか。





「明日また……笑顔で会いましょう」





ほんの2、3分のことだろうけれど、私には何倍にも長く感じた。

ううん、長いというよりも、深く感じた。

田ノ倉さんが思いのままを口にしてくれたこと、

私に会うためだけに、ここへきてくれたこと。

その全てが嬉しくて……

私の腕は自然に、田ノ倉さんを抱きしめる。



その数倍の力で……

優しく包まれながら……




『明日また……笑顔で会いましょう』




私は、静かに走り出した田ノ倉さんの車が見えなくなるまで、

その場に立ったまま黙って見送った。

玄関を開けてリビングに戻ると、敦美おばさんが台所で明日の準備をしていた。

私は冷蔵庫を開け、中に入っているペットボトルを取り出す。


「お風呂、空いたわよ和ちゃん」

「はい……」


テーブルの上には、菅沢さんが持ってきてくれたカニの発砲スチロールが残っていて、

私はそれをゴミ箱の前に置く。

持ってきたときには重たかったのに、今は軽い。

当たり前のことだけど……


「敦美おばさん、少し聞いてもいい?」

「あら、何かしら」


右手でキャップを開け、乾いたノドに、水を送り込む。

コクンという音が、私の耳に届いた。


「おばさんはいつも、おじさんをどんなふうに受け入れていたの?」

「ん? どういうこと?」

「どんなふうに励ましてあげたり、力づけたりしていたのかなって……」


私のところに戻ってきてくれた田ノ倉さんに、

応えることが出来ていたのだろうか。

そんな不安が、心の中を駆け巡っていく。


「うちの父と言い合いになって、落ち込んだときとかもあるでしょ。
必ず、全てのことがうまくいくとも限らないし」

「和ちゃん、私に聞いてくれるの? 遠慮しないで、あずさに聞けばいいのに……」


娘から恋愛の相談をされるのは、

母親にとって嬉しいものだと敦美おばさんは笑顔を見せた。


「うん……でも、うちのお父さんはどちらかというと、
自ら前へ出て行く方だったでしょ?
でも、おじさんは抑えてしまう方だったって、そう聞いたから……だから……」


敦美おばさんが、水道の蛇口を閉めると、キュッと小さく音がした。

それから音のなくなった、リビング。





「そうか……和ちゃんは、田ノ倉さんが好きなのね」





私は、また一口水を飲んだ後、言葉を出すことなく、ただ頷いた。

隠す必要なんてない……私の気持ち。


「そうね……特別なことは何もないわよ。ただ、いつでも笑っていてあげることかな。
強く見える人も、抑えてしまう人もきっと、心のどこかに不安があるはずだから。
だから、大丈夫って笑ってあげること、私はあなたの味方だって伝えてあげること、
それがいいと思うけど……」

「笑ってあげること」

「うん……」


田ノ倉さんが辛いと言ったら、それを受け止めてあげること、

笑顔でいてあげることが、私の出来ること……


「なんだ、私の得意技だね」

「そうね……」


私は敦美おばさんにありがとうと声をかけ、お風呂の支度をするために、

部屋へ戻った。





田ノ倉さんが言ってくれた明日! がやってきた。



今日は、『オレンジスタジオ』へ向かうことになり、

大きな荷物の持てない菅沢さんのお供として、カメラ機材を担ぐ。


「ちょっと待ってください、速くないですか? 歩くの」

「悪いな、足が長いもので」

「重たいんですよ、これ」

「仕方ないだろうが、ブツブツ文句ばかり言うな」


ようやく最後の曲がり角だ。

ここを曲がって少し歩けば『オレンジスタジオ』になる。


「あ……菅沢さん、ここ、美味しそうですよ」

「何が」

「何がってイタリアンレストランじゃないですか。
昼食くらいおごってくれますよね、これだけ荷物持っているんですし」

「仕事をする前から催促するな、ずうずうしい女だな」

「やる気が出ません!」


日向淳平が、年末の特番撮影をするらしく、

『オレンジスタジオ』の前には、ファンのアーチが出来ている。

今日は、その番組の再現ドラマにゲスト出演する、

同じ事務所のタレントさんを、取材するのが仕事だ。

私と菅沢さんが角を曲がった瞬間、ファンが一斉にこちらを向き、黄色い声を上げた。

まさか……菅沢さんに?


「淳平! 淳平、こっち向いて!」

「キャー! あの車よ……」


私と菅沢さんの横を、1台の車がすり抜けた。

ファンに押されバランスを崩すと、荷物の重みで、足元がもつれてしまう。


「あっと……」


よかった……カメラ機材、傷つけずに。


「大丈夫か?」

「あ、大丈夫です、膝をちょっと……」

「お前じゃないよ、カメラ!」





……菅沢め! 覚えていろ。

私は、この後おごってくれる昼食は、一番高いものにしようと、心に決めた。



71 運命の変わる日


淳平の年末特番、さて、登場はあるのか?
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