90 風の向こう

90 風の向こう



その撮影から30分後、私は日向淳平の楽屋へ通された。

美味しそうなお弁当も積んであるし、差し入れのお菓子もあるし、

これだけ食べていて太らないのかな。


「すみません、すっかりお待たせして」

「いえいえ……」


衣装のまま椅子へ座ってくれた日向淳平は、何やら水筒を取り出して蓋を開けた。

野菜ジュースみたいだけれど、すぐに口をつけない。

なんだろう飲まないの?


「野菜ジュースですね」

「あ……はい」


開けたときにはためらいが見えたけれど、ここで一気に飲み干した。

ふぅ……というため息が聞こえてくる。

楽しんでいるというより、無理やりっぽいけど……


「マメなんですね、ご自分で?」

「……はい」


少し、間があった。

もしかしたら、誰かに作ってもらっているのかな……

聞いてみる?


「菅沢さんのご予定はどうですか?」

「あ、はい、この日付で大丈夫だと、菅沢と話しましたので、ぜひ……」

「ありがとうございます。仕事の邪魔をしないように気をつけますので」


やめよう、やめよう。私、芸能記者じゃないのだから。

いい雰囲気がぶち壊しになったら、これから仕事に差し支えるし。

『はい、一緒に住んでいる女性がいます』なんて宣言されたら、

母ほどファンじゃないけれど、心が傷つくような気もするし……

そんなことをあれこれ考えていると、

私の目の前に、あの美味しそうなお弁当が、登場した。


「これ、一緒にいかがですか? 飯島さんの分もお願いしておきました」

「本当ですか?」


さすが日向淳平のマネージャー、気がききますね、田沢さん。

それから30分、人気絶頂の俳優をおかずに、私は美味しいお弁当を堪能した。





昼間の電車は、混雑とは無縁なので席に座るとすぐに眠くなる。

しかも、おなかの中には、高級なお弁当が収まっているし……

日向淳平、人気俳優なのに威張ったところもなかったし、

あれは高感度アップだよね。

菅沢さんと、『BOOZ』編集部で初顔合わせをするのは2週間後。

その前には、テレビ局の最終決定が出ているはずで……





……で





ガタンという大きな物音と揺れで、私はハッと目が覚めた。

あれ? 地下鉄に乗った覚えはないけれど……


「うわ!」


そうだった。この路線、途中から地下鉄と合流するんだった。

だとすると、私相当余計な距離まで来ているよね。

今、何時だっけ?

駅員のアナウンスが入り、慌ててホームへ降りる。

運良く反対側のホームに電車が入るのが見えて、それに飛び乗った。

よかった……





……って、よくない!





「資料を忘れた?」

「すみません……」


当たり前の雷が、菅沢さんの口の中から落ちてきた。

日向淳平と打ち合わせをし、美味しいお弁当を食べ、

電車に乗った私は、すっかり満腹のお昼寝気分で乗り過ごし、

慌ててしまったおかげで、手に持っていた資料を座席に忘れてしまう。


すぐに次の駅で降り、駅員に事情を話したが、

知らせを受けた電車の車掌からは、

『それらしきものはない』という報告だけが戻ってきて……


「テレビ局の資料なので、もう一度いただくことは出来ます……が……」

「が?」

「あ、いえ、大丈夫です。個人的なスケジュールなどのメモは、
全て手帳の方へ入れましたので、落としてはいません」

「当たり前だろうが、それを落とすようなことがあったら、
お前はチーフとして、いや編集者として失格だ!」

「はい……」

「全く、いい男と会うのに浮かれているから、こういうことになるんだ」


浮かれていません! と言い返したいところですが、

浮かれていたので、言い返せません。


「すぐにMBCとDOプロダクションへ謝って、資料を取り直せ」

「はい」


そう、持っていたものはたいしたものじゃなかったんだけど、

ただ一つだけ、悔やんでも悔やみきれないものが入っていたんだよね。

美味しいお弁当をいただいていた私、心も解放されてしまったのか、

どうでもいいような世間話までしてしまい、

自分の母親がファンなのですと語ってしまった。




『うわぁ……嬉しいな』

『本当ですか?』

『当たり前ですよ。応援してくれる方の年齢なんて、関係ないですから』




本当は、こんなことしてはいけないのかもしれないけれど、

また仕事が出来る可能性が、どこにあるのかわからなかったので、

『あずささんへ』と、弁当の包み紙に書いてもらえないかと頼んだら……

たった今、撮影した見本用の写真に、日向淳平がサインを書いてくれて……


『これからも、応援よろしくお願いしますとお伝えください』


と、ありがたいセリフまでつけてもらった。





……すまない、母。あわてんぼうの娘を許して。





半地下編集部の入り口が突然開き、風が室内へ流れ込む。

そこに立っていたのは、見たこともない女性で。


「入ってもいいですか?」

「あの……」


何をしに来たのか知りませんけど、ここは一応編集部です。

たずねたからといって、素人さんが勝手に入れる場所ではありません。


「ねぇ、入ってもいい? 郁」

「華乃ちゃん」


問いかけられたのは菅沢さんなのに、

彼女に応えたのは、同じように顔を知っていると思える、細木さんだった。



91 戻り風


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コメント

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次回から?

いい男に弱い私が言える事では無いですが、
浮かれてますねー (f^_^;)そりゃ諒の事、今は触れないでいようと思う気持ち、
分からないでは無いですよ。

それで資料忘れる??

で、ここから淳平サイドなのね。
楽しみ♪

はい、次からです

yonyonさん、こんばんは

>それで資料忘れる??

あはは……ねぇ。
諒のこともあり、疲れていたのだと、思ってやって。

明日から記念創作です。
『ケ・セラ・セラ』のその後もちょっと触れてますので、
そちらも楽しんでね。

彼女の登場は、この先で

yokanさん、こんばんは

>お?!何者だ??「郁」って呼び捨てーー;これは気になりますね~。

はい、これは4周年記念創作の中でも、ちょっぴり触れています。
もちろん、連載再開後に、詳しくわかりますからね。

>完全に記憶がなくなってしまっても、
 好きになった人のことはもう一度好きになると思うわ^^

そうなってくれるといいのですが……
これからも、和の日々にお付き合いください。