12 Exclusion 【排除】

12 Exclusion 【排除】



悠菜はしばらく仕事が忙しく、休みとなるとつい眠ることを優先していた生活を反省し、

その日は朝から部屋の掃除に力を入れた。

新鮮な空気を思い切り吸い込み、太陽が少し傾き始めた頃、干した布団を入れる。

少しまとめて買い物を済ませると、部屋への道を歩いた。

公園の花壇にある小さな白い花に気付き、その健気さに歩みが止まる。

買い物の袋を下に置き、携帯を取りだし写真を撮ると、

軽く花びらに触れ、また前を向いて歩き出した。


しばらく、夜になると曲がり角のそばに黒い高級車が止まっていて、

どこか異様な雰囲気を出していたが、ここのところそれはなくなっている。

悠菜は、その高級車が、少し先の幹線道路を走る、

スピード違反の車を取り締まるための覆面パトカーだったのかと思いながら、

いつものように集合ポストをのぞき、ピザ屋と寿司屋のちらしを手に取ると、

部屋へ向かって階段を上がった。





それぞれの休みは終わり、またいつもの日々が戻ってくる。

昴と約束を取り付けた晴恵はその日、いつにも増して積極的だった。

昴の動きを支配しようと、腰へ手を当て、結んだ唇から聞こえる吐息は、

悦びよりも空しさにあふれている。


「はぁ……」


大きく息を吐き、時を終えたあとに残る余韻は、どこか冷たかった。

肌を重ねるごとに増す寂しさの意味がわからないまま、

昴は晴恵の息づかいを感じ続ける。


「見つけたみたい」


その日、晴恵が吐息以外に吐き出した初めての言葉だった。

昴は、何を見つけたのかと問い返すことなく黙ったままになる。

プライベートなことを、あまり深く知ることは、常に避けてきたからだ。


「主人に娘がいたの」


晴恵の話は、自分のパートナーである渡瀬勇に、

実は子供がいたことがわかったという話だった。

しかし、その娘は幼子ではなく、自分と出会う前に知り合った女性との間に出来た、

すでに成人した女性だと聞かされたのは、初めての結婚記念日を迎える、数日前だった。

晴恵は、時折ため息を混ぜながらそう告白し、

昴はただ相槌を打つこともなく聞き続ける。


「子供もいない人だから、二人で歩いていけると思って結婚したのに」


晴恵は天井を見上げたまま、横にいる昴に、空しさを伝えた。

昴は、体を起こすタイミングが取れないまま、一度、横に置いた携帯に目を動かす。


「娘と君は違うだなんて言っても、
彼が何を考えているのかわかるだけに、空しさばかりが膨らんだわ。
最後まで君と過ごすだなんて言って、結婚を望んだくせに、
未来への可能性が出て来た途端、急に態度が変わった。
自分の人生はまだこれからだと、私から離婚を切り出したけれど、
彼は冷静になれと言うだけで応じない」


晴恵は、パートナーに隠し事をされていたことの空しさに、

『FLOW』へ救いを求め、昴との時を待つようになった。

何も解決しないことはわかっているけれど、詰め込まれた日常の中に、

一時でも心を解き放ちたくなるのだと、そう言い切る。


「ねぇ……」

「はい」

「あなたは『お金』のために、私を抱くのでしょ」


昴はその言葉を否定することなく、黙って受け入れた。

昴と晴恵の関係は、間違いなく『契約』の中でつながっている。


「それでもいいわ……私が現実を忘れられるのなら。
今は他に考えられることもないし」


どこまでも明るく自分を見る利佳子とは違う、晴恵のどこか危うい態度に、

昴は何も言葉を返すことなく、そのまま体を起こした。





『小麦園』では、小さな畑の収穫が始まり、

綾音はレッスンの合間をぬって、その活動に参加した。

子供たちからは明るい笑い声が聞こえてくる。


「あ、綾音さん、こっちにも袋ください」

「はい!」


康江に声をかけられた悠菜も参加し、収穫は賑やかに行われた。

子供たちはカゴを何人かで一生懸命に運び、

綾音と悠菜はキュウリやナスを冷やそうと、水道をひねる。


「うわぁ、美味しそう」

「ここでかじりたいですね」

「本当、本当」


どこかお互いに気をつかいながら話した前回とは違い、

同じことに汗を流す今日は、表情が常に明るかった。

1つずつ丁寧に洗い、カゴの中に入れる。

大きなカゴの中身を、ほぼ洗い終えた頃、悠菜は横にいる綾音の顔を見た。


「あのね、綾音さん。ちょっと聞いてもいい?」

「はい、なんですか」

「ワインなんだけど、どうなったかな……なんて」


悠菜は、自分がワイン好きなので、世話になったお礼をワインにしてしまったが、

よく考えると昴の好みではなかったのではと、心配そうに尋ねた。

綾音は、昴がワインを持って帰ってきた日のことを思い出す。

軽く確認したあと、サイドボードに入れてしまったものを、

綾音自身が取り出し、話を続けた。


「あ……いえ、兄はワインも飲みますよ。特に絶対これってこだわりはなくて、
その日の気分だと……」

「……飲んでくれた?」


綾音は、サイドボードの一番前に置いてあると正直に言った後、

近頃兄が忙しくて、帰りが遅い日が多いと付け足した。


「……そう」

「はい、日付が変わる頃に戻ってくる日もあるんです」


悠菜には、昴がそんなに残業をしているイメージがなかったのだが、

取引先に行ったり、資料を揃えたりしているのだろうと頷き返す。


「何か……言っていた? ワインのこと、いえ、私のこと」


悠菜は心配そうにそう聞いたのだが、

すぐに、そんなことを自分が聞くのはおかしいと勝手に訂正した。

綾音の脳裏に、昴の一言が思い出される。



『騒々しい人』



兄を思い、その様子を気にする悠菜に、綾音はとても正直に話す気にはなれなかった。

それでも、無言でいるわけにはいかないと、コメントを多少脚色する。


「明るくて、元気のある人だって、兄が言っていましたよ」

「元気?」

「……はい」


ナスを洗っていた悠菜は、意味を考えようと一瞬動きを止めたが、

すぐにまた両手を動かし始める。


「元気かぁ……」


子供に対して言うのならわかるが、愛を語り合う女性にいう言葉ではないと、

悠菜は思わず肩を落とす。


「あ、あの……兄は悠菜さんのことを悪いイメージで捉えてはいないと思います」


悠菜は、綾音が慌ててフォローすることがおかしくて、

大きく曲がったキュウリを手に取り、一口かじって見せ、それを差し出す。


「美味しい! スーパーで売っているのとはちょっと違う」


綾音は、そう言って笑った悠菜からキュウリを受け取り、

続きをかじってみせ、二人は向かい合って笑うと、また野菜を洗い出した。





カレンダーは7月も半ばに入り、

綾音はコンクール代表に選ばれるための選考会に参加した。

いつものように両手をしっかりと組み、大きく深呼吸する。

やってきたことは間違いないと心の中でつぶやきながら、ファイルを開く。

そこには、ピアノの調律師として初めて出会った裕の名刺が入っていた。




同じ頃、『salon』の営業部では、思いがけない事件が起こる。




「おい、なんなんだよ笠間、この報告書」

「すみません、どこか不備がありますか」

「不備? 不備ねぇ……。そんな部分的なものじゃなくてさ。
あのなぁ、汚ねぇんだよ、字が。もう少し読める字を書けっていうんだ。
全く、パソコンだの携帯だのって、字を書かなくなったやつらは、何をやらせても……」


豊川は、プラスチックの定規を持ち、軽く肩を叩きながら、

また、どうでもいいような嫌味を言い始めた。

ターゲットになった笠間は、豊川に背を向けた状態で、両手を握りしめ、

聞こえないように『バカ』と繰り返す。


「豊川部長」

「なんだ」


そこへ姿を見せたのは、受付を担当する女子社員だった。

営業部へ姿を見せることなど、普段はありえないことで、

入り口近くに座る悠菜は、何かあったのだろうかと見てしまう。


「お話があります」

「話?」


今まで、自信満々だった豊川の目が、急にオロオロと泳ぎ始めた。


「君、ここは営業部だよ、話があるのなら内線でもいいんじゃないかな」

「内線では何度もお話を振りましたが、解決していただける目処が立ちませんので、
ここへ参りました」


はじめはあまり気にしていなかった他の社員たちも、

そして文句を言うために後ろを向いた笠間も、その不自然な状況に振り返る。


「あの……」

「このお腹に宿った命に対して、責任を取っていただきたいのですが」


女子社員からの突然の『妊娠報告』に、営業部が一瞬静まりかえる。

豊川は何を言っているのかととぼけ、そのまま部屋を出ようとした。


「それならば証拠の写真を持って、私、社長室へ向かいます。
検査が必要ならば、堂々と応じますので」


営業部内には、騒ぎに動じることのない昴が、叩き続けるキーボードの音が響き、

豊川は女子社員の手を引き、慌てて営業部を飛び出した。





「あぁ……これで、あの嫌味な上司から解放されますかね」

「甘いな、笠間」

「甘いですか」

「あぁ……今頃、あの女子社員は札束を数えてニコニコしているはずだ」


豊川のいなくなった営業部では、その話題に花が咲いた。

字が汚いと言われた書類を書き直しながら、笠間は首をかしげる。


「金ですか」

「あんなふうに営業部員の前で宣言して、このまま勤める気も彼女にはないだろうし、
かといって、あれだけ誠意のない男と、一生ともにしていくのも、バカバカしいだろう」

「そうですかね……あいつ気に入らないですけれど、一生安泰ですよ。
女性にとっては、一番美味しいじゃないですか、家柄バッチリの金持ちって」


笠間は、豊川と結婚すれば、いずれこの会社の社長夫人になれるかもしれないし、

OL時代に比べたら、相当な贅沢が出来ると語り続ける。


「贅沢をすることだけが、幸せだとは限らない。人の欲には底がないんだ」


昴はそういうと、一度携帯を開く。

綾音からの結果報告は、まだ届いていなかった。





『おめでとう……』

「大丈夫ですか? 仕事中ですよね、だからメールを入れたのに」

『今、車で移動中、とにかくおめでとうだけは言っておきたくて』


綾音は、無事、コンクール代表に選ばれた。

兄よりも先に、裕に連絡を入れると、そのメールを見た裕も車を止め、

すぐに電話をかけた。


『こうなったら、お祝いでもしないとね』

「お祝いだなんてそんな……」

『食事にでも誘ったら、迷惑かな』


綾音はそんなことはありませんとすぐに言い返し、

鼓動が速くなるのを押さえようと、右手を胸に当てた。



『代表に選ばれました 頑張るからね』



綾音からの報告メールが届いたのは、職場に昼休みを知らせる音がする頃だった。

昴は席に座ったまま、すぐに返信をする。

悠菜が、嬉しそうな昴に気付き、つい微笑んだとき、

携帯に綾音からのメールが飛び込んだ。



『悠菜さん 私代表に選ばれました』



昴の表情はきっと、この報告を受けたからだろうと、悠菜も自然に顔がほころび、

それを隠そうと下を向く。



『相談があるの 今日の夜にでも電話します』



「相談?」


昴の妹である綾音が、自分を姉のように思い、

相談事を持ちかけてくるということが嬉しくて、家に戻る時間を計算し、

すぐに返信を入れた。





綾音は家に戻り、まだ昴が帰っていないことを確認すると、すぐに悠菜へ電話を入れた。

綾音は、裕との出会いからを語り、今回のお祝いをしようと食事に誘われた話をする。


「デートってことよね」

「デートなのかな、私が失敗ばかりしていたのを聴いてくれて、
心配してくれて、それが成功したから……」

「心配してくれて、誘われているんだから、立派なデートじゃない」


悠菜はそういうと、綾音に緊張することなく出かけたらいいと言い、

綾音はどんな服装で出かけたらいいのかと問い返す。


「綾音さんらしく行けばいいのよ。彼はゆっくり綾音さんと話しがしたいんだもの、
学校で出会ったのだから、それに近い服装で十分じゃない」


悠菜のアドバイスは、綾音にとって心強いものだった。

母を亡くし、家には昴しかいない。男性との食事などと言ったら、

コンクールの練習でもしていろと、逆に怒られる可能性が高い。


「ありがとう、悠菜さん」

「いえいえ、楽しんできてね」

「……はい」


昴を通して知り合った二人だったが、いつの間にか昴を飛び越え、

姉と妹のような信頼関係が出来始めていた。





受け付け社員の捨て身の告白は、思っていたよりも大きな騒動を生み出した。

豊川は、自分がその社員と交際をしたことを認め、

昴の予想通り『お金』での解決を迫り、彼女もそれを受け入れた。

以前なら、それで何事もないように仕事に復帰していた男も、

繰り返す失態に、ついに社長の怒りに触れる。

営業部の部長を解任され、ほとぼりが冷めるまで、

『総務部』の備品管理担当という仕事へ異動させられた。

そして、豊川に代わる部長が、今日から出社することになり、

どんな人物なのかと、営業部はにわかに活気付いた。


「今度は出来る男ですかね」

「さぁな……」


昴にとっては、ありがたい話ではなかった。

豊川は仕事が出来ないし、嫌味ばかり言っていたが、

社員を管理する能力もなかったおかげで、

利佳子や晴恵の呼び出しに、昼間であろうが、比較的自由に応じることが出来た。

全ての契約を、仕事が終わってからこなそうとすると、

綾音と夜、食事をする時間も取れなくなる。


そして、豊川の代わりに営業部部長となった『橋場育夫』が席につく。


「みなさん、急なことですが、今日から私がこの営業部を束ねることになりました。
新入社員の頃は、この営業部で私もみなさんのように働いていましたが、
ここ数年は『さいたま支店』の方へ行っておりましたので、
多少、戸惑うこともあると思いますが、どうか助けてください」


橋場は、昴よりも年齢の高い50代前半の男だった。

身なりもしっかりしているし、結婚もすでにしていて子供もいる。

悠菜は、その落ち着き払った態度に、豊川よりも数倍頼りがいを感じ、

ほっと胸をなでおろす。


「畑野君、どこにいるのかな」

「……はい」


就任早々、名前を呼ばれたのは昴だった。

悠菜は、また豊川のように、仕事が出来る昴を目の敵にするつもりなのかと、

橋場を見る。


「君が畑野君」

「はい、そうですが」


橋場は部長のデスクから離れ、昴にそばへ来るようにと指示を出す。

昴は何を言われるのかわからずに、橋場の横へ立った。


「今、話をしたように、私には東京での仕事経験があるとはいえ、ブランクがある。
なので、畑野君には私のそばについてもらい、
色々とフォローをしてもらいたいと思うんだ。
正式に部長代理というポストを用意できているわけではないが、
私はそのつもりなので、みなさんもよろしく頼みます」


橋場はそういうと、昴に右手を差し出した。

昴はその右手を握ると、丁寧に頭を下げる。

悠菜の隣にいる女子社員の前川は、畑野さんがこれで出世をすると言い出した。

しかし、悠菜には昴の表情が明るく見えず、

むしろ困惑しているようにさえ思えてならなかった。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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コメント

非公開コメント

一つ点が線になりそうですね

綾音ちゃんの報告、兄は完全に後回し
これを知ったら、昴は激怒するだろうね^^;

新しい上司か~、昴の生活が一転するのかな

これからいっぱい何かが起こるのよね?

全てのことが線になったときが怖いような^^;

コツコツと

yokanさん、こんばんは

>これからいっぱい何かが起こるのよね?
 全てのことが線になったときが怖いような^^;

はい、今までよりも1話は相当長めなんですけどね、なかなか物語に進歩がないように見えるかも。
しかし、着実に色々と進んでいます。

あれこれ巡らせながら、お付き合いください。