1 Contract 【契約】

1 Contract 【契約】



都心にそびえ立つ高級ホテル。

その使い慣れた部屋で女と体を重ね合いながら、昴は右手をベッドサイドへ伸ばした。

常にそばにある携帯は、触れると時刻が即座に表示される。

女の熱を冷やさないように、目だけを動かすと、

約束された時間が終わるまで、あと10分を切るのがわかる。

これ以上は出来ないというくらい、幸せそうな表情を浮かべた女に、

震えるような高まりを刻み込むと、逸らされた首筋に唇を重ねた。

この時間が残り少ないことに、気づいているのだろうか、

女は昴を離したくないと、くびれた腰をさらに押しつける。

声にならないような悦びを、どうしても昴に聞かせたいのか、

女はさらに激しく体を揺らした。


「もう……時間だ」


時を計ったように迫る昴の体温に、女は力尽きたのか吐息を出し終えると、

目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返す。

昴はその顔を軽く見たあと、あらためて携帯電話を手に取った。

数秒前に着信があったことを知らせる光が瞬き、相手を確認し、また元に戻す。

昴は、生温さの漂う場所を自ら切り離すように、体を起こした。


「あぁ……もう私、壊れてしまいそう」


女は膝を抱えるように丸くなり、余韻を楽しんでいるのか薄笑いを浮かべる。

時折小刻みに動く脚は、しばらくするとゆっくり伸ばされた。


「大げさだな、そう簡単に体が壊れるはずもないのに」

「いいでしょ、そういう気分なの。解放感とでも言うのかしら。
それにしても、昴は憎らしいくらいいつも同じなのね」


女は、荒い息づかいに上下する、胸元を隠すこともせずに天井を見ていたが、

言葉に対する昴の反応が気になるのか、視線だけを横に動かした。


「同じ? それは楽しめなかったってこと?」

「違うわよ、そうではなくて。そうね、ここには『愛』がないって言うのかしら」

「愛?」


女は、汗ばんだ肌にからんだ髪の毛を自分の指にからめ、

体を反転させると、うらめしそうに視線を向けた。

昴はその言葉を背に受けながら、見えない角度で口元を緩める。


「『愛』ねぇ……」

「笑っているでしょう、昴。わかっているんだから」

「『愛』はこんな関係の男からもらうものではないはずだろ。
『愛』なら、明日戻ってくる男から、君の好きな形としてもらえばいい」


昴はそう言うと、椅子にかけてあったシャツを手に取り、素早く身を包んだ。

女は昴の背中をつかもうと、慌てて手を伸ばす。


「後をひくような行為は……」

「わかっているわよ、その余裕ぶりが憎らしいから」


逃げるように素早く支度をする昴に向かって、女は悔し紛れなのか、

自分の横にあった枕を投げつけた。

枕は昴に当たることなく、壁から床へ落ちる。


「ねぇ……来週は会えないの?」

「いつでも会いますよ、きちんと契約を交わしてくれたら」

「……本当?」


昴は携帯電話で時刻を確認し、ネクタイを結び上着を羽織った。

襟元をしっかり直し、自分の顔を見る。

女はベッドサイドへ手を伸ばし、慌ただしく手帳を探し始めた。


「あなたの好きな宝石も洋服も、広太郎が買ってくれていることだけは、
忘れない方がいい。オフの時くらい、しっかり尽くしてあげないと。
くだらない焼き餅は、妬かせないのが利口な女性だ」


昴はそう言い残すと、まだ諦めきれない女を置いたまま、

欲望の風だけが流れる部屋をあとにした。





『畑野昴』は、大手アパレルメーカー『salon』の営業部に勤務する33歳の男で、

真面目な勤務態度と、しっかりとした業績で同僚からの信頼も厚い。


「『salon』の畑野です。後ほどご連絡をさせていただきます」


端正な顔立ちで、女性からの人気もあるが、特定の彼女は存在しない。

しかし、それには理由があった。

昴は取引先へメッセージを残すと、着信記録を呼び出し、番号を回す。

こちらも取引先と同じように、留守番メッセージが流れ出す。


「雅仁……今回の話は、遠慮しておくよ」


少し前にかかってきた沢木雅仁からの電話にそう残すと、

昴は携帯をポケットに押し込んだ。

目の前のエレベーターが、音とともに開き、中にいた年配の女性が顔を上げる。


「どうぞ……」


体を少しずらし、場所を空けると開くボタンを指で押さえ、そう言葉をかけた。

女性は軽く頭を下げ、昴の前を通りすぎていく。

空になったエレベーターに体を押し込み、一番奥の隅によりかかるように立つと、

ゆっくりと扉は閉まっていった。

エレベーターが降りていく重力に身を任せ、首は自然に上を向いた。


「ふぅ……」


少し前まで、部屋で肌を合わせていた『尾山利佳子』は、

3年前に年が二回りも離れた男と、それなりの思いを持って結婚を決めた女だった。

前妻を病気で亡くした『尾山広太郎』は、

国内に産業ビルをいくつも持つ『尾山建設』の社長で、

娘のような利佳子を後妻に迎え、贅沢三昧をさせている。

しかし、目を輝かせる女の物欲はコントロールできても、

心と体が求める欲までは支配できず、自分が留守の間という条件をつけ、

昴との密会を承認していた。




『FLOW』




昴のもう一つの顔を演出する影の集まりは、男達4人によって動く、

『愛人クラブ』のようなものである。

それぞれが、『心の隙間』を持つ女を相手にし、たった数時間の欲望を満たしている。


約束を交わした相手を持つ女と情事を重ねることは、

世間一般的に『不倫』と呼ぶ行為だが、

その相手がこの状況を認めているところが、世間一般の常識とは違っていた。

昴は、あふれるように金を持つ女の欲望だけを満たし、それだけで去っていく。



そこに『愛』というものは、存在するはずもなかった。





『アパレルメーカー salon』


日本でも知らない人がいないと言えるくらいの大手であり、

経営も安定した一流企業だ。

昴は、利佳子との時を終えたあと、普段通り営業してきたかのようにふるまいながら、

自分のデスクに戻った。


「あ、畑野さん、お帰りなさい」


留守の間に何件か電話があったと、後輩の笠間がメモを手渡してくる。

昴はすぐに受け取ると、軽く目を通した。

どんな内容で、何をして欲しいのか考えたが、それほど急ぎのものは見つからない。


「申し訳なかった、携帯が鳴ったのはわかっていたけれど、
ちょっと立て込んでいて、電話にも出られなかった」

「だと思いましたよ、畑野さん。どうでしたか? 交渉」

「……もう少しってところかな」


笠間は、昴の口ぶりに納得したのか、遅めの昼食を取ると言い、そのまま席を立った。

置かれた書類の中身を見ようと手を伸ばすと、

その瞬間を狙ったかのように、プラスチックの定規が邪魔に入る。


「畑野……暇だろ、手伝え」


定規を手に持ち、体を斜めに向けながら、昴に挑戦的な視線を送るのは、

営業部の部長を務める豊川だった。

明らかに不機嫌そうな顔をした豊川に、昴はわかりましたと立ち上がる。


「入り口近くに、2つデスクを用意するんだ。お前がやっておけ」


豊川は、昴が営業部の中で成績も優秀なことを知ったうえで、あえてそう命令した。

デスクを設置することなど、誰でも出来ることなのに、

豊川はそれをあえて昴に指示をする。

社長の甥であり、自分の地位が約束されているのをいいことに、

何かと嫌味を言い、営業部の中で煙たがられていた。


「ここでいいでしょうか……」

「あぁ、素早くやれよ」


豊川はそう言うと、定規を肩に当てながら昴に背を向けた。

顔を動かしながら、またどうでもいいことを、あちこちの社員に指摘する。


「能無しが……」


昴は、そうつぶやき豊川の背中を一瞥すると、

廊下に置かれたデスクを、指示された場所に動かした。





電車の高架下を利用し、飲食店が立ち並ぶ中に、『FLOW』はある。

客は全て入ったとして30人。

カウンターが7席あり、あとは小さなテーブルがいくつか並ぶ。

今流行のビリヤードやダーツがあるわけでもなく、

どちらかというと静かに酒を飲む客が多い。

昴は左手で扉を開けると、そのままカウンターの一番奥へ向かう。


「こんばんは」

「久し振りだな、昴」

「はい」


『FLOW』のカウンター席に座るのは、2ヶ月ぶりのことだった。

マスターの朋之は昴がいつも注文する酒を用意し、右手で勧める。

朋之のカクテルを作る腕は、一流だ。


「雅仁は、まだ来ていませんか」

「雅仁? あいつ、来るのか? 何も聞いていないけれど」

「昼間に電話があって、
ちょっと話があるから『FLOW』へ寄ってくれとメールが残っていたので」

「話ねぇ……」


昴が店の入り口の方を見たが、雅仁が入ってくる気配はどこにもなかった。

とりあえずいつもの酒に口をつけ、軽く首を動かしてみる。


昴たちにとって、このカウンターは特別な場所だった。

『FLOW』という店で、こういった仕事が展開されていることを、

社交界の裏で知った、暇と欲求をもてあます着飾った女たちは、

自分の携帯電話の番号を、まずマスターである朋之にコースターの裏を使って知らせる。

朋之はその合図を受け取り、

雅仁、昴、達也の3人に『仕事を請けるかどうか』のメールを送る。

3人の話し合いにより、決まった男がこのカウンターに座り、

まだ正体を見せていない女は、店のどこかで酒を飲みながら、

契約を交わす相手として登場した、カウンターに座る男を品定めする。


もちろん、選ぶのは契約を希望する女の方だ。

気に入らなければ、正体を明かさず酒を飲み店を出るだけで、

また別の男がカウンターに座る日を待つことになるが、

自分の相手として契約を交わす気持ちが固まったときには、

朋之がカウンターの隅に置く携帯に、

契約を希望するという、女からのメールを受け取る仕組みになっていた。



そして……



鳴るはずのない朋之の横にあった携帯が揺れ始め、

そのタイミングに昴は思わず見てしまう。

今日は雅仁に呼び出されたから来ただけで、女に品定めされる覚えはないはずだった。

朋之は携帯を開き、文面を読むと、それを昴に向かって差し出してみせる。



『あなたにお願いしたい』



契約を交わしたいという内容と、

来週の月曜日、具体的な時間とホテルの部屋番号がそこには残されていた。

昴は、その時初めて、雅仁が自分を騙したのだということに気付く。


「宮坂さん、知っていたのですか」

「いや、俺も知らないよ。今までこんなやり方は一度もないからさ」


利佳子と会った後、新しい契約は受けないとメールを入れたはずで、

昴はもう一度女からの文面を読み直し、携帯を閉じる。

3分の2が埋まる店内を見るが、

女性は何名もいて、誰がメールを寄こしたのかはわからない。


「どうする、昴。ご指名だぞ」

「受けるつもりはありません」


これ以上、愛のない時間を増やすことは、昴の思いではなかった。

今ある契約だけで、目的とする生活は確保できている。


「雅仁のやつ、これは契約違反だ」


昴は雅仁の目的がここにあったことを知り、目の前の酒を飲み干すと、

朋之に雅仁宛の伝言を残し、視線を客に向けず、店をあとにした。





昴がマンションの鍵をゆっくり開けると、リビングからピアノの音が聴こえた。

妹の綾音は、この4月から全国でも有名な『立原音楽大学』のピアノ科3年生となった。

昨年は学年代表にもなり、コンクールでもなかなかの成績をあげたため、

主任教授からの期待も大きい。

しかし、そこは全国でも有名なお嬢様音大である『立原』であり、

優秀な成績を取り続けるには、学費の他にも、特別のレッスン料金がかかる。

さらにトップになろうとすれば、授業以外での個人レッスンも必要で、

24時間、ピアノから離れることが出来ないような生活を送らなければならない。


昴は、綾音のために防音を備えている、ピアノOKのマンションを契約し、

その環境を整えた。

となると、かかる金額は高額で、

いくらしっかりとした企業で、営業マンとして頑張っている昴とはいえ、

簡単に支払えるものではない。




『ママね……ピアニストになりたかったの』




昴と綾音をこの世に送り出した母は、昴が大学に入る前に他界した。

年齢が12歳離れている妹の綾音は、まだ幼かったため、

育てる大人がいないという理由から、児童養護施設『小麦園』に世話になった。


「お帰りなさい」

「ただいま……」

「ごめんなさい気づかなくて。すぐに夕食の支度」

「いや、レッスンだろ、納得するまで続けなさい」


昴は大学を卒業すると『salon』に就職を決め、妹の綾音を『小麦園』から引き取り、

一緒に生活を始めた。

綾音には、学生時代からバイトをしたお金で、まだ『小麦園』にいる頃から、

ピアノを習わせていた。

それは、亡くなった母が、

綾音にピアノをさせたがっていたことを知っている、昴が決めたことだった。

元々、母のそばでピアノの音を聴いていた綾音は、昴が思っていた以上に上達する。


「もういいのよ、少し疲れているし」

「主任教授の特別レッスンは、受けられそうなのか」


綾音は楽譜を片付ける手を止め、驚いたように振り返り、

どうしてその話を知っているのかと問い返した。

昴は上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。


「『立原音楽大学』だけではなくて、
全国から優秀なピアニストのたまごたちが集まる合宿は毎年恒例だ。
3年と4年にしか許されない特別なものだろう。
少しだけでも音楽に興味がある人間なら、知っているのは当たり前だ」


綾音はピアノの蓋を閉めると、しっかりとカバーをかけた。

昴は黒く光り輝くピアノをじっと見る。

その重々しさと、存在感が、昴の疲れを吸収した。


「でも……今年はいいわ」

「どうして? 選ばれないのか?」

「そうではないけれど、私にはまだ来年もあるし、
今年は無理に参加しなくてもいいと思って」


綾音はそういうと、リビングから続くキッチンに移動し、

1時間かけて煮込んだという煮物を温め始めた。

カチカチカチとコンロに火がつく音がして、優しい香りが部屋に広がり始める。

今までピアノの音が漂っていたリビングは、一気に生活の色が見えてきた。


「綾音」

「はい……」

「お金のことなら心配するなと言っているだろ」


綾音は『でも……』という言葉を小さく発した後、そのまま無言になった。

昴はあえて明るい表情を見せ、ハンガーに上着をかけながら、

繰り返し続けてきた説明をしてみせる。


「お前が知らないだけで、お母さんはきちんと資金を残してくれていた。
株がどういうものなのかなど、綾音は何も知らないのだろうけれど、
お前が大学を卒業するまでのお金は、しっかりあるから心配するな」


昴の父親は、昴がまだ幼い頃に病気で亡くなった。

母は仕事をしながら昴を育て、綾音の父と知り合い再婚した。

しかし、その幸せは長く続くことなく、いつの間にか家族は3人となった。

綾音にも、父親と過ごした記憶はない。

だから、昴の話す内容がウソなのかどうか、確かめられるはずもなかった。

心配そうに下を向く綾音のそばに歩み寄り、昴はそっと肩に手を置く。


「お前は、ピアノのことだけを考えていればいい。実力がありさえすれば、
どんな境遇に産まれようとも、それを乗り越えることが出来るのだから……」

「……はい」




『演奏旅行資金 70万円』




昴は、そばにあったゴミ箱から、1枚の紙を拾い上げる。

なぜこれだけの金額がかかるのか、考えている余裕などない。

昴は、その金額をじっと目で追いながら、

『FLOW』の携帯に残された、正体のわからない女のメールを思い返した。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

始まりましたね!

こんばんは^^

こちらは、リアルタイムで追いかけます!

訳ありの男には、訳ありの事情が隠れていましたね。
のっけから艶やかなシーン、「ももんた創作」 には珍しいわね^^

三人称で描かれる物語、すごく緊張感があるわ。

で、ホント、長い!
読み応えありです^^/

続きを待ってます。
頑張って~~!

長いでしょ

なでしこちゃん、こんばんは

>訳ありの男には、訳ありの事情が隠れていましたね。
 のっけから艶やかなシーン、「ももんた創作」 には珍しいわね^^

でしょ、でしょ。
ちょっとだけでも『おっ!』と思って欲しかったの。

>三人称で描かれる物語、すごく緊張感があるわ。

ありがとう。
出来ているのかどうか、自信がないところもあるんだけど、
今回は三人称で頑張ります。

>で、ホント、長い!
 読み応えありです^^/

あはは……長いでしょ。でも、書いているとあっという間なの。
続きもお付き合いお願いします。
(無理のないように)

今までで、一番長いかも

pocoさん、こんばんは

>前作とは、全く違った展開に、ドキドキしてしまいましたが、
 確かに長い!

あはは……
やはり私の創作は、短いイメージなんですね。
どうか頑張って読んで下さい。
早速のコメント、ありがとうございました。

オモ(@@)

いきなりベットで始まった~(@@)
内容も今までに無いようなもの(@@;)
ももんたさん、チャレンジャーだわ^^;
このお話がどういう展開をしていくのか楽しみです^m^

確かにチャレンジです

yokanさん、こんばんは

>いきなりベットで始まった~(@@)
 内容も今までに無いようなもの(@@;)

あはは……yokanさんがグルグルの目だ(笑)
そう、いきなり! のインパクトが欲しかったの。
畑野昴の事情も、知ってもらいたくて。

チャレンジはどんどんしていきたいです。
まぁ、みなさんが読んでくれたらの話なんですけど。
よろしくお願いします。

ガマンの限界(〃ω〃)

ももんたさん、お久しぶりです。
新作「Flow」が始まってからずっとガマンしてきました。

ホントはリアルタイムでも読みたかったんですが
なにせ次回を「待つ」事が苦手なあたしです(^-^)/

でもでも そろそろ我慢の限界でして・・(*´д`*)
今日から なるべくゆっくり(出来るか??)読み始めさせていただきます。
1話目 読後 やっぱ、ももんたさんの作品、とても
素敵です!まさに 掴みは (^-^)good!!
これから、ゆっくり追いついて行きますんで[^ェ^] よろしく!

ぜひぜひ

yasai52enさん、こんばんは
お返事、遅くなってごめんなさい。

>新作「Flow」が始まってからずっとガマンしてきました。

エ! どうして? 我慢せずにぜひぜひ、読んで!
『待つ』のは確かにジリジリするけれど、
でも……まぁ、このペースで最後までいけると思うので。

読みのペースは、もちろんお任せです。
消えませんので、お気楽にごゆっくり、
どうか最後まで、お付き合いくださいね。