76 遠くなる距離

76 遠くなる距離



『記憶障害には、記憶が思い出せない、
また、新しく覚えられないなどの症状がある』


いつもなら開かないような分厚い本には、そう書き記されてあった。

事故で脳が強いショックを受けた場合、

急な災害などで精神的な乱れがあった場合などにも起こる。

脳というのは難しいもので、何も損傷がないように見えても、

後からダメージがくることも多い。



田ノ倉さんの検査結果は、特に問題がなかった。

秋田編集長のところに、何度か増渕編集長がたずねてきて、そう語ってくれた。


『王子様の退院が近い』という情報は、

本社ビルから半地下編集部にも、自然と流れてくる。


細木さんは、朝からグラビアアイドルのファン感謝祭に張り切って参加し、

菅沢さんは売り込みをかけてくる事務所の人と、名刺を交わすことで忙しい。

今日はデスクワークなので、右腕代わりの私は、必要なさそうだ。





「美味しいですね、これ」

「そう? いただきものなんだけど、私甘いもの苦手なのよ、
好きなら飯島さん、ガッツリ食べていって」

「ガッツリ食べたら太ります」


『水蘭』の原稿をもらうため、私は園田先生の仕事場へ向かい、

そこで美味しい和菓子をご馳走になった。

アシスタントたちは相変わらず忙しく動き、時々、先生の嘆きが部屋中に響き渡る。

口から出ているのは文句やため息だけれど、みなさん表情は明るい。

こういった時こそ、仕事をしている充実感があるんだろうな。


「それにしても驚いたわよ、諒が交通事故だなんて」

「あ……はい」

「増渕さんから連絡が入って。『MERODY』も慌ただしいみたいね。
まぁ、今、直接仕事はしていないけれど、
諒が動けないとなるとさぞかし大慌てでしょう、編集部は」

「そうみたいです」


園田先生は、増渕編集長が田ノ倉さんに甘えていると言い、

これを機会に少し仕事を減らしてやればいいと付け足した。

私はいただいた和菓子を食べやすい大きさに切りながら、

そんな意見を黙って聞くことしか出来ない。


「おととい、諒から手紙が届いたのよ、こんなことになって申し訳ないって。
『SOFT』と『MELODY』に参加している全ての漫画家によ、手書きで。
本当に真面目なんだからさ、あいつ。休むときくらい、徹底的に休めばいいのにね」


田ノ倉さんらしい出来事だと、そう思った。

迷惑をかけてしまったことを気にしている様子が、手に取るように浮かんでくる。

まだ、記憶は元通りになっていないのだろうか。


「『スプリング社』との話し合いに出かけた帰りだって聞いたけれど、
わざわざ出向いたってことがまず驚きだったわ。
あそこ、以前から色々と問題のある出版社だからさ、
向き合っていくとは思わなかったし……
どこからもまともに相手にされていないと言うのか、トラブルの元と言うのか……」


自分の運命から逃げずに、向かっていくことを話してくれた田ノ倉さん。

あの日、『スプリング社』に行かなければ、事故に遭うこともなかった。

たら、ればを言うことは、むなしいことだとわかっているけれど……

田ノ倉さんにその決断をさせてしまった原因が、

自分にあるような気がして、少し辛くなる。


「さて、出来た」

「あ……はい」


次の『水蘭』を受け取り、中身を確認する。

今回の『水蘭』は、関係を持った男性に、実は妻がいることを知り、

知らないふりをしてみせる話。

筋の通った女、『水沼蘭』らしいと言えばらしいのだが……


「あんたなんか、会ったこともない……ですか」

「ん? そうよ、ここで私とあなたはこうだったでしょ! なんて言わないのが、
水沼蘭の性格なの。だって、自分とこの男が結ばれるわけはないことくらいわかっていて、
その場限りの恋をしたわけだからね、あとは濁さないわけよ」

「そうですね……」


なんだろう。

どうしてだかわからないけれど、読んでいて辛い。

美味しい物も食べて、時間通り原稿もいただいたのに、

園田先生の仕事場から、重たい体を引きずりながら、私は編集部へ戻った。





「ふぅ……」


出来上がったレポ隊の原稿に、チェックを入れながら、

気付くと自分の左側に、飴の袋が積みあがる。

2、3日前に新しい飴を入れておいた気がするのに、もう底が見えてるなぁ。

飴をなめていないと、ノドがイガイガするんだよね。

風邪でもひいたんだろうか。


「飯島さん悪いけど、資料室へ行ってもらってもいいかい」

「はい」


秋田編集長は、20年前のある事件について、調べて欲しいとメモをよこした。

これから広告を出してくれる企業と、打ち合わせがあると言う。

こっちに置いたメモを、急に反対側に移してみたり、

いつも忙しくしない人が忙しくなると、慣れていないから行動に無駄が多い。


「すぐに行ってきます」


階段を1段ずつ上がっていく。

なんだろう、体が重たいなぁ……

『手をたたきましょう』の歌が流れ出したけれど、走って渡る気持ちにもなれず、

次の信号まで待ち続ける。

目の前の大通りから、本社ビルの地下駐車場へ1台の車が入っていった。




後部座席に座っていたのは……

田ノ倉さん。




「まさか……まだ、退院してないよね」


横断歩道を渡り、受付の前を通り、エレベーターに乗り込む。

どこの編集部員だか知らない男性が、『王子様』という言葉を口にした。





……やっぱり、今の車に、田ノ倉さんが乗っていたんだ。





資料室へ行かなければならないことはわかっていたのに、

私は3階で降りてしまった。

顔色はどうだろう、折ってしまった足はどうしているんだろう。

明らかに『SOFT』編集部の前には人だかりがあって、

東原さんたちの顔が見えたので、私は隅に隠れて様子を伺ってみる。


エレベーターが開き、車椅子に乗った田ノ倉さんが姿を見せた。

それをしっかりと押しているのは……



実玖さんだった。



77 心の痛み


和の心に、小さくだけれどダメージを残す実玖パンチ……
和の『ケ・セラ・セラ』 な毎日を、応援してください。
本日も励ましの1ポチ、よろしくお願いします ★⌒(@^-゜@)v ヨロシクネ♪

コメント

非公開コメント

グッと我慢

気力が萎えた・・

水蘭のような人は今は“きついな~~”状態?

追い打ちをかけるように実玖の姿。

耐え時だね(--)

マイナス思考

yonyonさん、こんばんは
お返事、遅れちゃいました。

>追い打ちをかけるように実玖の姿。
 耐え時だね(--)

一つ転がると、またひとつ、ひとつ……と、
歯車が狂い出すもの。
実玖の姿に動じなかったロケ時に比べて、
今は、そう、和の耐える時でしょう。

ガンバレ……るか?

拍手コメントさん、こんばんは

>和ちゃんガンバレ!

ありがとうございます。
拍手コメントさんも、応援しながら、読み続けてくださいね。