120 理想の上司

120 理想の上司



次の日の『BOOZ』は忙しかった。そう、締め切り日だから。


及川さんはいつもより、PCと向かいあう時間が増えて、

細木さんは、いつもの診察へ向かった後、レポ隊から原稿をもらうことになっている。

菅沢さんは、出来上がった誌面のチェックをしながら、確認作業に忙しい。



……今朝見たら、右手の手のひらから『カ』の文字はすっかり消えていた。

本当に、忘れたって言われるかな……



「おはよう、いや、こんにちは、諸君!」

「編集長、今日だけはお気楽な声を出さないでください。ペンが凶器になりますよ」

「おぉ……怖いな、郁。何か嫌なことでもあったのか」

「いえ……これから起こるかもしれませんが、今はまだ我慢出来ます」


私は席を立ち、編集長のカップを取り出し、

朝、いやいや、昼前のコーヒーを入れようとする。

ダメですよ編集長。締め切り前にみなさんが殺気立っていること、

いい加減に学ばないと。


「あ、飯島さん、コーヒーはいいよ。今飲んできたからね」

「そうですか……」


そうか、すでに1件、立ち寄って来たんですね。

それにしても、編集長の『お茶代』、相当な額じゃないですか?


「飯島さんは優しいね」

「……いえいえ」


いえいえ、優しいわけではありません。

すでに、諦めているだけです。


「他のメンバーは冷たいからな、優しくしてくれた飯島さん、
あなたに差し上げましょう」

「なんですか? これ」


編集長がポケットから出してくれたのは、『プレアホテル』にあるお店の券だった。

『プレアホテル』って、ピアノの生演奏を聴きながら食事が出来るっていう、

あのレストランがあるところですよね。


「どうしたんですか、これ。『プレアホテル』の招待券じゃないですか。
しかも『花房麻里』って書いてありますよ」


『花房麻里』

特に音楽に詳しいというわけではない私でも知っている。

日本でトップと言われるピアニスト。


「いやぁ……ご贔屓にしている喫茶店でさ、
年明けからずっと抽選券を配っていたわけよ。
それが50枚もあって、で、30回グルグル抽選したら、見事に当たったわけ。
なんだかその日は特別に、彼女の演奏会が組まれているらしいよ」

「演奏会……」


『花房麻里』の演奏を聴きながら、食事が出来るなんて、

私の普段の生活からは、かけ離れている世界だわ。


「まぁ、あとはコーヒーの割引券とか、お店で使える金券とかが当たったんだよね」

「編集長、50枚も券を持っていたんですか」

「あぁ、なんだかんだで、たまったんだよね」

「でも年明けからって、言いましたよね。1回行くと何枚もらえるんですか」

「1回で1枚」


1×50は50回

編集長、まだ今年になってから、そう月日は経っていませんよ。

それってほぼ、毎日通っているってことですよね。

『BOOZ』の編集長なんて辞めて、そのお店に勤めたらどうでしょうか。

あ、いや、それはお客様が減るわけだから、店は迷惑だし……



『これからもガンガン貢いでね』ってことで、無条件当選とか……



「いいですよ、こんな高価なもの。奥さんとでも行ってください」

「それがさ、この日、奥さんは娘のところへ行っていて、無理なんだよ」


確かに、『花房麻里』の演奏を聴きながら、食事が出来る演奏会だ。

日付も決まっているから、いつでも好きな時に行っていいわけではない。


「誰かと行っておいで」


招待券を受け取った私の目は、自然と菅沢さんに向かう。

『カラオケ』に行く前、『花房麻里』の演奏会って、ちょっと無理しすぎ?

いやいや、それよりも日付が決まっていたら、ダメかなぁ……



……でも



「ありがとうございます。これ、いただきます」


今頑張れば、『BOOZ』のやまは越えられるはず。

目の前に座る、菅沢さんの顔をチラッと見ながら、

私は大事な券を、机の引き出しにしまった。





その日の『BOOZ』は、まさしく戦争状態だった。

予定通りにいかないことが多すぎて、菅沢さんも細木さんも時間と戦い続ける。


「針平、ダメだ、この記事3行削ってくれ」

「いや無理だよ郁。これはこの文章が入らないと、意味が伝わらない。
新店舗の特長を説明している部分だし、掲載店から文句が来る可能性もあるだろう」

「入らないんだよ……」


誌面構成のあれこれになると、私が口を挟む場面ではなくなってしまう。

とりあえず直しが入った箇所の点検やら、みなさんのお茶を入れるやら、

そんな雑用が増えていく。


「だったら、ここの写真、資料室から出してきて差し替えましょうか」


PCとにらめっこをしていた及川さんから、いい案が出された。

本社にある『資料室』へ向かう任務を引き受け、私は編集部を飛び出した。

反対側から歩いてくるのは、何やらビニール袋を持った編集長。


「編集長、どこに行っていたんですか」

「おぉ、飯島さん。まだみんな頭を悩ませているんだろ。
ほら、ホットドッグとあったかいスープを買ってきたんだ」

「うわぁ……いい匂いですね」

「だろ、私が喫茶店の抽選で当てた金券も、役に立つってものだ」


私が資料室へ向かうと告げると、編集長は冷めてしまうので早く戻っておいでと、

そう言いながら歩いていった。

ホットドッグなら、確かに片手を空けたままでも食事が出来る。

コンビニへ買出しに行けばよかったのだけれど、

それすらも時間がもったいない雰囲気が漂っていたから、何も出来なくて……


強い口調でメンバーを導く上司も立派だろうけれど、

私は、どこか力の抜けっぱなしに見える秋田編集長も、

本当はとっても素晴らしい上司のように……



……少しだけ思えた。





『資料室』へ行き、及川さんから頼まれた写真を探し出す。

以前、どこに行ったのかわからなかった『日本の空』という本を探してみるが、

まだ戻っていないようだった。

社員証を扉にかざし、カギを閉める。

早く戻って、美味しいスープとホットドッグをいただこうと思いながら

リズムよく階段を下りていくと、3階の『SOFT』編集部の灯りが見えて、

田ノ倉さんが一人、デスクに残っているのがわかった。



でも、声をかける理由が……今の私には見つからない。



そのまま静かに階段を下りようとした私の耳に、紙が破れる音だけが聞こえた。

立ち止まっていると、それは一度ではなくて、二度も三度も繰り返される。



「どうしてそんなことをするんですか」



驚いた田ノ倉さんの手で破られていたのは、以前、一緒に見た……

そして私が探していた……



『日本の空』だった。






気持ちが前向きならば、神様は必ず微笑むよね!
和の『ケ・セラ・セラ』 な毎日を、応援してください。
本日も励ましの1ポチ、よろしくお願いします ★⌒(@^-゜@)v ヨロシクネ♪

コメント

非公開コメント

No title

苛立つ諒の姿がやけに切なく思えるのは私だけ?

今は本当に忘れてしまえたらと思っているのか。

今は……

yonyonさん、こんばんは
昨日はPC前に座れず、お返事遅れました。

>苛立つ諒の姿がやけに切なく思えるのは私だけ?

いえいえ、そんなことはありません。
諒がなぜこうなっているのか、
和も郁も苛立っているはず。

また、笑い会える日が来るのか……で続く。