3 Puzzlement 【困惑】

3 Puzzlement 【困惑】



「住友さんは、機転が利きますね」

「いえ、あぁいった男性に慣れているだけです。子会社にもたくさんいましたから。
会社の縁続きだというだけで、工場長だったり、取引先の息子だからって、
何も出来ないのにデスクが一番いい場所に用意されていたり……」


悠菜との会話に昴が選んだのは、オフィス街にあるコーヒーショップだった。

焼きたてパンの匂いが店内に漂い、

そこに時々、客の注文するスープの香りがコラボする。


「正直、提案書を見て驚きました。あれを書いたのは本当にあなたですか?」


昴は、今まで女性であれだけの分析をしてきた営業マンを見たことがないと、

正直な感想を語った。悠菜は『ありがとうございます』と頭を下げる。


「住友さんが勧めたい『salon』のブランドを、
『HONEY』に紹介したいという熱意は伝わりました。ただ……」

「……ただ?」

「今まで築き上げてきたものを、身勝手に壊すようなことはやめて欲しい。
条件はそれだけです」


昴は、自分がブティックに納めている『salon』の製品が、

取りやめになるようなことは避けて欲しいと、あらためて悠菜に釘をさす。


「もちろんです、私はケンカを売りたいわけではありません」


昴は『それならば……』と、あらためてカップを手に持ち、コーヒーを口に含んだ。

悠菜が、目の前で希望が叶ったことに満足な顔をするのを見ながら、

昴はあのオーナーが、この提案にどんな反応を示すのかと、興味がわき始める。


「畑野さん、仕事はスピードが勝負だと思うので、
今日にも佐藤オーナーに連絡は取れませんか?」

「今日……ですか?」

「はい……」




『月曜日 夜9時 HOTEL GRAND 1011号室』




「申し訳ない。今日は、どうしても外せない用事があるので。
出来たら明日以降に」

「そうですか……それならば仕方がありません。
でも、なるべく早めにお願い出来たら……」

「はい、わかりました」


悠菜はそう言うと、紅茶のカップに1杯の砂糖を入れた。

小さなスプーンでかきまぜながら、ほっとした顔を見せる。


「普通の男性社員なら、こんな提案をしただけで、
私にありとあらゆる妨害をしたでしょうね」


悠菜はスプーンを取り出すと、ソーサーの端に置いた。

回っていた紅茶の渦が、ゆっくりになっていく。


「どうして畑野さんは受けてくださる気になったのですか?」


悠菜は昴をしっかりと見た後、少し不安そうな目を向けた。

昴は答えを返すつもりで、自らの左目を指で示す。


「目? 目が何か」

「今朝、住友さんが真剣な目を見せてくれたので、それで話を聞く気持ちになりました。
その人が、どんな思いで言葉を投げかけているのかは、
目を見たらある程度わかるものですから」


はじめに昴へ向けた、挑戦的な目だけなら、

引き受けるようなことはなく、他の男性社員たちと同じように、

徹底的に反発する態度を見せたかもしれない。

その目は力が強いだけではなく、思いも強いのだと、昴は感じ取った。


「それと……」

「それと?」

「利益になるのなら、拒むことはないでしょう。
営業の手の内を見られてしまうから嫌だなどという思いなら、持つ必要はない。
そもそも、答えが一つだと思い込むことは、無限にある可能性を排除することですし」


昴のその言葉に悠菜は頷き、初めてカップを手に取った。





『HOTEL GRAND』



海外から来る大物アーティストなどが、日本へ来ると利用するホテルとして、

マスコミに報道されることも多い一流のホテル。

地下鉄を降り、階段を登るだけで目の前に広がる光景は

別の国へ来たのかと思えるくらいだ。

中には広く大きなロビーがあり、上には輝くシャンデリアが構え、

都心の騒々しさから、離れた空間を演出する。

昴は約束の時間より少し前に到着し、そのままエレベーターを目指した。


エレベーターの中では、少し早口の英語が隣で飛び交い、

『日本の伝統芸能の素晴らしさ』を語る。

ふくよかな男性は、『歌舞伎』でも見たのだろうか、

独特なセリフ回しが気に入ったと、興奮気味だ。

隣にいる女性は日本手ぬぐいを広げ、友達に土産が出来たと笑顔を見せる。

その中にいた昴は、隣の騒々しさに目をそらし、

黙ったままエレベーター内の鏡に自分を映す。


『salon』の社員として動いていた時間は、

エレベーターの到着音とともに、切り捨てなければならない。



ここからは、ただ、求める女のためだけに存在する時間。



昴の心が切り替わったとき、エレベーターには誰一人いなくなっていた。





廊下を進み、1011号室を目指す。

番号を確認し軽くノックをすると、中から女の声がした。

ゆっくりと扉が開いていく。


「お待たせしました」


数秒の沈黙があった後、扉はゆっくりと閉じられ、

中にいた女は、自らのために現れた男に、すがりつくように抱きついた。


「不安でした。あなたが本当にここへ来てくれるのか」


女はそういうと、昴に聞えるくらいのため息を吐き出した。

昴は空いていた片手で女を受け止め、しっかりと胸に抱き寄せる。


「ありがとう……きてくれて」

「いえ……」


部屋の中に足を踏み入れた昴の後ろで、カシャンという音が響く。

扉は自動的にロックされ、日常はそこで切り離された。





綾音はその頃、まだ『小麦園』にいた。

食事の支度を手伝い、子供たちを寝かしつけ、

誰もいなくなった食堂で、幼い頃に母親代わりだった安藤康江とお茶を飲む。


「綾音、こんなに遅くまでここにいていいの?
レッスンはどうなっているんだって、昴に怒られるでしょう」

「今日は兄が仕事で遅いんです。だからこの日を選んだんですから」

「あら……そうだったの。綾音なりに考えたのね」

「もう、園長先生、私のことをいくつだと思っているんですか。
もう成人式も越えたんですからね」


康江は立ち上がり、棚の中からいただきもののクッキーを取り出すと綾音に勧めたが、

綾音はこれは子供たちのものだと言い、開けられた缶を元に戻す。


「遠慮なんてしなくていいのに」

「いいんです。夕食の後にクッキーだなんて、ダイエットの敵じゃないですか」

「あら、綾音がダイエット? そんなこと必要?」

「もう、先生……」

「はいはい」


康江はわかったと頷き、湯飲みにお茶を継ぎ足した。


「ねぇ、冗談はともかくどうしたのよ、本当のところは。
学校が休みだから手伝いに来てくれたのは嬉しいけれど、何かあったんじゃないの?」


急に連絡をしてきて、一日中『小麦園』を手伝った綾音の態度に、

康江は何か相談事があるのだろうと思い、尋ねてきた。

綾音は無言のまま頷き、このときを待っていたように、ゆっくりと口を開く。


「先生……」

「何?」

「私、兄が怖いんです」

「……怖い? 昴が?」

「はい」


綾音は、自分が『小麦園』から引き取られて今まで、昴が相当頑張ったことを語り、

それはものすごく感謝していることだと付け加えた。

康江も綾音の言葉を聞きながら、その通りだと頷いてみせる。


「そうね、感謝はしないといけないわね。
兄妹だからって、あなたの面倒を見なければならないという義務は、昴にないもの」

「はい……」

「でも、それが昴の希望だったのよ。自分が大学を卒業したら、綾音と暮らすって……。
18歳であなたを引き取りたいと言ったけれど、
学生の間だけはここに居させた方がいいって、説得したくらいだった」

「はい、でも……」

「でも?」

「お金が……」

「お金?」


綾音は小さく頷くと、言葉に出来ない思いに、両手をその場で握り締めた。





昴を相手に選んだ女は、『渡瀬晴恵』という名前を契約書に書いた。

それを確認した昴は、紙を丁寧に折り、上着のポケットに押し込む。



『渡瀬晴恵』



彼女のパートナーは、ヨーロッパの輸入雑貨店を数店舗持つ男で、

晴恵は、二度の離婚後迎えた、3番目の妻となる。

仕事柄日本にいることが少ない男は、1年あまりの新婚生活を終え、

それでもまだそばに寄り添いたがる若い妻を、もてあまし始めた。


「まだ、結婚して1年なのに……本当にこれでいいのですか?」

「いいんです……私はあの男に、騙されたのだから」


晴恵はそう言うとベッドサイドに腰かけ、

すでに注文済みだったウイスキーに、口をつけた。

昴が来る前に、ある程度の量を飲んでいたのか、部屋の中には芳醇な香りが漂っている。


「あなたも、飲みます?」

「いえ……」


昴はその誘いを断ると、空のグラスをテーブルの隅に置いた。


「私、主人に言いました。大事なことを隠したままで結婚されたから。
だからわかった以上、別れてくれって、そう切り出したのです。
でも、それは困るって……。どうせ離婚で財産が切り刻まれるのが嫌なのでしょう」


『FLOW』の扉を叩いた女たちは、揃ってパートナーへの不満を口にした。

昴たちは、それを聞き流しながら、かといって突き放さない程度に、

優しい言葉をかけて落ち着かせる。

あくまでも、その身勝手な男たちがいるから成り立つ関係で、

本気になって別れられては、契約は成立しなくなる。


「あまり嘆かないで……顔が暗くなりますよ」


ただ、契約が正式にこなせればそれでいい。

夫婦間のややこしい問題に、自分が巻き込まれるようなことがあってはならないと、

昴は晴恵の話を止めた。


「……これは復讐です」


晴恵はそう言うと自らブラウスのボタンに手をかけ、震える手で外し始める。

思い詰めたような晴恵の態度に、昴は左手を向かわせた。

晴恵の右手と、昴の左手が重なり、その肌の間を激しく打つ鼓動が越える。

晴恵は、正面から昴を見ることが出来ずに、目を泳がせた。

昴は晴恵の背中へ手を回し軽く押す。そして晴恵の体は、昴の胸へ向かった。

まずは互いの鼓動が感じられるように、昴はしばらく抱きしめ続け、

息づかいの状態を見抜くと、ゆっくりと体を離し、晴恵と視線を合わせていく。


「私が……」


昴は素早くネクタイを外し、晴恵の首筋にそっと唇を落とした。

晴恵の力が抜けていくのがわかり、その感覚を体に受けながら、

ボタンを丁寧に外していく。

晴恵は覚悟を決めたように昴の首へ腕を回し、ため息をひとつつく。

そして、これから始まる時間へ、その身をゆだねた。





「兄の会社が一流であるのはわかっているんです。
でも、『立原音楽大学』の学費や費用は、それだけで払えるものではなくて。
教授の個人レッスンだとか、遠征の費用だとか、表面に出てこないお金もあって……」


綾音は、自分のために昴が何か罪を犯しているのではないかと、

心配する胸の内を康江に語り続けた。

同じ音楽大学でも、奨学金を奨励する学校もあるのに、

どうして『立原音楽大学』だったのか、

幼い頃にはわからなかったことが疑問に思えてきて、

それを考えると、不安ばかりが膨らんでいくのだと、最後は涙声になる。


「綾音……」

「私はピアニストになんてならなくていいんです。
ただ、音楽さえ学べたら。でも、兄に何を聞いてもはぐらかされてしまって。
それでいて、もし、何か悪いことをしているのだと言われたら、
それはそれで耐えられない気がして」


康江は顔を上げ、壁にかかった古い写真を見た。

母を亡くし、頼る親戚がいないため、

役所の職員と昴が、まだ幼かった綾音を連れてきた日、

たまたま『小麦園』でイベントがあり、一緒に撮ったものだった。

無邪気に笑う綾音と、その綾音をしっかり後ろから支える昴。


「先生、兄が怖くてたまらないんです」


綾音の訴える声に、康江は視線を戻した。

席を立つと綾音の両肩をそっと抱きしめる。


「わかったわ、綾音。先生が昴に今度、それとなく聞き出すことにするから。
だからあまり考え込まないで」

「先生……」

「あなたがお金のことを心配する気持ちはよくわかる。
確かに、『立原音楽大学』は学費も高いでしょう。
でもね、営業マンって、基本給プラス成績で給料に差をつけるところが多いのよ。
昴が一生懸命に頑張って、お金を稼いでいるのだとしたら、
あなたは悩んで泣くよりも、その期待に応えるように、学生生活を満喫することでしょ」


康江にも、昴の行動に対し、疑問に思うところはある程度あった。

それでも、長い間顔を合わせてきた昴が、犯罪に手を染めているとは思えずに、

とにかく綾音を落ち着かせようと、笑顔を見せた。





昴の右手が、ゆっくりと晴恵の素肌を滑り落ちる。

利佳子のように何度も肌を合わせた間柄なら、

どうすればいいのかすでに体が覚えているが、晴恵には今日、初めて触れているため、

目の前に見える惑うような表情が、拒絶なのか、それともさらなる要求なのか、

微妙な角度で刺激しながら、見抜くしかない。

ボタンを外す前は、震えるような手つきと迷いの目を見せた晴恵が、

重なる時間に頬を赤らめていき、さらに右手を昴の手に添え、

自らの欲望へ導くような仕草を見せた。

大きくゆっくりと吐かれる息づかいに、昴は一つ何かを乗り越えた気がして、

刺激を待つ膨らみへ、唇を向かわせた。





「それじゃ、先生」

「うん、気をつけなさいね」

「はい……」


綾音は、見送るためにバス停まで下りてきた康江に向かって、

角を曲がり、見えなくなるまで手を振った。

昴から、今日は営業で遅くなるとは言われていたが、すでに時刻は22時を過ぎている。

さすがに連絡なしでいるのは悪いと、綾音は昴の携帯電話を鳴らす。

呼び出し音は何度か鳴ったが、昴は電話に出ることなく、

綾音は受話器を閉じた。





薄明かりのライトの下で、昴は左手を伸ばし携帯に触れた。

時刻は22時半を過ぎている。

晴恵は眠っているのか目を閉じていて、昴は起こさないように静かにベッドを降りた。


「畑野さん……」


昴が振り返ると、晴恵は恥ずかしそうに上掛けに体を隠しながら、目を合わせてきた。

何か言いたげな唇が、小さく動く。


「何か……」

「また……お会いできますか」


昴はシャツを羽織り、ネクタイを締めながら『もちろんです』と返事をした。

鏡に向かう昴の目に、カーテンの隙間から見える夜景が飛び込んでくる。


「よかった……」


昴の背中越しに、ほっとしたような晴恵の声が届いた。

眩しく光る街の灯りの中に、嬉しそうに微笑む晴恵の顔が重なる。


「あなたとの時間で、自分が女だったとあらためて気づきました」


晴恵はそう言うと、昴に向かって『ありがとう』という言葉を口にした。

昴はマイペースに身支度を整え、まだベッドから抜けられない晴恵の頬に手で触れる。


「あなたが幸せなのなら……それで……」


晴恵は昴の手をつかもうとしたが、その手は少し前に離される。


「では、また……」


昴は小さく頭を下げると、体温だけを感じる部屋から外へ出た。



廊下を歩くと、いかにも会社の偉い人という男が携帯電話を片手に歩き、

エレベーター前には、高級な着物を身につけた女性が立っている。

携帯電話に着信があったことがわかり、相手を確認すると綾音からだった。

ロビーを抜け、大通りに出た後、何かあったのかと、慌てて連絡を入れる。


「もしもし……」

『あ、お兄ちゃん、ごめんね、まだ仕事?』


あまりにも疑いのなさそうな綾音の言葉に、昴は一瞬返事をためらった。

それでも、ビルの隙間から見える月をしっかり見る。


「少し前に終わった。これから帰るけれど、どうした」

『そうなの、ねぇ、食事は大丈夫?』

「あぁ……お前は?」

『私は食べた』

「そうか……」


互いの無事を確認するような会話は、ほんの数秒で終わりになった。

昴は携帯をポケットに押し込み、目の前で止まったタクシーの前をすり抜け、

地下鉄の駅を目指す。

昴は、晴恵を残した部屋をふり返ることなく、階段を駆け下りた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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コメント

非公開コメント

ふ~・・・

ふ~・・・、昴の人生はこれからどうなるんだろう・・・
なんだか気が重いわ~ーー;

そうだよね

yokanさん、こんばんは
ため息をつかせる展開で、申し訳ないです。

前作、『ケ・セラ・セラ』とはあまりにも違っているからねぇ
反動でこうなったのかも(笑)
まだまだ明らかになっていないこともあるので、じっくりお付き合いくださいませ。