15 Violation 【違反】

15 Violation 【違反】



昴は地下鉄の階段を昇り終えると、携帯を取り出した。

メールの印が数件あり、確認をする。

そのうち1件は、取引先からだったが、残りの3件は、晴恵からのものだった。

文章の内容は少しずつ異なっているが、中身は会いたいという催促で、

昴は、そのメールに返信することなく、携帯を胸ポケットに押し込んだ。





「おはようございます」

「あぁ、おはよう」


営業部へ入る手前で、女子社員と挨拶を交わす。

視線は自然に、入り口近くにデスクを持つ悠菜の場所へ向かった。

いつもなら昴よりも早く出社し、明るい挨拶をしてくるのだが、

今日はまだ来ていないことがわかる。

椅子とデスクの間を歩き席へつくと、笠間がすぐにメモを差し出した。


「畑野さん、すぐに連絡が欲しいそうです」


メモの相手を見ると、悠菜に渡した取引先『HONEY』からで、

昴は上着を脱ぎながら、笠間に担当が変わったことを告げる。


「ですよね、でも今日、住友さん休みだそうです。
ホワイトボードにそう記してあるので」


笠間の言葉に確認すると、確かに悠菜の名前は裏返ったままになっている。


「住友は休みだと言ったら、畑野さんが来たら電話が欲しいと言われたので」


昴がメモを確認すると、注文商品のサイズが違っていたという内容のため、

笠間からそれを受け取り、受話器を上げた。





「おはようございます」

「おはよう」


康江のところへ来た悠菜は、その夜『小麦園』へ泊まり、

朝は子供たちの食事の支度を手伝った。

何度か顔を見せ、夏野菜の収穫も一緒に行った悠菜に対し、

子供たちも慣れてきたのか、自然と笑顔を見せる。

悠菜は食堂に貼り付けてある一覧表を見た。


それぞれの学年、それぞれが必要なもの、

名前を見ていくと大事なものが表になり交差することで、

複数の子供達の様子がチェック出来るようになっている。


「これ、わかりやすいですね」

「あぁ……そう? 人数が増えてくると覚えきれないから、こうして書いてあるの」

「同じものをいくつ買えばいいのかも、これならすぐに数えられるし」

「そうね」


しばらくすると、あちらこちらから『ごちそうさま』の声がした。

どんなに小さな子も、自分で食べた食器を流しへ片付け、感謝の挨拶をする。

数十分前まで賑やかだった食堂は、あっという間に静けさを取り戻した。


「先生」

「何?」

「私、渡瀬さんあてに、手紙を書くことにしました」


悠菜は、父親だとわかった渡瀬勇に、

今の気持ちを正直に書いた手紙を送ると、康江に説明した。

母が一生懸命自分を育ててくれたこと、

その母が、父親のことを何も言わずに亡くなったこと、

今回、探したのは、母の過去をたどり、自分の存在を確認したかっただけで、

これから親子として名乗る予定も、会う予定もないということ、

それでも、遠くからではあるが、元気でいてほしいと思っていること、

布巾で拭いた食器を、棚に片付けながら、悠菜は途切れることなく、

また、明るい表情でそう告げる。


「それが悠菜さんの思いなら、それでいいじゃないの。
あなたは、これからもあなたとして、一生懸命に生きていけば、
お父さんにもお母さんにも、応えることになるのだから」

「はい……」


康江は、泣いていた悠菜のスッキリとした笑顔に、

胸の奥につかえていたものがとれたようで、ほっと一息をついた。





仕事を終えた昴は、会社を出ると駅への道を急いだ。

すると黒塗りの高級車が1台、その動きにあわせるように動き出す。

何気なく後部座席へ目をやると、そこに座っていたのは晴恵で、

昴は思わず歩みを止める。

晴恵の視線は、まっすぐに昴を捕らえ、何かを訴えかけるように見つめた。

昴はそれを無視したまま、帰宅に向かうサラリーマンの波に紛れ、

背中に当たる怪しい視線を振り払うように、階段を駆け下りた。



『FLOW』で、男と契約を交わすのは、

一流企業の役員クラスをパートナーに持つ女ばかりだ。

『遊び相手』がどんな男なのか、調べようと思えばすぐに調べられる。

しかし、あくまでも現実の世界では成り立たない関係だということを理解し、

肌を合わせることが、暗黙の了解になっていた。

『契約』以外の時間を縛ること、それは認められない。



昴の会社前まで追って来た晴恵の行動は、明らかに『契約違反』となる。

今朝、寄こしたメールに対して、返事がすぐにないことが気に入らなかったのか、

昴へ向けた目は、もの哀しささえ浮かんでいた。



『水曜日 いつもの場所で』



昴はその文章をメールに打ち込んだ後、車で見た晴恵の顔を思い出す。

車内の隅に立ちながら、さらに言葉を足した。



『楽しい時間が無くならない様に 心の切り替えをお願いします』



プライベートな場所には立ち入らないで欲しい。

昴は、その思いが伝わるように念じながら、親指で送信ボタンを押した。





悠菜は、下書きをした文章を見ながら、一文字ずつ丁寧に勇あての手紙を書いた。

それを封筒に入れ、さらに尋ねてきてくれた秘書の江口に届くよう、

名刺に書かれた住所を、もう少し大きめの封筒に書き込んでいく。

先日は何も知らずに失礼なことをしましたという謝罪の文章と、

中身を勇に渡して欲しいという、内容のメモも一緒に入れる。

悠菜は、母が唯一の手がかりとして残した手鏡を手に取り、

引き出しの一番奥に、調査した手紙と一緒に入れると、しっかりと閉じた。





次の日、悠菜は、普段どおりのラッシュ電車に揺られ、『salon』への道を歩く。

途中にある郵便ポストに、勇宛の手紙を入れた。

母の昔を知っている人に、話を聞いてみたい気持ちが全くないわけではなかった。

それが自分の父親なのだと思えば、

どこからかわからないが、確かに湧き上がる気持ちもある。

しかし、手紙が下に落ち、コトンと音がした瞬間、

その気持ちを吹っ切ろうと、悠菜は視線を前に向ける。


「住友さん」


悠菜に声をかけたのは昴だった。

ポストをじっと見ていたことに気付かれたのではと、少し焦りながら頭を下げる。


「昨日は体調でも崩されたのですか?」

「あ……はい」


突然、父親のことがわかったなど、何も知らない昴に語ることではないので、

悠菜は風邪を引いたのだと、咄嗟にウソをつく。

それでも、自分が休んだことを気にしてくれたことが嬉しくて、

鼓動は一気に速くなった。


「『HONEY』の佐藤オーナーへ連絡を入れてください。
昨日の搬入で、サイズ違いがあったそうです。
とりあえずの処置は私の方でしましたが……」

「……エ? あ!」


悠菜は、昴から譲り受けたブティックの新商品搬入が昨日だったことを思い出す。

自分が休んで迷惑をかけたのだとわかり、浮かれかけた気分は一気に急降下した。


「すみません、畑野さんにご迷惑をおかけしたのですね」

「ご迷惑と言われるほどのことではないですが、でも、搬入日に担当者が休みなのは、
相手からすると誠意がないと思われますよ」


悠菜は、突然の出来事に頭が真っ白になり、

仕事のことを忘れていた自分が情けなく、悔しくなった。

『salon』へ向かおうとした足を止め、方向を逆にする。


「これから謝ってきます。電話では失礼なので……」


悠菜はそういうと、バッグを肩にかけなおし、小走りに駅へ向かう。

昴は、すぐに気持ちを切り替え、前へ進む悠菜の背中を、

しばらくその場で見送った。





その日の晴恵は、部屋へ入るなり昴にしがみつき、唇を重ねてきた。

相手とあわせることよりも、ただ、自らを解放すことに必死になり、

それでも昴は晴恵を諭すように優しく抱きしめる。

いつもの場所にある、天井のライトは、

ただベッドで欲望をぶつけ合う二人を照らし続けた。


「この間は、ごめんなさい。すぐに返事がもらえなかったから、気になって」

「あのようなことは、二度としないでください。
私もすぐにスケジュールを言えないときもあります」

「会いたかったの……」

「ですから……」


晴恵は昴の胸に顔をうずめ、そっと口づけた。

昴は携帯に記される時間を確認する。


「そんなふうに決まりごとだと言わないで。寂しさが増してくるの……」

「すみません……でも……」

「でも?」


昴は晴恵の顔を下へおろす様に体をずらし、ゆっくりと起き上がる。

晴恵はそれを阻止しようと、背中にしがみついた。


「申し訳ないですが、あなたのパートナーは私ではありません。
それを忘れてしまっては、こうして会えなくなります」

「わかっている……でも……あなたのことばかり、考えるの……」


綾音にかかる費用と、これからの蓄えだと思い、晴恵の契約を受け入れたが、

これ以上はぐらかすようなことを言っていても、深みにはまるような気がしてしまう。


「私は契約者としてお会いしています。個人的な感情を含まれるのであれば、
これ以上の契約はお断りしなければなりません」


契約者と本当に恋愛感情を抱くことは、『FLOW』の禁止事項だった。

昴は、しがみつく晴恵を振り払うように立ち上がる。


「お金なら……今の数倍払うわ。それならあなたの願いも叶うのでしょう」


昴はその言葉を背中に受けながら、シャワールームの扉を閉めた。

金を積めば、どうにでもなると思われていることに、両手を握り締め、

シャワーを勢いよく出すと、目の前の壁を思い切り拳で叩いた。





綾音は、駅の壁にかかる時計を見ながら、待ち合わせ場所へと急いだ。

今日は『合同合宿』の最終日で、

さすがに疲れた体を早く休めるため、家へそのまま戻るつもりだったが、

今朝、少しの時間でいいから会えないかと、裕からメールが入った。

合宿最終日であることを知りながら、それでも会いたいという裕に、

何か起きたのかと、綾音は人をかきわけながら前へ進む。


「崎本さん」


先に待っていた裕は、綾音の顔を見ると一瞬嬉しそうな顔をしたが、

すぐに表情を曇らせた。綾音はさらに不安が増していく。


「どうしたの? 何かあったの?」

「ごめん、合宿が終わった日なのに、疲れているとは思ったんだけど」

「ううん……」


裕は、駅から近い喫茶店を選ぶと、綾音と向かい合うように座る。

ウエイトレスにコーヒーを2つ注文すると、話があるのだと切り出した。


「話?」

「うん……電話で言おうかとも考えたけれど、
顔を見ないで言うのは、綾音さんに対して、あまりにも誠意がないような気がして」

「何?」

「……福岡へ転勤になった」


裕の話は、転勤の話だった。

関西で同じような仕事をしている会社を吸収し、一つの会社となることが決まり、

東京から数名の社員が、神戸と福岡へ指導要員として向かうことになった。

本来なら、別の社員が先に決まっていたのだが、

同居していた親が急に介護を必要とする状況になり、会社もそれを了承したという。


「崎本さんが行かなければならないの?」

「断ることも出来る……でも、ぼく自身、
これもステップアップだと思うところもあって」


綾音は、両手をしっかりと重ね、下を向いた。

少しずつ通い始めた心の行き先がなくなってしまったようで、

気持ちだけが重くなる。


「……ごめん」


裕が申し訳なさそうに謝るだけで、綾音の気持ちはさらに落ち込んだ。

始まるかもしれなかった恋が、

花を咲かせる前に強い風に吹かれ、茎を折ってしまった様で、

下を向いた首は、なかなか上を向くことが出来ない。


「わがままなヤツだと思うだろうけれど、
ここまで来たらもう一つ、わがままを言ってもいいかな」


綾音は、『さようなら』という言葉が耳に届かないように、

下を向いたまま念じ続ける。


「休みが取れたら、必ず東京まで会いに来る。
だから、『お付き合いして欲しい』という言葉は、取り消したくないんだ」


裕は、何かを取り出しテーブルに置いた。

ピンク色のかわいらしいフェルトの袋に、白いリボンがついている。


「開けてみて」


綾音はリボンを外し、両手でゆっくりと開くと中を見た。

入っていたのはペンダントで、チェーンを持ち上げると、音符のトップがついていた。

小さな宝石は、お店のライトにキラリと反射する。


「いつもそばにいることが出来ないから、その代わりに受け取って欲しい」


綾音は左の手のひらに、ペンダントを乗せた。

目の前にある優しい輝きが、不安な気持ちを打ち消していく。


「他の男を、好きにならないで……」


裕は、思いの全てをその言葉に乗せた。

たった数文字の告白は、綾音の心にしっかりと届き、

綾音は何度も頷きながら、もらったペンダントを両手で包み込む。

店内にはオルゴールの曲が流れ続け、『恋の始まり』を祝福した。





「そうか、それはライバルばかりだと疲れるよね」

「今度の合宿で、自分の気持ちが固まった気がするの」

「気持ち?」

「私は、ピアニストには向いていないなって」


前回のデート同様、裕と綾音は、乗換駅まで一緒に向かった。

綾音は、今回の合宿に参加したメンバーが、みんな勝気で、

『音楽家』への気持ちの入れ方が自分とあまりに違うことに、圧倒されたことを語る。


「まぁ、それぞれピアノに対する思いはあるだろうね。
音楽大学まで来て、極めようとするわけだから。
でもさ、綾音さんの将来なんだ、やりたいことをやればいいんじゃないのかな」

「やりたいこと」

「うん、僕が調律に行く先でも、個人でピアノを教えている先生もいるし、
本当に趣味だけで引き続けている人もいる。ピアニストだけが道ではないよ」

「うん……」

「君がピアノが好きなことを、いかせる職業につけたら、
ピアノが好きだったお母さんも、それにお兄さんも納得してくれるんじゃないかな、
きっと」

「……そうかしら」

「もちろん、精一杯やってのことだけどね」


綾音は、自分にピアノを教えてくれた母はともかく、

今までお金をかけてくれた兄が、それで納得するだろうかと不安になる。


「お兄さんは、確かにピアニストになれとは言うだろうね、
でも、綾音さんが望むことが別のものなら、折れてくれるよ。
それが血を分けた兄妹だろ」


綾音は、裕の言葉を聞きながら、その通りだと頷いた。

初めて会ったときから、綾音の心を見抜くような言葉をかけてくれる裕に、

また励ましてもらえたことが、嬉しくなる。


「そうだ……あれ、してみて」

「……うん」


綾音はバッグから袋を取り出すと、右手でペンダントを出した。

裕はそれを受け取り、金具を外す。

綾音は少し首を前に出すようにして、邪魔になる髪の毛を持ち上げた。

裕の顔が近付き、両手が首のほうへ動く。

互いの息遣いが聞こえそうで、綾音の鼓動は一気に速まった。

数秒で出来ると思ったのに、裕はうまく出来ないのか、同じ場所から動かない。


「どうしたの?」


横を向いた綾音の視線と、裕の視線が自然と重なった。

ペンダントのために首へまわった裕の手は、そのまま綾音の背中に触れ、

髪の毛に触れていた綾音の手は、裕の方へ伸びていく。

互いに抱きしめあった腕が、さらなる思いを探したとき、

別のぬくもりは、唇を通して伝えられる。



裕は、通過する電車に背を向け、

恥ずかしそうな綾音の姿を、自動販売機の影にしっかり隠しながら、

あふれる思いを唇に乗せ続けた。





『Flow』
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コメント

非公開コメント

?だらけ(笑)

晴恵の行動は怖いねーー;
昴はどうするんだろう・・契約を切るかな?

悠菜は父への思いを断ち切ることが出来るのか?
やっぱり会うようになるんだろうね・・・

綾音は裕を追って兄のもとを飛び出しちゃうのか?

この三つの?がどう動いていくのか?

最後まで?でした(笑)

一つずつ解決

yokanさん、こんばんは

>この三つの?がどう動いていくのか?
 最後まで?でした(笑)

はい、『?』がたくさんあるのは、わかっております。
ひとつずつ、解決していきましょう。
点が線になり、面となって広がるのかどうか、
これからも楽しくお付き合いくださいませ。