86 私の王子様

86 私の王子様



『あいつの決断に、今回は黙って身を引くお前が泣くかもしれないんだぞ……』



菅沢さんの言葉の意味が、わからなかったわけじゃないけれど……



田ノ倉さんの頭の中は、どうなってしまったのだろう。

擦り傷や切り傷のように、見えるものなら状況がわかりやすいけれど、

記憶となると、どうしたらいいのかわからない。

どうも『SLOW』を映画化するくらいから、抜けてしまっていることが多いらしく、

体の様子を見ながら少しずつ仕事に戻りだすと、

その状況に苛立ちが増しているようで。





次の日は、厚い雲が空を覆う、どんよりとした日だった。





「おはようございます」

「細木さん遅かったですね、またお菓子の買い込みですか?」

「ん? 違うよ、参考書部門にいる友達のところへ行ってきたんだ」


細木さんは買い込んで来たお菓子と飲み物を定位置に置きながら、

本社で見てきたことを話しだした。

今日は朝から田ノ倉さんが『SOFT』編集部に来ていたみたい。


「いやぁ……王子様があんなに苛立っている姿は、始めてみたね。
報告の仕方が悪いと怒っていたけれど、途中で急に話をやめてしまって」

「話を?」

「うん。東原さんもオロオロしていたよ。なんだろうね、
人ってさ、面と向かって怒られているほうが楽なのかも。
黙ったまま、心が別の方へ向いているっていうのも、
ものすごいプレッシャーなんじゃないかな」


あの日、実玖さんにあたっていた田ノ倉さん。

『思い出せない記憶』に押しつぶされそうな姿だった。



周りの人たちにあたるなんて……

田ノ倉さんじゃないのに。



「『SOFT』編集部に活気がないと、会社全体に明るさがないねって、
話してきたところなんだよ」


『秋月出版社』の看板雑誌。

それを取り仕切る看板編集者、それが田ノ倉さんなのに。




このままじゃ……

何もかもが、おかしくなってしまう。





私の足は、用事もないのに本社へ向かう。

資料室へ行き、分厚い本を何冊か借りて、階段を下りていく。

3階の、一番正面にある、『SOFT』編集部。


「これが次号の特集?」

「はい……3ヶ月前に行ったアンケートからの企画です」

「アンケート?」


田ノ倉さんはデスクの横に積んだ、過去の『SOFT』をめくりだす。

編集者さんは動きが取れないまま、下を向いている。

増渕編集長はどこにいるんだろう。

東原さんも、表情がこわばったまま、目で何度も田ノ倉さんを確認して。


「そうか、ここからこれが出てきたってことか」

「はい……」


柱の裏にいる私にも、届くくらいのため息。

『3ヶ月前のアンケート』のことも、思い出せないのかな。

みんな、田ノ倉さんにおどおどしながら、仕事をしているように見えてくる。


「東原さん」

「はい」

「悪い、この企画の支持は君が出してくれ」

「……チーフ」

「どうしてこの企画に決めたのか、僕にはよくわからない」





私には、何か出来ないだろうか。

苦しんでいる田ノ倉さんを救うこと……





「ちょっと、出てくる」

「チーフ、その足でですか?」

「大丈夫だよ、松葉杖だって慣れたし、屋上へ行くだけだから」


田ノ倉さんを見送る東原さんの表情が、どこかほっとしたように見える。

私は田ノ倉さんに見つからないように柱を使って隠れたまま、

松葉杖が床を叩く音を聞いた。




屋上へ行くことが好きなことは、忘れていないんだな。




エレベーターが3階で止まり、田ノ倉さんが乗り込むとそのまま閉じられた。

サインは確かに、上に向かって進んでいく。



私は分厚い本を手にしたまま、もう一度エレベーターの上行きボタンを押す。

田ノ倉さんを下ろしたエレベーターが戻ってきて、私を屋上へ運んでくれた。

こんなことをしたって、何も解決できないかもしれないけれど、

何もしないよりは、気持ちの整理がつくはずだ。





今の私には、これしかしてあげられないのだから……





エレベーターを降り、最後の階段を上がる。

扉を開くと、少し冷たい風が頬を横切った。

まだ、ここでお昼を食べるには、少し早い季節。

田ノ倉さんは、初めてここで出会ったときと同じ、白いテーブルのベンチに座っていた。





「こんにちは!」

「……あ」


私と目を合わせてくれたけれど、すぐに逸らされた。

ここで何度も話したこと、覚えていないんですね。


「飯島さんは、元気そうですね」

「そう、見えますか?」

「はい」


そうですか……


「田ノ倉さんはもう、昼食済ませましたか?」

「いえ、僕はまだ……」

「私もまだなんです。あ、そうだ、昨日は何を食べたのか、覚えていますか?」

「昨日?」

「はい」


田ノ倉さんは私の質問に、不思議そうな顔をしながら、

それでも昨日は病院で、『魚のムニエル』が出たと教えてくれた。

私はそれを聞きながらしっかりと頷き返す。


「それじゃ、1週間前は覚えていますか?」

「……どうしてそんなことを聞くんですか?」

「おかしいですか?」

「何か、心理テストでも?」

「いえ、今日何を食べようか、参考にさせてもえらえたら……と」


私の顔を見る、田ノ倉さんの目は、どこかよそよそしい。

『あなたが好きです』と言ってくれた記憶は、沈んだまま……





……もう、浮き上がることはないのかもしれない。





それでも私は……

あなたが笑ってくれる方が、嬉しいです。



87 たいしたこと


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コメント

非公開コメント

いまこそ!

全部、全てを忘れてしまったなら、
それはそれで辛いけど、自分だけを思い出してもらえないって・・・

自分がこの世に存在してないみたいで寂しい。

ここはひとつ「ケ・セラ・セラ」で!

諒に言ってみたら?
人生は「ケ・セラ・セラ」ですよ。って
何かが変わるかも。

変わるかな?

yonyonさん、こんばんは

和のことを忘れた諒。
ごく最近のことが思い出せない中、苦しむ姿を見た和なりの思いやりです。

>諒に言ってみたら?
人生は「ケ・セラ・セラ」ですよ。って
何かが変わるかも。

おぉ!
はい、言ってみる……んじゃないかなぁ(笑)