5 Time 【歳月】

5 Time 【歳月】



ホテルの一室、壁にかかる時計は、21時少し前を示している。

利佳子の腕が昴の両肩に乗り、スレンダーな体が何度も揺れる。

唇からは、呼吸をからみつけたような吐息が出し続けられ、

時折、高い声を上げたかと思うと、利佳子は少し微笑むような顔をする。

昴の視線に気付いた利佳子は、これ以上高ぶった声を聴かれたくないのか、

唇を強く当て自らの声を塞ぐ。昴はその力を受けながら、腕をベッドへつき、

そのまま仰向けになった。

向かい合っていた利佳子の顔は下から見上げるような角度になり、

首に回っていた手は昴の胸を押さえた。

利佳子の動きは、自慢の長い髪の毛を乱しながらさらに激しさを増し、

昴はその声を聞きながら、一人冷静な顔を見せた。


昴は、この部屋で会う以外の利佳子のことなど、何も知らない。

それでも、この姿を見ているだけで、利佳子の全てがわかる気がした。

プライドが高く、思いを遂げなければ許せない。

高価な洋服や宝石を身につけていないからこそ、素肌がそう語った。


利佳子が昴と胸を合わせるようにすると、その合図で体が反転する。

深くつながった思いを吐き出すため、体の奥まで奪いあうようなキスが続き、

それから少し経つと、互いの熱だけが吐息に変わった。


深く合わせた唇を外し、

昴は、利佳子の口元に触れている髪の毛を左手の親指で払う。

利佳子はいたずらっぽい目を向けながら、その指を口に含んだ。

ゆっくりと吸い込むようにした後、舌で前へと押し出していく。


「……楽しい?」


昴がそう問いかけると、利佳子は自分の行為がおかしく思えたのか、

両手で顔を覆いながら、肩を震わせて笑い出す。

ベッドサイドに置いた携帯電話が、メールを知らせ、

昴は体を仰向けに戻し、相手を確かめた。

先日、悠菜と訪れた『HONEY』からか、

それとも新しく契約を交わした晴恵からかと考えて見てみたが、

そのどちらからでもなく、定期的に送られてくる、企業側からのメールだった。

取り立てて読まなければならないような重要さは、感じられず、

そのままメールを開くことなく、携帯を閉じる。


「誰? 新しい契約者?」


利佳子の問いに答えずに、昴は携帯を元の位置に戻した。

まったりとした時間に、互いの体温のぬくもりが加わり、

その心地よさに目を閉じそうになる。


「答えないってことは、当たっているってことでしょ」

「そう思いたければ、思えばいいよ」

「……ん、もう!」


利佳子は、自分の言葉に動じない昴の耳に、指を入れようとする。

昴はこの時間に終止符を打とうと、その指を払い、自ら体を起こした。

利佳子は昴の表情を確かめようと、うつぶせのまま顔だけを上に向ける。

昴は利佳子の視線を受けながら、いつものように服を着始めた。


「不思議な話をしてもいい?」

「あぁ……」

「私ね、昴と過ごすと……なぜか広太郎にも優しく出来るのよ」


広太郎とは、『尾山建設』の社長であり、利佳子のパートナーだ。

年が二回りも離れているため、何を言っても聞いてくれるのだと利佳子は語り続ける。

昴はネクタイを締め直し、スーツの上着を身につけボタンをとめた。

その姿を鏡で確認すると、後ろで首を傾げ笑っている利佳子と、間接的に目を合わせる。


「だとしたら、しばらくご指名もないようだ」

「そういう意味ではないの。もう、人の話を聞くって言ったでしょ」


利佳子はベッドの中から右足を出し、昴に向かって軽く蹴るような仕草を見せた。

白く細い脚に続く爪は、綺麗にペディキュアがついている。

ほんの数分前、昴の体にからみつき、刺激を求めた脚とは全く別の、

茶目っ気あふれる仕草を見せた。


「楽しませてくれた人を蹴ろうとするなんて、
君の脚は礼儀を知らないとんでもない脚だ」


昴はその左脚をつかみ、持ち上げるような仕草をした。

利佳子にかかっていた布団がはがされ、顔にかかってしまう。


「キャー! 昴、やだ、もう!」


驚きの声を出し飛び起きた利佳子を残し、昴は軽く挨拶をすると、先に部屋を出た。





悠菜が昴と取引先の店へ出かけてから、1週間が過ぎた。

焦らずに待てばいいというようなことを、言われたのはわかっているが、

ただ、待っているだけでいいのだろうかと、

オーナーの佐藤から渡された名刺の電話番号をじっと見る。

悠菜の左手が一度受話器を握ったが、斜め先に見える昴のマイペースな仕事ぶりに、

ため息をひとつつくと、結局手を離し、名刺をケースへ戻した。


その日は仕事を終え、ラッシュの電車から降りると、

ワインとスパゲッティーのソースを買うためにスーパーへ立ち寄った。

料理は嫌いではないが、外回りをした日は脚もパンパンにはっていて、

一から作る気持ちにはなれず、他にも簡単に口にできそうなものを、

いくつかカゴに入れる。

レジを通り、スーパーの袋を手に下げながら、アパートまで10分の道のりを歩き、

1階にある集合ポストをのぞくと、中に白い封筒が1つだけ入っていた。

ダイヤルを暗証番号に合わせ、扉を開ける。

『調査依頼の結果』と表書きがあり、悠菜の鼓動は一気に速くなった。


知りたいと思い依頼したことは間違いないのに、

いざこの手に届いたことが正しかったのかと、悠菜は封筒を見たまま動けなくなる。

同じアパートの住人に、『こんばんは』と声をかけられ、

慌てて頭を下げると、気持ちを現実へ引き戻した。





次の日、午前中に主な仕事を終えた昴は、午後、営業に出るふりをして、

『小麦園』を目指しタクシーに乗り込んだ。

顔を見せて欲しいとメールを寄こした園長の康江が、

本当は何か重要なことを語るのではないかと、不安な気持ちだけが増していく。

窓ガラスに雨粒がついては、スピードについていけないまま下へ落ち、

また新しい雨粒がその場所を奪う。

そんな終わりのない繰り返しを見ていると、タクシーはスピードを落とした。

エンジン音が聞こえ、昴の姿が見えたのか、

支払いを終える頃には、康江が目の前に立っていた。


「昴」

「園長先生、ごぶさたしてすみません」


昴は康江に頭を下げると、懐かしい『小麦園』の食堂へ向かった。

康江は昴が来るから用意していたと、コーヒーミルを指差し笑顔を見せる。


「まだ使ってくれているんですか」

「当たり前でしょう。これで作ったコーヒーを飲むのは、私の楽しみなのよ」


昴が社会人になり、綾音を引き取ることを決めた日、

世話になった康江に贈ったのが、このコーヒーミルだった。

いつも子供たちのために奮闘する康江に、

これを使って、少しでも自分の時間を持って欲しい。

昴は懐かしい気持ちを、思い出す。


食堂へ案内され、上着を脱ぐと、

注がれるお湯の湯気に、まろやかなコーヒーの香りが混じり始め、昴の鼻に届く。


「昴、とにかくそこに座ってちょうだい」


昴は軽く頭を下げると、康江の方を向き、コーヒーが出来上がっていくのを見続けた。

向かい合う二人の間に、カップが2つ置かれ、

そこにはできたてのコーヒーが入る。

昴は黙ったまま、しばらくコーヒーの味と香りを楽しみ、

康江もカップに半分くらいの量になるまで、黙って飲み続けた。


「この間、綾音が来たのよここへ」


康江は、綾音がどういう理由でここへ来たのかを語ることはなかったが、

昴にはすぐに綾音の気持ちが理解出来た。

康江は、カップに向かった昴の左手を素早くつかむ。

昴の目に見えた康江の手は、数えられないくらいのしわが刻まれ、

水仕事や畑仕事で出来たのか、少し赤みを持ったままのキズもある。

光り輝く指輪もなければ、彩をつけるマニキュアもない。

お世辞にも美しい手とは言えないが、それでも、その日焼けした手を見れば、

康江がどんな生活を積み上げてきたのかが、当たり前のように感じ取れる。


「ねぇ、昴。自分を幸せにしない人には、人を幸せにする資格がない……
そう言ったの、覚えている?」


昴は、康江に手を握られたままの姿勢で、小さく頷いた。

この言葉は、目の前にあるコーヒーミルを渡したとき、

その返事として康江から受け取ったものだった。


「昴が無理をしているのではないかと、綾音は綾音なりに心配しているの。
その気持ちはわかるわよね」


時を重ねた康江の手に包まれた、自分の左手を見ながら、

昴は昨日、利佳子と過ごした時間を思い出す。

昴は、苦労しながら恵まれない子供たちに愛情を注ぎ続ける、時を刻んだ康江の手に、

昨日利佳子が口に含んだ親指が触れるのを避けようと、隙間を見つけて折りたたむ。

康江は昴が手を引こうとしたと思い、その時に両手を離した。


「わかっています」


引き取った頃とは違い、綾音も世の中の仕組みがわかるようになり、

確かに自分たちの生活を、怪しく思うことがあるのも、当たり前のことだった。

康江の真剣な眼差しを見た後、昴は余裕の笑みを浮かべる。


「すみません、園長先生に心配をかけてしまって。
もう少し綾音に、しっかりと説明をすればよかったのですが、
あれこれ細かい話をしても、理解出来ないだろうとそう思っていて。
ダメですね、あいつももう、大人なのに」


昴は、自分が『salon』の中で、特別と言えるくらい成績を上げ、

世間の同年代よりかなり高い給料をもらっていること、

そして、何名かの友人と投資した株が、

思っていたよりも高配当をつけたことを、順序よく語った。


近頃の綾音の口ぶりを見ていれば、こんなことが起こるだろうというのも想定内で、

その余裕ある説明に、康江は少しずつ表情を和らげる。


「そう……株が……」

「はい、だから、綾音が気にするようなお金ではないのです。
精一杯学生生活を楽しんでもらって、夢を現実にしてくれたら、それで」


昴の口から出た最後の言葉は、本音そのものだった。

『お金』がどんなものであったとしても、結果が全てであり、

そこから得る物さえあれば、それ以外のことなど何も問題はない。


「昴がそう言うのなら、私はこれ以上追及はしない。でも少し痩せたよ昴。
綾音のためにも、無理だけはしないように」

「……はい」


思い出のミルで引いたコーヒーを飲み干し、

昴は1時間ほど滞在したあと『小麦園』を出た。

雨は多少弱まったものの、歩いて駅まで向かうことは出来ないと、タクシーを呼ぶ。


「園長先生も、お体には気をつけて」

「ありがとう」

「また、来ます」


康江に向かって丁寧に頭を下げると、自動に開いた扉から昴はタクシーに乗った。

駅へ向かうことを告げると、扉はまた閉められる。

玄関で手を振る康江にもう一度礼をした後、昴は体を前に向け、

少し緩んだ口元を、ここでしっかりと結んだ。



誰が何を言おうが、そんなことに心を揺らしているわけにはいかなかった。



あと2年。



『立原音楽大学』をある程度の成績で卒業出来れば、

プロコンテストへの道も開かれるし、先輩を多く送り込んでいる、

一流の楽団へ入る道も選ぶことが出来た。

幼い頃、どうしようもないのだと遠くから森を見つめ続けた母の願いと、

一流の親を持たなかったことで、自分を排除した女性とその家族への怒りの気持ちが、

綾音の成功によって、全てなかったことに出来る。

昴はそう強く心に言いきかせながら、まっすぐに前を見た。


花柄の傘を差しながら、雨の道を女性が一人歩いてくる。

タクシーは少しスピードを落としたが、歩道の狭さにあやうく接触しそうになった。

その時、昴の携帯がメールの着信を知らせ、ポケットから取り出すと、

相手は先日、初めて触れあった『渡瀬晴恵』であることがわかる。

晴恵は、まだ交渉メールに慣れていないのか、具体的な日付を示さずに、

昴の予定だけを聞いてきた。

それでも、『会いたい』という思いだけは伝わり、

昴はもう少し晴恵が具体的に予定を決められるようにと、丁寧に返信した。


「はぁ……この雨に歩きは無謀だったかな」


昴がすれ違った花柄傘の女性は、悠菜だった。

ヒールには雨用のカバーをつけているが、ストッキングには少しハネが上がる。

それでもなんとか玄関まで到着し、

傘から雨粒を振り払うと、広がらないようにしっかりと閉じた。

インターフォンを押すと、出てきたのは康江で、悠菜は手を振りながら挨拶をする。


「悠菜さん、どうしたの急に」

「すみません、連絡してから来るべきだとも思ったのですが、
なんだかそうすると決心が鈍る気がして」


数分前に昴がここにいたことなど知らない悠菜は、

ヒールを脱ぐと、玄関先に残されていたスリッパを履いた。

食堂に入ると、テーブルの上にコーヒーカップが2つある。


「先生、どなたかいらしていたんですか?」


康江はカップを2つ手に持ち、

以前、ここで世話をした子のお兄さんが来たのだとそう説明した。

自分にとっては、息子と同じような存在だと、付け加える。


「そうですか……」


悠菜と康江の出会いは、今から4年前のことだった。

医者から余命を宣言された母の入院に、仕事を辞めて付き添っていた悠菜は、

そのホールで講演会を開いた康江の話を、偶然聞くことになった。



『人は、どんな人でもみんな、人生のチャンスがあるのです』



親のいない子供や、家庭的に恵まれない子供の手助けをしていた康江の言葉は、

母一人に育てられ、その母とも別れの時が迫っていた悠菜には、

温かく、そして力強く感じられるものだった。


「お母さんが亡くなって、もうどれくらい?」

「3年になりました」

「そう……。それじゃ、悠菜さんと手紙のやり取りをするようになってからは……」

「講演会からですから、4年になります」


康江は、昴の残したコーヒーミルでまた豆をひき始めた。

悠菜は、あまりここでは見かけない光景に、

自分より前にいた客が、康江にとってとても大切な存在なのだと、そう感じ取る。


「今日はどうしたの?」

「あ……はい」


悠菜はバッグから白い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

康江は悠菜の前に新しいカップを置き、その封筒を見る。


「これ……」

「先生にも以前お話した調査の結果です。
亡くなった母が、私に最後まで言わなかった父の……。、
もし、わからないのなら色つきの封筒で返事をくださいとお願いしました。
でも……」

「白よね」

「はい、きっとわかったのだと思います」


悠菜の母は、結婚をせずに悠菜を一人で育ててきた。

小さな手鏡を悠菜に渡し、これが父親の残したものだと言い続け、

最後までその正体を明かすことはしなかった。

母の強い思いを知っていた悠菜も、自分から父親についてたずねることはしなかったが、

母が病に倒れてからは、急に会った事のない父親への思いが膨らみ、

その話を康江に相談し続けてきた。


「知りたいことを知る権利はあると、今でも先生の言うとおりだと思って、
手鏡と母の経歴を調べて、調査の依頼をしたのですが、
いざ、こうして封筒が目の前に来たら、開ける気持ちになれなくて」


小さなカップに、ゆっくりとコーヒーが注がれた。

漂う香りに、悠菜は気持ちを落ち着かせようと呼吸をする。


「とにかく飲んだら? 気持ちが落ち着くから」

「はい……」


悠菜はカップにミルクだけを入れ、

一緒に出してもらったスプーンでクルクルとかき回した。

黒に近い色だったコーヒーが、白と混ざっていく。


「ずっと気にしていたことなのでしょ? それでいいの?」


悠菜はスプーンを置くと、小さく頷いた。


「今はまだ、開けるときではないような気がするんです。
だから、これを先生に預かってもらおうかと思い、ここへ来ました」

「私に?」

「はい……」


悠菜は白い封筒をもう一度手に取り、それを康江の前に押し出した。

バッグから、母が残した手鏡を取り出し、じっと見る。


「私が、自分だけでしっかりと生きていける気持ちになったとき、
一生、そばにいてくれる人を見つけて、幸せを感じられるようになったとき、
封筒を開けようと思います」

「悠菜さん」

「今はまだ……」


悠菜は、迷う自分の心を落ちつかせようと、手鏡を見つめそう言った。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

ハラハラ

拍手コメントさん、こんばんは

>昴の善悪がないような感覚に、
 綾音ではないですが怖ささえ覚えます。

確かに……
昴にとって大事なものは、こちら側から見ていると、違和感ありますよね。
それでもハラハラしながら楽しみにしてくださるのは、嬉しいです。

昴のこれからに、じっくりとお付き合いください。

不安感

昴って責任感が強いよね?
綾音を引き取って育てたってところからもわかる
その昴が二つの顔を持っていることに違和感があるのよ
どう説明していいのか、文章では表しにくいのだけど
そこに不安を感じてるんだろうね、私は・・・
絶えず、昴は大丈夫なんだろうかと思ってるから・・・



もやっと……

yokanさん、こんばんは

>昴って責任感が強いよね?

はい、強いと思います。
昴には、いなければならない人がいない……という状態。
ここが問題を産み出しているところかと。

>絶えず、昴は大丈夫なんだろうかと思ってるから・・・

おそらく、他の方もみなさん同じ思いかと。
その不安感や違和感が、この先の展開に関わってくると思います。
引き続き、お付き合いくださいませ。