74 沈む記憶

74 沈む記憶



その日の仕事を全て終えて、私は電車に揺られ家へ向かう。

その途中で菅沢さんからメールが入り、田ノ倉さんの意識が戻ったことがわかった。

とりあえず、ほっと……息が出来る。





「田ノ倉さんが?」

「うん……私も驚いちゃった。昼間、病院に行ったときには意識も戻ってなくて、
どうなるんだろうかと思ったけれど、
さっき菅沢さんから意識が戻ったって連絡が入ったから」

「そう……仕事の途中で?」

「『スプリング社』と少し揉め事があって、その話し合いに向かった後だったの」


自分の選んだ道を、しっかりと歩くことを宣言した田ノ倉さん。

今日はその、出発日だったはずなのに。


「でも、意識が戻って、お医者さんが大丈夫だって言うのなら、
それは一安心ね」

「うん……でも……」




『お前……口ほどでもないな』




「でも? 何?」

「ううん、田ノ倉さんのことだから、無理しないかなとそう思って……」


『弱気』な言葉なんて、出すものか。

菅沢さんにまた、言い返される。


「増渕編集長が忙しくなる」

「増渕編集長?」

「そう、いつも田ノ倉さんに頼ってばかりの編集長なの。
こういうときこそ、動いてもらわないと。普段が頼りすぎなんだから」


おばさんは私の言葉を笑顔で受け止め、

おじさんはすぐそばで、切った爪の行く先を探し始めた。





田ノ倉さんの事故の話は、もちろん社内をものすごい速さで駆け抜けたが、

容態は思ったよりも深刻ではないことが、しっかりと告げられて、

仕事が圧倒的に増えた増渕編集長以外は、

いつもと変わらぬ日々を送ることになった。



あ……いや、

増渕編集長の自由がなくなり、

『BOOZ』の秋田編集長もおとなしく編集部にいることが増えた。





そして、田ノ倉さんの事故から、1週間が経ち……





「記憶が混ざる?」

「あぁ……意識も戻ったし、リハビリも順調だそうだけど、
事故のショックなのか、ちょっと記憶が混じっているところと
抜けている部分があるらしくてさ」


菅沢さんは、昨日、田ノ倉さんのお母さんから聞いた話を教えてくれた。

古い記憶に関しては、混乱はないようだけれど、

ごく最近の記憶が、どうも混ざってしまっていて、整理がつかないのだという。


「『SLOW』を映画化にした話が、諒の頭から出てこないようだ。
『映報』の実玖さんも、無理させないでいいと言ったみたいで。
増渕さんも、とりあえず諒を担当から外したけれど」



実玖さんか……

あのロケで一緒になった以来、会っていなかったな。

そうか、田ノ倉さんのそばにいるんだ。



「記憶が消えたってことですか」

「いや、医者が言うには、思い出せていないだけで、
色々とやっているうちに戻ってくるんだそうだ。予期せぬことが急に起こると、
そのショックで、こういった記憶障害を起こすことはあるらしい。
普通の人間でもあるだろう。あっちとこっちの記憶が混ざったりすること」

「はい……」

「まぁ、仕事のことだから、積み重ねているうちに思い出すだろ」


田ノ倉さん本人も、仕事復帰には前向きで、

今も病院のベッドで、東原さんたちからの報告を受けているという。


「見舞いに、行くか」

「……いいんですか?」

「いいに決まっているだろ、何遠慮しているんだ」


菅沢さんに少し待ってくださいと声をかけて、私は化粧室で鏡をじっと見た。

別に化粧ののりなんて、どうだっていい。

田ノ倉さんに笑顔を見せたくて、その練習。



笑顔が好きだと言ってくれた人に、見せたいから……

敦美おばさんが教えてくれた。笑顔でいること……

私に出来ることは、それだけだから。





事故の日のような緊張感はなかった。

最上階の個室へ向かうと、部屋の中から笑い声が聞こえてくる。


「なんだ、あいつ。もう平気じゃないか」

「菅沢さん……」


軽く扉をノックし、菅沢さんより少し遅れて中に入ると、

ベッドで体を起こした田ノ倉さんと、その横に座る実玖さんが見えた。


「……郁、来てくれたのか」

「あぁ……もっと弱々しくなっているかと思ったけど、
残念だな、あっという間に元気になって」

「言うなぁ、相変わらず。人がこんなことになったときくらい、
もう少し……」





田ノ倉さんの視線が、私の方へ動く。





でも……





「お前に見舞ってもらうことになるとは……」





『明日また……笑顔で会いましょう』

そう、約束しましたよね。





「あの……」





こんなふうに息苦しいのは、きっと……





「すみません、お名前が……」





田ノ倉さんの目は、屋上で初めて出会った日より、

もっと……よそよそしい気がした。



75 大切なもの


諒の中にあるはずの、沈んでしまった記憶は……
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コメント

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No title

えーっ!
王子は和のことを忘れてしまったと言うことですか?
それはあまりにもかわいそうです。
思わず、PC前で叫んでしまいました。

韓ドラ?

ギャー嘘!!!
諒が和を思い出せない??

笑顔が凍りつくv-12

実玖さんは覚えていたの?

さらに続く

清風明月さん、こんばんは

>王子は和のことを忘れてしまったと言うことですか?

最近の記憶が、思い出せなくなっている郁。
和との出来事も、全て沈んでしまったのか……

は、まだまだこれからです。

3人の思い

yonyonさん、こんばんは

>実玖さんは覚えていたの?

最近の記憶がおかしくなっているので、
友達の妹である実玖の記憶はあるのです。

笑顔を見せたかった和。
さて、どうするのか……

もちろん、郁も何か思うところがあるはずで……

で、続きます。