10 Wine 【ワイン】

10 Wine 【ワイン】



悠菜の問いかけに、綾音からは肯定も否定もなく、話はまたそこで途切れてしまう。

悠菜は、あの力強い演奏とは違う、綾音のどこか寂しげな雰囲気に、

昴に対し、思ったことを言えてないのだろうと感じ取った。


「お兄さんには、将来のことを色々、話したりしないのですか?」

「いずれは話さないとと思うのですけど、なかなか言えなくて」


綾音は、悠菜の前から立ち上がると、食堂の壁にかかった写真の前に向かった。

一番右端に映っているのが自分と兄だと、説明する。


「この写真は、私がここへ来た日に『小麦園』が偶然イベント中で、
混ぜてもらいました」


悠菜はもう少しそばで写真を見ようと、綾音の横に立ち、上を見る。

少し色あせた写真には、確かに昴に似た男の子と、まだ小さな綾音らしき女の子がいた。


「兄は、一番遊びたい時期に、一生懸命バイトして、
私にピアノを習われてくれました。母が生きていたらきっと、そうしていただろうと。
兄は、母の考えていたことを、どうしても叶えたかったんだと思います。
学校の帰り、ピアノの先生の家へ寄って……それを毎日のように繰り返していました。
当時は、習い事にお金がかかることもわからなくて、私がただそれを受け入れて……」


大学生であり、一人で生活をしながら、

さらに妹にピアノを習わせることがどういうことなのか、悠菜にも多少わかる気がした。

学費、生活費、習い事の費用、

昴の生活は、勉強とバイトでほぼ毎日が埋まっていただろうと想像できる。

悠菜は、自分には母ひとりだけだったが、それでも支えてくれる人がいただけ、

楽をしていたのだと思えた。


「兄が大学を卒業して、また一緒に暮らすようになりました。
年が離れていることもありますが、私にとっては、兄は兄だけではなくて、
父親のようでもあるので……」


綾音が昴に遠慮をする理由を聞きながら、悠菜の目は写真を見続けた。

父親のこともわからない悠菜には、兄も妹も存在しない。


「うらやましいな、綾音さんが」


一つの目標を持ち、支え続けてきた関係が、

誰ひとり頼る人も頼られる人もいない悠菜にとっては、

とてもうらやましく思えて仕方がなかった。


「うらやましいですか?」

「うん、確かに、お兄さんやお母さんの思いもあるのでしょうけれど、でも……」


コンサート中も、真剣な眼差しで舞台にいる綾音を見ていた昴の横顔が、

悠菜の脳裏に蘇る。


「それでも、妹さんがこうしたいって真剣に訴えてきたらきっと、
最後はわかった……って、頷いてくれるのではないですか」

「……そうでしょうか」

「そうですよ、それが、『愛情』ってものですから」


昴は確かに余計なことは語らないし、仕事の話をしていても、

甘やかしてくれるようなところは一切無い。

しかし、それでも最終的には、冷たく突き放すようなことはなかった。


「綾音さん、また、素敵な演奏を聴かせて下さい」

「……はい、ぜひ」


悠菜と綾音の『再会』は、康江が仕事を終えて戻るまで続き、

その後も昴の話題をからめながら、太陽が傾くまで話しに花を咲かせた。





その日の仕事を終え、昴がマンションへ戻ると、

テーブルの上に、ビニール袋に入った野菜があった。

どこか不揃いで、土のついたものは、近くの店で買ったわけではないことがわかる。


「『小麦園』か……」

「あ、お帰り、そうなの。園長先生がお裾分けしてしてくれたから」


綾音は買ってきた総菜と、サラダなどを並べ一緒に食べようと声をかける。

昴は部屋へ入ると先に着替え、すっかり支度の整ったリビングへ戻った。

箸を持ち、茶碗の中からご飯をすくう。

なにげなく前を見ると、昴の顔をじっと見る綾音が見えた。


「どうした、何かあるのか」

「ううん……」


綾音は、食事中に、おもしろい話をすることもなく、

だからといって会社の愚痴や怒りをこぼすこともない昴を見ながら、

悠菜のことを考えた。愛想がないことはキリッとした顔を見せていると言われたものの、

本当にそうだろうかと首を傾げてしまう。


「何か言いたいことがあるのなら、言えばいい」


綾音は自分が昴をじっと見ていたことに気づいていたと、慌てて箸を持った。

学生で、ピアノのレッスンがあるため、

いつもこんな出来合いの総菜で申し訳ないと適当に話を作る。


「そんなことは気にするな。食事なら外でも出来る。
お前は今、自分にしか出来ないことをすることの方が重要だ」

「うん……」


温めていた味噌汁を出すのを忘れた綾音は、そこで立ち上がり2人分をよそった。

お盆に入れ、1つを昴の前に置く。


「でもさ、お兄ちゃん。いつまでもこんな状態ではいられないでしょ」

「どういう意味だ」

「お兄ちゃんも、もういい年齢だし、そうだな……ほら、
会社で素敵な人とかいないわけ?」


綾音は、悠菜のことを思い浮かべながら、そう昴に問いかける。


「いないな……」


昴は、数秒考えることもなく、すぐに返事を寄こした。

あまりのあっけなさに、綾音は納得しながらも、悠菜の優しい笑顔を思いだし、

もう一度切り返す。


「本当にいないの? 意外に気づかないものだって言うわよ。
近くにいすぎると……」


綾音の言葉に、昴は食事をする手を止め、顔をあげた。

何か返事があるのかと、綾音は期待する。


「……いない」


昴は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出した。


「どうしたんだ、そんなこと急に聞いてきたりして。
『小麦園』で園長先生に、昴の近況報告でも聞いてこいと言われたのか?」

「そうじゃないけれど」

「『小麦園』に行くなとは言わないが、コンクールに向かう大事な時期だ、
何よりもピアノのことを優先して考えろ」


綾音は麦茶のグラスを自ら取りに向かい、先に昴の前に置く。

一生懸命話を振ったわりには、何も得るものはなく、

渇いた喉を潤そうと、入れてもらった麦茶を口に含んだ。





悠菜は取引先での話を終え、駅へ向かう。

途中にある百貨店の前には、大きな『ショーウインドー』があり、

そこには、純白のウエディングドレスが飾ってあった。

細いウエストと長いベール。手にはかわいらしいブーケ。

隣には背が高く、少し髪がウエーブするマネキンの男性が立ち、

隣の女性のマネキンをエスコートする。

悠菜の目は、女性のドレスよりもむしろ男性のマネキンに向かい、

その真っ白い石膏の無表情な顔に、昴の顔を結びつけてしまう。

悠菜は、空想に走りそうになった頭を軽く振り、そのまま駅へ歩いた。


思ったよりも仕事がうまくいったので、それを報告しようと営業部へ戻り、

昴の席を見る。席は空席で、しかもすっかり片付けられているように思え、

ホワイトボードを見ると、『畑野』の横に『出張』と記入してあるのが見えた。

場所は『大阪』と『京都』と記入されている。


「畑野さん、出張?」

「あ、そうみたいですよ。
大阪の難波支店へ行くのと、京都で何やら打ち合わせがあるみたいです」

「あ、そうなんだ」


仕事がうまくいったことをネタにして、また会話を作ろうとした悠菜は、

力が抜けたまま椅子に座る。

綺麗なウエディングドレスに浮かれていた気分は、そこで一気にしぼんだ。


「あ、住友さん、お疲れ」

「お疲れ様です」

「これ……」


悠菜に気づき、何やら書類を手渡したのは笠間だった。

笠間から受け取るものなどないはずで、不思議に感じながらも手を伸ばす。


「僕からじゃないですよ、これは畑野さんからです」

「畑野さんから?」


昴が残したものがあると聞き、悠菜の気持ちはまた一気に弾んだ。

書類には2枚の付箋が貼ってあり、1枚は、以前一緒に出かけた取引先から、

確認の電話が入るかも知れないので、

それについてどう答えたらいいのかが書いてある。

そしてもう1枚には、悠菜が新規に開拓した営業先に提案する書類に関して、

昴なりの意見が書いてあった。

悠菜は、質問には答えると言ってくれた昴に、今までも何度か質問をぶつけてきた。

それも、この取引先のデータが完了すると、全て終わりになる。

悠菜の書いたものを認めてくれたような言葉に、ほっと胸をなでおろした。





仕事を終え、悠菜は電車に乗り空いた席に座ると、バッグの中から手帳を取りだし、

一番後ろのページをそっと開けた。

そこには今日昴から受け取った、付箋が2枚、並んでいる。

悠菜に向けての言葉が書いてあるとはいえ、内容は仕事にからんだもので、

そっけないものだった。それでも昴が書いてくれたことが嬉しくて、

とてもゴミ箱に捨てる気にはなれずに、こうして貼り付けた。

丁寧に読んでみても、1分足らずの内容を、悠菜は車内で何度も読み直し、

駅につくまで見続けた。


先日、『小麦園』でもらった野菜を使い、あらかじめ作った煮物があるため、

今日はどこにも立ち寄ることなく、アパートへ向かおうとする。

それでも、あることに気付いた悠菜は、その足の方向を変えた。


悠菜が入った店は、洋酒を取り扱う店だった。

隣にはそのお酒を飲めるショットバーがあるが、

いつもは通り過ぎるだけで入ったことはない。


「いらっしゃいませ」

「あの……ワインを買いたいのですが」


店主は悠菜の要望にあうワインをいくつか探し、

試飲用のグラスを目の前に差し出した。

勧められたワインを数本味見させてもらい、ある1本に決める。

綺麗な包装紙に包んでもらったワインを手に、悠菜はアパートへの道を歩いた。

角を曲がると、以前見た場所にまた黒の高級車が止まっていて、

中にはひとりの男性が乗っている。

目を合わせることは避けようと、悠菜は気づかないふりをしながら、

集合ポストをのぞき、そのまま部屋へ向かった。

部屋の灯りをつけないまま、カーテンの隙間から車を見ると、

静かなエンジン音が聞こえ、車は大通りへ向かって走りだした。





昴は仕事を切り上げると、そのまま携帯で場所を確認した店へ向かう。

初めての店に、扉の近くで中の様子を伺うと、一番奥のテーブルで足を組み、

カクテルを飲む利佳子が見えた。

入ってきた昴に気付き、小さく手を振ると投げキッスのような仕草を見せる。


「すごいね、君のテリトリーは全国区なんだ」

「広太郎が持つビルは全国にあるから、頼まれたパーティーに出ているだけで、
勝手にポイントが溜まっていくわ。またハワイにでも行ってこようかな。
ねぇ、昴も一緒に行く? もちろん旅費は私が出すから」

「申し訳ないけれど、海外勤務は受け付けていません」

「はいはい……」


利佳子は隣に座った昴が、オーダーをしたことを確認し、

ネクタイを直す振りをしながら、カードキーを胸のポケットに忍ばせる。


「私が大阪へ来た日に、昴も仕事で大阪へ来るなんて、
私たちは運命で結ばれているってことよね」


利佳子の人指し指が昴の唇に触れ、ゆっくりとなぞるように動く。


「こうして、たまには場所を変えるのも、あらたな刺激になっていいかも」


そう言うと昴の首筋にその指を這わせ、怪しく笑みを浮かべた。

利佳子は無表情の昴の顔を見た後、クスクスと笑い出し、

目の前のカクテルグラスをつかむ。

広がる夜景をほめながら、残ったお酒を飲み干した。

ウエイターが昴の前にカクテルを置いたときには、利佳子の手は昴の腰に回り、

酔いが回った体は、全てを投げ出すように寄りかかっていた。





悠菜は手帳から昴の文字が書かれた付箋を取り外し、

毎日化粧をする時に使う鏡の前に貼り付けた。

それをまた剥がすと、ファイルの中にしまったが、結局鏡の前に戻してしまう。

テレビをつけニュースを見ながら、少し遅めの夕食を取った。

髪の毛をびしっと固めたアナウンサーは、世界情勢を語り、

政治の動向を解説者と話し合う。

悠菜はそのニュースを聞きながら、コップに注いだ麦茶に口をつけた。



その頃、利佳子とベッドに横たわった昴も、同じニュースに目を向けていた。

利佳子は映像に映っている政治家を指差し、ケラケラと笑う。


「何? 知り合い?」

「知り合いって言うか、この間、広太郎の主催するパーティーへ出てきて、
ぺこぺこ頭を下げていた人よ」


髪は貫禄のある白髪で、マスコミに囲まれての発言は、的を得たものだった。

世の中からは、『豪腕政治家』だと評判も高い、当選回数も重ねた二世議員だ。


「パーティー……か」

「そう、こういう世の中でしょ、政治資金を集めるのも大変みたい。
テレビの前では結構しかめっ面なのに、しわだらけの顔で笑っていたわ。
奥様のお着物は素晴らしいですね……って」

「へぇ……」

「お着物は素晴らしい、宝石が貴重なものだ、センスがいい……なんて、
もう聞き飽きるくらい」


利佳子は眠くなったとテレビを消した。

テレビの灯りが無くなり、部屋はまた薄明かりに戻る。


「昴……」


利佳子は甘えたような声を出し、横にいる昴の胸へ顔をうずめようとする。

昴はそれを振り払うように体を起こし、壁にあるスイッチに触れた。

薄明かりだった部屋に、眩しいライトが光る。

昴は、椅子にかけた自分のシャツを手に取った。


「何? どこに行くの?」

「どこって、自分のホテルに戻るんだ」

「やだ……何よそれ、今日はここに泊まればいいじゃないの。
ここからだって、明日の仕事先へ行けるでしょ」


利佳子はそのためにこの部屋を選んだと頬を膨らませ、

大きなベッドにひとりは寂しいとごね始める。


「広太郎を呼べばいいだろう。会社からお金をもらって出張に来ているんだ。
ここから仕事へ向かうわけにはいかない」

「チェックイン、してこなかったの?」

「こっちへ来てすぐに仕事で動いていたから……」

「何よそれ、それならホテルはどこなの?」

「それは君に関係ない」


納得がいかないとブツブツ文句を言う利佳子を無視しながら、

昴はマイペースに身支度を整えた。

雅仁や達也がどうなのかは知らないが、昴は今まで一度も、

契約以外の時間を相手とともにしたことはない。

日常生活とは別のところにある、この関係を切り離すのには、

必ずそれは必要な行為だった。


「頑固だからね、昴は。わかったわよ、これ以上言わないから機嫌直しなさい」

「別に機嫌を損ねているわけではないよ」


鏡の前でネクタイを締めると、バスローブを軽く羽織った利佳子が、

40年物の高級ワインが入っていると、紙袋を差し出した。

昴がのぞくと、確かに重そうな木箱が見える。


「今日のイベントでいただいたの、そうとういいものらしいけれど」

「いいものなら飲めばいい」

「ワインはあまり好きじゃないの、昴は飲むでしょ? ワイン」


昴は上着を羽織ると、改めて鏡の前に立った。

携帯を開き、時間を確認する。

利佳子との契約時間は、この時点で5分ほど経過していた。


「広太郎に持って帰ればいいじゃないか」

「広太郎は今、アルコールを禁止されているの。
もう年なんだもの、糖尿だの血圧だの色々と危ういのよそれに……」

「それに?」

「こんなもの持って帰るの、重いし、面倒」


買えば何十万もするような高級ワインだが、家に帰ればいくつもあると、

利佳子は台の上に紙袋を置く。


「それなら、君の付き添いに来ている人が、色々いるだろう」

「近い人にやるのはまずいでしょ。
一応相手にしてみたら気合を入れたお土産なんだもの。
ねぇ、昴が持って帰って。誰かにあげてもいいじゃないの。
ほら、出張のお土産とか……」


利佳子は、昴が持ち帰らないのなら、

ホテルの浴槽に高級ワインを流してしまうと言い始める。

昴は、わがままに振舞う利佳子から、半ば強引に紙袋を渡され、ホテルの部屋を出た。





利佳子の部屋から出て戻ったホテルは、高級とはいえないビジネスホテルだ。

部屋も狭いし、ベッドのスプリングも比べものにはならない。

それでも誰にもはばからず呼吸が出来る空間に、心が落ち着くのを感じる。


昴はシャワールームに入り、強く蛇口をひねる。

出てきたお湯を頭に受けながら、利佳子との時を全て洗い流した。





『Flow』
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いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

No title

こんにちは。私はGWでも普段と変わらない毎日で、こちらの更新を楽しみにしています。

まだ、昴の正体を掴めないような気がして、読んでいても重たさが抜けません。
でも、悠菜と綾音が近付いてきたようで、そこが救いになっていくのかな。

変わらず営業です

pocoさん、こんばんは
発芽室を楽しみにしてくださって、取っても嬉しいです。

>まだ、昴の正体を掴めないような気がして、読んでいても重たさが抜けません。

そうですね、表と裏、両方の昴を皆さんは見ているので、複雑かと。
悠菜と綾音の出会いがどう影響するのか、その辺も気にしながら、お楽しみ下さい。

すねちゃいますか^^;

昴は、お母さんの夢ではなくて自分の夢を綾音に託してるのかな?
綾音にとっては負担だわ
う~ん、二人が兄妹って感じがまったくしないーー;

お!?、あの黒塗りの車が出てきましたね

昴がもう一つの仕事から、いつでも抜け出せるようにしてるよね
早く止めたいんだろうな~

ピアノも弾かないとすねちゃいますか^^;
我家のピアノはすねちゃうのを通り越してストライキ中かも(笑)



謎が謎を呼ぶ

yokanさん、こんばんは

>う~ん、二人が兄妹って感じがまったくしないーー;

しませんか……。
いやいや、昴と綾音の年齢差ももちろんあるでしょうし、
今の状態だと、綾音にすれば『対等』という気分は、全くないでしょうね。

目の前に座っていても、心が見えない……
そんなところでしょう。

兄妹に見えない二人、黒い謎の車、昴の気持ち……
yokanさんの持つ色々な謎をごちゃ混ぜにしながら、さらに続きにお付き合いくださいね。


>ピアノも弾かないとすねちゃいますか^^;

あはは……それを口実に、お嬢さんをお家に呼びましょう……っていう提案はどうかしら。