11 Value 【価値】

11 Value 【価値】



悠菜は次の日、昨日購入したワインの入っている紙袋を持ち、『salon』へ出社した。

出張に出かけた昴だが、午後、営業部に戻ってくることになっている。

今まで、世話になったお礼を込めて渡すワインが、間違って割れたりしないように、

悠菜は机の一番下の引き出しにいれ、

周りを雑誌や、いつもひざにかけているブランケットで保護をした。





『立原音楽大学』のピアノレッスン室では、綾音が課題曲の練習に取り組んでいた。

はじめから自分は無理だと諦め、コンクールレース自体を拒否する者、

絶対に負けないと周りを威嚇し、学校以外の講師をつけ特訓する者、

学生の取り組み方は、それぞれだった。

綾音は、ランチをするために外へ出ると、空いている時間にレッスンが出来ないため、

自分でお弁当を持ち、急いで食べるとまた部屋へ戻る。

鍵盤に手を置き、軽く指の練習を済ませ、流れに乗るように弾き始めたが、

どうしても納得できない箇所があり、その何小節だけを何度も繰り返した。


「はぁ……」


曲をマスターするまでには、必ずこうした箇所があった。

それを乗り越えなければ、自信を持って演奏に臨めない。

今年こそ、代表に選ばれて兄に恩返しをしようと、綾音はもう一度鍵盤へ手を置いた。

回数を重ねていけば、それなりに流れては行くが、どうも納得が出来ずに、

ピアノの前を動けなくなる。


「もう少し、1音を意識して、弾いてみたらどうですか?」


綾音は、誰もいないと思っていた部屋に人がいたとわかり、慌てて振り返った。

裕は綾音が思ったよりも驚いてしまったことに、すみませんと頭を下げる。


「先日はどうも、崎本です」


裕は、先日の調律から何かおかしいところはないか、

ピアノの様子を見に来たのだと説明した。

綾音は、もう会えないのではと思っていたのに、会えた事が嬉しくて、

自然と笑顔になる。


「すみません、僕なんかが生意気に言うことじゃないんでしょうけれど、
畑野さん、右手の動きに悩んでいるように見えたので」


裕は何度も綾音が同じところを繰り返すのを聞き、

一つの音を意識して、鍵盤を押すようにしたらどうかと提案した。

綾音は調律で音を聞き続けている裕の言葉を信じ、意識しながら弾きなおす。


「あ……はい、さっきよりよくなった気がします」

「そうでしょ、音の響きが濁っていません。
両手のタイミングが、あっているのだと思います」


綾音はもう一度最初から弾いて見ようと思い、鍵盤に集中する。

後ろで裕が聴いてくれているのだと思うと、

丁寧に音を出していこうと意識するようになり、それまでの迷いが消えた。

最後の音を出し終えて、後ろを振り向いたが、すでに裕は消えていて、

部屋には誰もいなかった。





昴は予定通りの新幹線で東京へ戻り、そのまま営業部へ向かった。

手には利佳子から渡された高級ワインがある。

会社へ持っていくのは不自然に見えると思い、

紙袋のまま駅前のコインロッカーへ押し込んだ。


「ただいま戻りました」

「あぁ……報告書を出してくれ」


昴の行動など全く興味がないと、豊川はプラスチックの定規で肩を叩きながら、

雑誌を見続けた。昴はいつものことだと気にせずに、頭を下げる。

移動は新幹線だったとはいえ、営業部に戻るとさすがに疲れが出て、

とりあえず席へ戻ると、大きく息を吐いた。


「おかえりなさい、畑野さん。どうでしたか? 関西は」

「先行販売の商品を、見せてもらったよ。なかなかよく出来ていた」

「あ、そうなんですか」


笠間は、昴にすぐに近づき、出張の様子などを聞き始める。

悠菜はPCに打ち込みを続けながら、そんな二人の様子を気にし続けたが、

昴は悠菜の視線に気づくこともなく、仕事を開始した。





その日は週末の金曜で、定時を過ぎると営業部員達は競うように退社した。

昴は、豊川にまた嫌味を言われることがないよう、報告書を仕上げてから帰ろうと、

用紙を用意する。その時初めて悠菜も残っていることに気付き、

昴は、頼んでおいた連絡が来たのかどうか聞こうと、立ち上がった。


「これ、ですよね」


悠菜は、渡された書類と、取引先からもらった連絡についてのメモを取り出し、

昴の席へ移動する。途中まで進んだ時に忘れ物を思いだし、

引き出しからワインの袋を取り出した。


「溝口オーナーからは、当初の予定通り進めて欲しいと許可をいただきました。
ただし、店のオープンより早い時間だと、
裏の通用口が開いていない可能性があるので、必ず連絡を入れてほしいそうです」


悠菜はそう説明すると、店が入っているビルの見取り図を一緒に差し出した。

地下の搬入口がどうなっているのか、先に調べておいたのだと付け加える。


「そうですか、ありがとう」

「あの……」


悠菜は昴に向かって、ワインの入った紙袋を差し出した。

2か月の間、強引に仕事を教えて欲しいと、

一緒に行動させてもらったことのお礼だと言う。


「ありがとうございました」

「こんなことはしなくていいのに」

「いえ……。畑野さんが普段、どんなものを飲まれるのか、私なりに考えたのですが。
考えれば考えるほど、値段が上へ向かってしまって。
これでも私には精一杯のワインです。高級なものとはいえませんが、
味はなかなかよかったですから、どうぞ……」


昴は差し出してくれた悠菜に対し、これ以上断るのも申し訳ないと思い、

その手提げ袋を受け取った。

食事の時にでも楽しませてもらいますと、頭を下げる。


「畑野さんの仕事を見せていただかなければ、
私、きっと、どこかで失敗していた気がします」


昴は、初めて仕事に意見をしてきた悠菜の目が、少し優しく変化していることに気付く。

それでもその目は、あの時と同じように、強くひきつけられ、

吸い込まれそうな気がしてしまう。


「貴重な経験をさせていただきました」

「いえ……」

「それでは、お先に失礼します」


悠菜はもう一度昴に頭を下げると、デスクを片付け営業部を出て行った。

昴は残された手提げを見た後、また書類に目を向ける。

昴が全ての仕事を終え、『salon』を出る頃には、

駅のあちこちにタクシーが並びだす時刻になっていた。


昴は、手提げ袋を持ったまま駅につき、改札を通ろうとしたが、

ロッカーに利佳子から受け取った高級ワインがあることを思い出し、方向を変えた。

目の前を少し慌てた様子の女性が通り、それを避けながら前へ進む。

しかし、昴の足は、ほんの数歩進んだところで立ち止まった。

左手に持った紙袋に、別の通行人がぶつかりそうになる。

昴はそれを素早くかわし、もう一度方向を変えると、

ロッカーからワインを取り出すことなく自動改札を通り、駅のホームへ向かった。





昴が家へ戻ると、テレビをつけたままうたた寝している綾音がいた。

ピアノは練習を終えた状態なのか、まだ楽譜が乗ったままになっている。

昴は手提げ袋をテーブルに置き、そのピアノを片付けようとする。

綾音はその音に気付いて、慌てて目を開けた。


「おかえりなさい」

「ただいま。綾音、眠いのなら、きちんとベッドで寝なさい。
夏だからといって、体調を崩す可能性もあるだろう」

「あ……うん」


綾音はわかったと何度か頷き、少し背伸びをし、

昴がテーブルに置いた手提げ袋をのぞく。


「どうしたの? これ。ワインじゃない。お兄ちゃんが買ったの?」

「いや……」


昴は、『salon』の子会社から本社に来た女性が、

仕事で世話になったお礼だと、渡してくれたことを、正直に説明する。


「女性?」

「あぁ……」


綾音はそれを聞き、すぐに相手が悠菜であるとわかる。

昴は紙袋から中身を出し、包装紙を開くと瓶を手に取った。


「へぇ……お世話になったってくれたんだ、いい人なのね」


悠菜のイメージを聞きだそうと、綾音は話題をつなげようとする。

今の言葉に対する昴の反応を見ようと、視線だけ動かした。

綾音の言葉の裏などわからない昴は、銘柄と産地をチェックすると、

瓶をサイドボードへ入れてしまった。


「飲まないの?」

「今日はいい」


綾音はこのチャンスを逃してなるものかと、サイドボードを開け、

自分でその瓶を手に取り、美味しそうだとか、かわいい瓶だとか言いながら、

話を続けようとする。


「ねぇ、どんな人なの? これをくれた人って」

「どんな人? どういう意味だ」

「どういう意味って職場の人なのでしょ、どんな人なのか聞きたいじゃない」


昴はあらためて上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら悠菜のことを考えた。


「大きな声でよく話して、なんでも首を突っ込みたがる……」

「うん……」

「騒々しい人……かな」

「騒々しい人?」

「あぁ……」


昴はワイシャツのボタンを一つ外し、軽く首を動かした。


「へぇ……」


綾音は、ワインの瓶を元の位置に戻し、キッチンに向かうと、

流しに入れたままになっている食器を洗おうと蛇口をひねった。

これ以上、昴から悠菜のことを聞きだしてしまうと、

思いとは別の方向へ動く気がして、ためらってしまう。

蛇口からは勢いよく水が流れ、洗剤をつけたスポンジが汚れを落としていく。


「でも……今時には珍しい、正直な人だな」


昴はなにげなくそうつぶやいたが、水の音と食器のぶつかる音にかき消され、

綾音の耳には届かなかった。





裕のアドバイスを受けてから、綾音は順調にレッスンを続けた。

コンクールの代表に残りたいという思いと、

裕に完成した曲を聞いて欲しいという思いが、さらに気持ちを前向きに変える。

ピアノ科の主任を務める、望月教授から、

『このまま順調に……』とアドバイスを受け、その日の授業を終えた。


学校の帰りにどこかへ寄らないかという同級生の誘いを断り、

綾音はレッスン室へ入った。

誰もいない部屋の中で、以前ファイルに押し込んだ裕の名刺を取り出してみる。

会社の名前と住所の下に、電話番号が書いてある。

綾音は両手でその名刺を持ったまま、大きく深呼吸をした。

携帯電話を握る手が、なぜか震えだす。

呼び出し音が2回なった後、会社の事務員なのか、女性の声がした。


「もしもし……」





「調律?」

「うん……お兄ちゃんが休みの日にお願いしようと思って」

「休みは暦どおりだけれど、どうしたんだ急に」

「以前調律してから、時間も経ったでしょ。コンクールのレッスン前だから、
微妙なズレも直しておきたいの」

「……そうか」


綾音は、裕に電話をつなげ、

自宅にあるピアノの調律をお願いできないかと、話を切り出した。

この自宅で課題曲を弾けば、裕に聴いてもらえるとそう考えたからだ。

しかし、兄の許しがなければ勝手な行動は出来ないと、

調律が必要なことを懸命に訴える。

コンクール前の大事な時期だと言われ、昴もそれを了承した。


「日曜日、大丈夫ですか?」

『はい、必ず行きます』

「ごめんなさい、こんなふうに強引なことをして」

『いえ……僕は正直、嬉しいです』


電話から聴こえる裕の言葉に、綾音の鼓動はさらに速まった。

別にデートするわけでもないのだが、電話で話しをすること自体、

近付いた気がして嬉しくなる。


『携帯の番号、教えてもらえませんか……』


裕からの問いかけに、綾音は『はい』と答え、互いの番号を交換した。





日曜日は朝からいい天気だった。

綾音はカーテンを開き、リビングの掃除をし始める。

昴はその音で目覚め、顔を洗うと、用意された朝食を口にした。


「ずいぶん早い行動だな」

「だって、部屋が汚いのは失礼じゃない。調律に来てくれるからといって、
周りだって見えるし」

「あぁ……まぁ、そうだけれど」


綾音は機敏に動き、さらに、玄関やトイレまで掃除をし始め、

昴はテレビをつけ、ニュースを見ながら、経済新聞を一気に読み始めた。





裕は、仕事のユニフォームを着た状態で、マンションへ現れた。

綾音はすぐに扉を開け、笑顔で出迎える。


「失礼します」


裕は冷静に仕事を開始し、昴はその様子をコーヒーを飲みながら観察した。

綾音は時々昴の顔を見ながら、それでも裕のそばで仕事の様子を見続ける。

ほぼ予定通り仕事は終わり、調律の状態を確認するために、軽く曲を弾いた。


「これで、調律は終了になりますが、もし、よろしければ何か弾いて頂けますか?
畑野さんはピアノ科の学生さんなので、ご自分で確かめた方が、
納得していただけるのではないかと」

「はい」


二人であらかじめ予定した通り、裕は綾音にピアノを弾くように提案する。

綾音はそれならと椅子に座り、コンクールの課題曲を弾き始めた。

昴には、綾音が音を確認すると言うよりも、しっかりと弾き語っているように思え、

なぜそこまで真剣になるのかと、表情を何度も確かめた。


いつもなら調律の後で、軽く指のレッスンをするくらいだが、

今日はそれだけに留まらず、本格的な曲を弾いている。


何気なく昴が裕を見ると、裕の目は鍵盤ではなく、

綾音の背中を見ている気がして、目をそらせなくなった。

裕はそんな昴の視線を感じ、深めにかぶった帽子で目を隠し、

視線の先が見えないようにした。





「ありがとうございました」

「いえ、それではこちらに完了のサインをお願いします」


裕はそう言うと、昴に調律が終了したという書類を手渡した。

昴は渡された書類に印を押し、もう一度戻す。


「それでは」


裕はそういうと帽子を取って丁寧に礼をし、そのまま玄関へ向かう。

綾音はそれを追うように玄関へ向かったが、裕は靴を履く前にふり返り、

これ以上、追ってきてはダメだと、目で綾音に合図する。


「また、ぜひ、我が社をお使い下さい」


玄関の先まで着いていこうとした綾音に、裕はそういうとそのまま扉を開けた。

綾音は裕の姿が見えなくなるまでその場に立ち、やがてゆっくりとリビングへ戻る。


「綾音」

「何?」

「どうしてこの会社に頼んだ」


昴は、以前調律をしてもらった会社ではなく、別の会社へ頼んだ理由を尋ねた。

綾音は楽譜を片付け、ピアノを軽く拭きながら、大学の調律をしている会社で、

仕事がとてもスピーディーだったと説明する。


「『立原』の信頼を得ている会社ってことでしょ。だからお願いしたの。
電話帳とかで調べた会社だと、きちんと仕事をするかどうか、わからないし……」


昴はその理由を聞くと、納得出来たのかリビングを出て部屋へ入る。

綾音は扉が閉まる音を聞き、安心したのか大きく息を吐いた。

ポケットに入れてあった携帯が揺れ出し、昴の部屋を気にしながら、メールを見る。



『素晴らしい演奏だった。本番も頑張って』



綾音は、メールの文面を両手で包み込みながら、

窓の向こう側にまっすぐ伸びていく、裕が戻った道を見続けた。





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コメント

非公開コメント

謎だ

裕君って、何?
感が鋭いの?それとも、何か目的あって綾音に近づいた?
なんか、納得のいかないと言うか
ふ~むーー;
素直に好感が持てると思ったほうがいいのかな~・・・
ああ~、謎だ

だんだんと

yokanさん、こんばんは

>感が鋭いの?それとも、何か目的あって綾音に近づいた?
 なんか、納得のいかないと言うか

『何かあるでしょ』という中味で進んでいるから、
裕に対しても『?』が膨らむyokanさんですね。
さて、本当のところはどうなのか……は、
だんだんとわかりますよ。

じっくりとお付き合いくださいね。