75 大切なもの

75 大切なもの



強いショックが起こったとき、人の脳は混乱することがあると言う。

『記憶喪失』とは違う、『記憶障害』。

混ざっていたものが、だんだんと普段の生活の中で戻っていくのだと、

菅沢さんから説明を受けた。





……でも





「諒、お前、何言っているんだ、飯島だろ」

「飯島……さん」


なんて言えばいいのだろう。

せっかく笑顔を見せる練習だって、きちんとしてきたのに。

ここで私が混乱していたら、もっと……




田ノ倉さんが、辛くなる。




「はい、私『BOOZ』の編集部員、飯島です」

「飯島……お前何……おい、諒!」

「大きな声を出さないで!」


菅沢さんの問いかけを止めたのは、実玖さんだった。

状況の説明をしたいからと、私たちは休憩所へ向かう。


「思い出せない?」

「『SLOW』が映画化になった話も、今の諒には思い出せないの。
それでなくても午前中に増渕編集長と東原さんがやってきて、
あれこれ書類を並べて、いちから説明して、
その中で懸命に自分の書いた文字を見ながら、記憶をたどっていたから」

「増渕さんや東原の顔は」

「覚えていました。最近のことの方が、混乱が多いみたいで……
正直、自分が何をするために車に乗っていたのかも、思い出せないみたい」


田ノ倉さんは、『スプリング社』へ出かけ、

自分の意思を伝えるのだと、報告してくれた。

そのことも……私のことも……





……深く沈んでしまったらしい。





「だったら、全てを知っている飯島が、諒と色々話せば」

「今じゃなければダメですか?」

「は?」

「諒は早く仕事に復帰したいと願っているんです、『SOFT』のことを考えて。
菅沢さんも諒の性格は知っているでしょ。周りの期待に応えようとして、
無理に思い出そうとストレスをためるのは、今一番いけないことなの。
ことには重要度があるし……」


実玖さんの視線が、私へ動いた。

『あなたはここに来ないで欲しい』という強い意志さえ、感じ取れる。

私自身が混乱の元だと、言われている気がした。


「それは君の言い分だろ。
諒が本当に思い出したいことが、仕事のことだとは限らない」


菅沢さんは、わかってくれていて、必死に私を前へ出そうとしてくれる。


「諒のお母さんからも、そう言われました。
仕事に早く戻れるように、してほしいって」


実玖さんは、自分は田ノ倉さんのお母さんからそう望まれているのだと、

ハッキリ言い切った。


「菅沢さん、今日は帰りましょう」

「飯島」

「実玖さんの言うとおりです。今は仕事に復帰することが大切でしょ。
すごかったんですよ、『SLOW』のロケでも、田ノ倉さんは精力的に動いていたし、
地元のみんなも、本当に協力してくれて」


田ノ倉さんが『SLOW』に対して、真剣だったことは私だってわかっている。


「忘れてしまったわけじゃないんです。すぐに思い出してくれますから。
忙しい生活を送っていたから、きっと全部ごちゃ混ぜになっただけですよ」


あのロケの時から、ずっとわかっていた。

実玖さんはきっと、田ノ倉さんが好きなのだろう。

でも、私だって……



「田ノ倉さんが私のこと忘れちゃうなんて……絶対にありませんから」



口を強く結んで、そう言い切った。

敬の言うとおり、家柄とか、そんな形式的なことを考えたら、

つり合わないのかもしれない。

それでも私は、私のために戻ってきてくれた田ノ倉さんを信じたい。




『明日また……笑顔で会いましょう』




そう言いながら、抱きしめてくれた気持ちを、信じたい。



「こんな特徴のある女を、忘れたくても忘れるわけないですからね」



強がりだろうと思われたって、それでいい。

私たちは田ノ倉さんの部屋に戻ることなく、そのまま病院を出た。





病院からの帰り道、菅沢さんはずっと無言のままだ。

いつものように何か言ってくれたら、そこからまた気持ちがほぐれるのに。

『秋月出版社』本社の前を通り、『STAR COFFEE』が見える。


「私、コーヒー買って行きます。菅沢さんはどうしますか?」

「俺はいいよ……」

「じゃぁ、先に戻ってくださいね」

「飯島」

「はい」

「あんな女に言われて、お前が引っ込んでいる必要なんてないんだからな」


菅沢さんはいつもこうなんだから。

次の行動に移ろうとすると、それを止めるように口を開く。


「『記憶障害』は確かに記憶をなくしているわけではないけれど、
思い出すのは全て同じ時期じゃない。明日かもしれないし……
もしかしたら、10年後かもしれない」




……10年後




「これからの生活の中に、お前が関わっていなければ、
記憶が自然と淘汰される可能性だってあるだろう。
それでなくても、今、あいつの周りにいる人間は、何も知らない」



……何も知らない。

そう、私と田ノ倉さんの気持ちは、誰も知らない。

いや、薄々気づいている実玖さんは、邪魔をするつもりかもしれない。


「諒に会いに……」

「ほら、菅沢さん、店に入らない人はそこに立っていたら営業妨害ですからね」

「飯島……」

「何度も言っているじゃないですか。
振り出しに戻ったのなら、そこからまた積み重ねたらいいことです。
菅沢さん、おかしな人ですね。この間は人のこと『口ほどでもない……』なんて、
バカにしてくれたくせに」


正直、どう返事をしたらいいのかがわからなかった。

私だって、これが正しいのかどうかなんて自信もない。

でも、私を思い出せず、困った顔をする田ノ倉さんのことを、

じっと見ている勇気がない。





……どうして私が





消えてしまったんだろう。





「そう……」


その日の仕事を終えて、敦美おばさんには全てを語った。

今は、母よりも私のことを知ってくれている唯一の人。


「和ちゃん」

「何?」

「おばさん昔ね、本を読んだ事があるの。
人は、自分にとって大事なものを、無意識に守ろうとするんだって。
ほら、お母さんが子供を守るのもそうだし、
小さな子供が大事なものを隠そうとする行為……あるでしょ」

「うん……」

「田ノ倉さんはきっと、和ちゃんのことを大切に思ってくれて。
大事なものだからこそ、記憶を深く沈めてしまったのよ」

「記憶を……沈める?」

「そう……人が絶対に触れられないような、深い場所にしまったの。
だからすぐに思い出せないだけで、きっと思い出してくれるはず」



『思い出すのは全て同じ時期じゃない。明日かもしれないし……10年後かもしれない』



「絶対に、思い出してくれる」



敦美おばさんの言葉と、菅沢さんの言葉を頭の中で交互に浮かべながら、

私はただ、泣きそうになるのをこらえながら、頷くことしか出来なかった。



76 遠くなる距離


そう、そうだ、敦美おばさんの言うとおりだよ、和!
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コメント

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笑顔を絶やさず

そうだとは思ったさ・・・実玖さん。

諒と呼び捨てにしてることは、ささやかなアピ-ル?

大切なもの、決して失いたくない物。
奥深く沈めて誰にも取られまいとする。

和、今こそケ・セラ・セラ!
前向きに!

迫るライバル

yonyonさん、こんばんは

>そうだとは思ったさ・・・実玖さん。

あはは……思われていたか、yonyonさん。
元々、実玖は、諒を思っていることは明らかだったしね。

ケ・セラ・セラの気持ちを持ち続けられるか、
これからもお付き合いお願いします。

前向きに

yokanさん、こんばんは

>私も敦美おばさんの言うとおりだと思う!

人が大事なものを、無意識に守ろうとする……
それって、絶対にあることだと思うので。
今は辛いけれど、そこを乗り越えたら……

和が、そんな前向きな心を持てるか、
もう少しお付き合いください。