112 忘れること

112 忘れること



『あけまして』の挨拶も、何日かすれば交わさなくなり、

健康診断も日々が経つと、細木さんを押さえ込む効力が薄れていく。


「あぁ……幸せ」

「再検査の結果が出るまで、あまり食べ過ぎない方がいいですよ」

「いいんだよ、どうせ悪くなるに決まっているんだからさ」

「開き直りじゃないですか、それ」


言うことをきかないのだから仕方がない。

あとは神に任せるしかないだろう。

私は園田先生に渡す原稿の返却分を持ち、仕事場へ向かう。

『水蘭』は、出してからすぐに人気を得て、今も読者からは反響が毎日届く。

水沼蘭をモデルにしたゲームを作らないかと、昨日は編集部に連絡があり、

その話の書類も、含まれている。


「まさかね、このキャラがそんな付属品を生み出そうとは思っても見なかったわよ、
侮れないんだから『BOOZ』の影響力は」

「そうですか? 水沼蘭の魅力だと思いますよ。
女性からも好かれる色気のある女って、貴重だと思いますし」

「そう?」


新年早々、いい話が始まりそうなので、

園田先生も明るく、事務所内で動くアシスタントさんたちも、笑顔が多い。


「今、何時?」

「もうすぐ11時です」

「あ……ならもう来るわね」


私の他に来客があるのかと、問いかける前に、事務所のインターフォンが鳴り、

アシスタントの女性が、扉を開ける。


「お忙しいところ申し訳ありません。田ノ倉です」

「何堅苦しく挨拶しているのよ、諒、入ってよ!」


田ノ倉さん……

どうしよう、どんな顔をして挨拶すればいい。


「諒、頼んでいたもの買ってきてくれた?」

「はい……」


田ノ倉さんの声が止まった。

きっと、私がいることに気付いたんだ。


「うわぁ、ありがとう。迷わなかった?」

「そんなには。あんな路地裏にこういう店があること自体、僕は知らなかったので」

「でしょ、でしょ……」


田ノ倉さんから園田先生が受け取ったのは、

近頃雑誌で騒がれているチョコレートケーキだった。

高級な材料を使い、予約を入れておかないと、すぐには買うことが出来ないらしい。


「飯島さんも食べていってよ。これ、美味しいんだよ。
この間、うちのアシスタントが評判を聞いて買ってきてくれて、もう私虜なの。
そうしたら今日、諒が印刷所の方から来るって電話をよこしたから。
これは! って。ごめんね、看板編集者をこんなことにつかったりして……」


園田先生らしく、豪快に笑いながら、チョコレートのケーキを、

どんどん包丁で切り出した。アシスタントさんが紅茶を入れてくれて、

私もすっかり仲間に入れてもらう。


「先生、僕はこれで……」

「は? どうしたのよ、諒。もう帰るの?」


田ノ倉さんは『また来ます』と挨拶だけして、事務所を出てしまう。

きっと、私がいたから中に入りにくかったのだろう。

アシスタントさんが、田ノ倉さんが原稿を持っていっていないことに気付き、

慌てて追いかけようとする。


「私、追いかけます」


『BOOZ』の書類を忘れないように右手にしっかりと持ち、

田ノ倉さんに手渡す若草色の『MELODY』ロゴが入った封筒を左手に受け取る。

田ノ倉さんの足が、菅沢さんと同じように長いものでも、

急いでかけていくと、曲がり角の前で追いついた。


「田ノ倉さん!」


私は『MELODY』の封筒を、黙ったままの田ノ倉さんに手渡した。

あまり大きくない声で、『すみません』という返事が聞こえてくる。


「園田先生のところに戻ってください。
中身について、説明しておきたいことがあるみたいでしたよ。
『BOOZ』はもう、原稿もお渡しして、いただくものもいただいたので、
これで失礼しますから」

「いや、でも……」

「あのチョコレートケーキ情報、
『SOFT』や『MELODY』編集部の女性メンバーはきっと喜びますよ。
そうそう、東原さんも、甘いもの好きなんじゃないですか。
予約の仕方とか、聞いておかないと」



逃げないで戻ってください

もう、これ以上、追いかけるようなことはしませんから……



「失礼します……」


何があったのか、よくわからないけれど、

今の田ノ倉さんはきっと、私とは別の方を向いている。

必死に追いかけてみても、きっと逃げてしまうのだろう。

田ノ倉さんの方ばかり向いていて、走ってくる車に気付いていなかった私は、

振り返った時に、歩道から大きく飛び出すように体を向けてしまう。


「あ……」


目の前には、驚きの顔をしたドライバーがいて……

逃げなければと思っただけの私が……



「危ない!」



少し前に気付いてくれた田ノ倉さんの腕に引き寄せられ、

私の体は、手からすり抜け下に落ちた『MELODY』の書類の代わりに、

しっかりと……



田ノ倉さんの腕に包まれる。




車が走り去った場所に落ちている『MELODY』の封筒には、

しっかりとタイヤの跡がついていた。




ほんの数秒のことだけれど、優しい手は……




私を守るように……





「では……」


手を離したのは田ノ倉さんだった。

でも……





私の体を力強く掴んでくれたのも、

また、田ノ倉さんだった。





ほんの数分前に思ったことだけど、また頭の中が混乱する。

私は、タイヤの跡がついた封筒を拾い、

園田先生のところへ戻っていく田ノ倉さんの後姿を見ながら、

あなたの中で何が起きているのか、どうしても知りたいと思ってしまう。





こんな思いを持ったまま、それでも私は……

声を出して、全てを聞くことさえ、許されないのでしょうか。



113 空想病院


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