16 Feeling 【感情】

16 Feeling 【感情】



裕と別れてから、マンションまでの道のりは、あっという間だった。

集合ポストをのぞき、そのまま鍵を閉める。

綾音は、ルームキーを差し入れ、オートロックを解除すると階段を上がった。

部屋の鍵を確認すると、扉はすぐに開く。

綾音は昴が先に戻っていることがわかり、

首につけたネックレスが隠れるように襟を直す。

どこか浮付いていた気持ちが悟られないよう、一度大きく息を吐いた。


「ただいま」

「あぁ……お帰り。疲れただろ」

「うん」


綾音はリビングで待つ昴のところへ向かわずに、部屋へすぐに入った。

鏡の前に立ち、ネックレスが見えていないか、

頬は赤くなっていないかをあらためて確認する。

さらに1歩前に出ると、唇を見た。

30分くらい前に、触れた裕のことを思い出し、口元に指を当てる。

昴が扉を叩く音がして、慌てて綾音は姿勢を戻した。


「何?」

「どうした、具合でも悪いのか」

「違うの。電車も込んでいて、疲れてしまったから」


自分を心配する兄に対し、ウソをつくのは申し訳なく思ったが、

綾音はそう言い返す。昴は、合宿で疲れたのだろうから、早く寝るようにと言い残し、

足音は遠ざかり、別の扉が開き、そして閉じる音がした。


綾音はベッドサイドに腰かけ、ブラウスのボタンを一つ外す。

首を下に向けると、裕がくれたネックレスのトップが姿を見せ、

小さな輝きに、自然と顔がほころんだ。

何も言わないこの音符が、いつも弱気な自分を助けてくれるような、

そんな気がした。





次の日、昴は、通勤電車の中、度々音を立てる携帯を仕方なく取り出した。

朝から何度も入るメールは、全て晴恵からになる。

この1週間は仕事が立て込んでいて、とても夜に会える時間はない。

そう返事をしたはずなのに、読んでいないのか嫌がらせなのか、

『次の約束』を決めるようにと、更なる催促が入った。

豊川が部長だった頃よりも、橋場が部長になり会議が増え、

空けてあった時間にまた、黒い文字で時間が記される。

晴恵からの強引な催促を気にしながらも、昴は3日ほど返事が出来ずにいた。



その3日目、昴は『FLOW』の朋之から呼び出される。


「契約違反?」

「あぁ……自分のメールに返信を寄こす気持ちがないのは、契約違反だと、
そう連絡が入った」


晴恵は、昴がしっかりとした返事を寄こさないことに対して、

朋之へ連絡を取る手段を取った。朋之はグラスを丁寧に磨きながら苦笑する。


「仕事が立て込んでいるのか、昴」

「上司が変わりました。前の上司は無能で、何も考えていない人でしたけれど、
今の上司は細かくて。正直、時間を作ることも難しい状態です……」


昴は晴恵に連絡を取れないのは、

仕事があるからだと言いかけたが、そこで黙ってしまう。

携帯を取りだし開いてみるが、晴恵の名前を呼び出すことなくそのまま閉じた。


「どうした……」

「会社まで来られました」

「会社へ?」

「正式に言えば、会社の前までです。車に乗って。契約の金額を上げるので、
もっと自分の言うことを聞けと、そう……」


昴が晴恵に連絡を取らないのは、仕事の忙しさよりも、

追うような目つきを見たことからだった。

契約以外の時間にまで、手を伸ばそうとする晴恵から、

逃れたいという思いが、返信する気持ちを鈍らせた。


「お前も向こうの契約違反を指摘するわけだ」


朋之は、グラスを並び終えると、店内を動くアルバイトに指示を出した。

学生のようなバイトは、客が残したグラスをテーブルから片付ける。


「『愛情』で結ばない関係だとしても、そこに信頼感はないと成り立たない」


朋之の言葉に、昴は指先を口元へ動かした。

言い返す言葉が見つからず、数分の沈黙が重なっていく。


「昴の気持ちが向かわないのなら、パートナーチェンジを提案するけれど」


昴は朋之の言葉を受け止めた後、黙って一度首を振った。





綾音は授業を終えると、裕と会う場所へ向かった。

転勤は正式に発表され、日付が2週間後に決まったことを知り、

とにかく時間を作って、会えるだけ会おうと話し合った。

主任教授の特別レッスンを受ける予定が入っていたが、体調が優れないと届けを出した。

待ちあわせ場所に到着すると、楽譜の入ったファイルを、バッグの奥へ押し込む。

綾音は、少しでも早く裕を見つけようと、人の動きに目を動かした。


「引っ越しの準備は、進んでいるの?」

「うん、ひとり暮らしだったから、元々たいした荷物もないんだ。
次の場所には家具もあるから、今あるものは業者が処理してくれることになって」

「そう……」

「だんだんと殺風景になっていくのが、少し寂しい気もするけどね」


裕はイタリアンレストランの前に立ち、この店にしようかと綾音に声をかける。

料理のレプリカが、美味しそうに綾音を誘った。


「……見たいな」

「ん?」

「裕さんの部屋が……見たい」


綾音は小さな声でそうつぶやくと、顔を下に向けた。

裕の表情が気になりながらも、まともに見ることが出来なくなる。


「裕さん、もうそのお部屋を離れるのでしょ。
私、向こうの生活なんて想像が出来ないし……
せめて、こっちにいた時のことは、全て知っておきたくて……」


裕が、今の言葉をどう捕らえるのだろうかと、綾音は唇を噛みしめた。

主任教授のレッスンよりも、兄の心配よりも、今を大事に思い、この場に立っている。

その綾音の思いに応えようと、裕はしっかりと手を握った。

レストランの入り口に向いていた体は、逆に背を向ける。


「行こう……」


綾音は握られた手を握り返し、裕の歩みに合わせ駅へ向かった。





昴は仕事を終え、PCの電源を落とし、

まだ仕事を残し、頭を抱える笠間に先に出るぞと声をかける。


「あ、お疲れ様です」


昴は、他に残る社員と挨拶を交わし、入り口近くにいる悠菜にも声をかけた。


「お疲れ様でした」


昴はそのまま出ようとして、ふと悠菜のPCを見る。

そこには、取引先と取り扱い商品が交差する、オリジナルな一覧表があった。

サイズ違い、色違い、搬入日のズレなど、一目瞭然になっている。


「これ……」

「あ……そうなんです。この間、畑野さんにご迷惑をかけたことを思い出して、
自分なりに工夫をしてみました」


昴が興味を持ったことが嬉しくて、悠菜は両方の指を使いながら、

表の説明をした。昴は、悠菜のアイデアを聞きながら、

ホテルの前で見かけた日のことや、休み明けにミスを知り、

飛び出していったことを思い出す。


「これはわかりやすいね、いいアイデアだと思うよ」

「はい……。子供達の表を参考に……」

「子供達?」


悠菜は、自分が『小麦園』に出入りしていることを話しそうになり、

慌ててテレビで見たのだと誤魔化した。その時、昴の携帯にメールが届く。

昴が、また晴恵からの催促かと思いながら受話器を開けると、

メールは綾音からだった。



『教授のレッスンが終わってから、友達と食事して帰ります』



合同合宿が終わってから、さらに綾音はレッスン量を増やしているのか、

家に帰る時間が遅くなった。昴は、綾音が前向きになっているのだと思いほっとする。


「住友さん」

「はい」

「このアイデア、使わせてもらってもいいかな」


悠菜は昴に認めてもらえたことが嬉しくて、笑顔のまま『はい』と返事をした。





昴が会社を出て電車に揺られている頃、悠菜も仕事を終え帰り支度を始めていた。

笠間は給湯室へ向かい、濃いめのコーヒーを入れ、

頭を抱えながら席へ戻る。

時計は同じ動きで時を進め、長針は短針の上に重なり通りすぎると、

またあらたな時刻を告げた。





綾音は、裕の部屋の壁にかかる時計を見た。

時間は21時を差していた。

綾音の頭の下には裕の腕があり、その息づかいが背中側から耳に届く。

広さは8畳ほどの部屋と、小さなキッチン、

裕はこの場所で生活をしてきたのだと、家具の跡が残る部屋を見続ける。

綾音は、誰の援助も受けずに、一人で暮らすことがどれだけ大変なのかを、

この場所に感じとった。


「カーテン、最後まで外さないでよかった」


眠っていると思っていた裕の声に、綾音は少しだけ体を小さくした。

裕は大丈夫だと背中から手を回し、綾音を包み込む。

素肌を合わせた互いの熱が、またじわりと伝わっていく。

綾音は幸せの余韻を感じながら、裕の腕に頬を寄せた。


「そろそろ帰らないと」

「うん……」


綾音が体の向きを変えると、裕は綾音の頬に手を乗せ、

輪郭を確認するようにゆっくりと触れる。


「君に出会えてよかった。僕はこれだけ満たされた気持ちで出発できる」


綾音はその言葉に頷きながら、あふれそうになる寂しさをグッとこらえた。

裕は、綾音の乱れた髪の毛を、指でそっと直す。


「必ず君を守る、僕を信じて……」


綾音は裕の言葉に無言で頷き、しばらく見られなくなる顔を捕らえ続けた。

裕は綾音の目頭に溜まった涙をそっと拭くと、誓いを証明すると唇を重ねた。





綾音が部屋へ戻ったのは、それから1時間後のことだった。

昴はすでに戻っていて、リビングのテーブルで何やら書いている。

そばにはどこかで買ってきたのか、総菜の残りとビールの缶があった。

黙ったままの綾音に、昴は気付き、『おかえり』と声をかける。


「ただいま……」

「どうした、そんなところに突っ立って」

「うん……」


綾音は、何から何まで兄に世話になっていながら、ウソをついたことに、

申し訳なさが出てしまい、今日という日が何もない日だと、

うまく演技する自信がなかった。

不安な心を隠そうと、テーブルの上にあるものを片付け始め、

ビールの缶は別に捨てるところがあるのだと、余計な情報を付け加えた。


「あぁ……ごめん、やっておくから」


昴が広げていたのは、仕事の書類だった。

悠菜のやり方を自分なりにアレンジし、新たな表を作ろうと考える。

綾音は、ゴミ箱に入れたプラスチックの容器を見た後、流しにある布巾を手に取った。


「ごめんね……お兄ちゃん」

「どうした」


綾音は、近頃自分が忙しく、食事の支度も出来ていないことを昴に謝った。

昴は、食事のことなど気にすることはないと、軽く返事をする。


「お前は、今やらなければならないことを、しっかりとやりなさい」


綾音は昴の言葉を背中に受けながら、蛇口をひねる。

水が流れていく音がし始め、流しに入れたお皿からあふれ出す。


「……お兄ちゃん」

「ん?」

「誰か、そばに居てくれる人、探してよ……」


昴は、綾音の言葉に何も言わず、データを書き込んでいく。


「いないの? 本当に、気になる人」


綾音は昴に背を向けたまま、そう問いかけた。

昴が、ペンを動かす音だけが、背中越しに聞こえてくる。


「……今は……いいんだ」


綾音は少し含みを持ったような昴の言葉に、ゆっくりと頭を動かした。





昴は、営業部に入り、悠菜が来ていることを確認すると、バッグから書類を取り出した。

いつもの挨拶を交わした後に、用紙をデスクの上に置く。


「昨日はヒントをありがとう。あれから少しアレンジしてみたけれど、
住友さんはどう思う?」


悠菜は昴が置いた書類を手に取り、自分のデータを呼び出した。

基本的なものは同じだけれど、昴の方がさらに見やすく、細かさも増している。


「今、抱えているものだけなら、昨日の住友さんが作った表で十分だけれど、
営業は広がっていくものだから、こんなふうにスペースを確保しておくことも、
必要だと思って……」


悠菜はその通りだと頷き、昴に笑顔を見せた。

自分も参考にさせてもらっていいかと、すぐに尋ね返す。

昴はもちろんだと頷き、そのまま席へ向かい、

先に来ていた笠間は、昴の顔をじっと見た。


「どうした、何かあったのか」

「いや……珍しいなと思いまして」

「珍しい? 何が」

「畑野さんから仕掛けるってことがですよ」


笠間は、昴が別の社員に対して、自ら提案していたことが珍しいともう一度言い直した。

昴は、別にたいしたことではないと言い返したが、

すでにファスナーを外したバッグを見る。

悠菜の表を見た後、自らアレンジに取り組み、

今朝も、席に着く前に、悠菜へ書類を手渡した。


「畑野さん、なんだか楽しそうです」


笠間の言葉に、昴は返事をすることなく、仕事の準備を始めた。





悠菜は、自分のアイデアを認め、昴が手直ししてくれたことが嬉しくて、

その日の帰りは、以前プレゼントしたワインを自分用に購入し、

乾杯しようと部屋へ向かった。

何メートルもありそうな距離が、ほんの数ミリ近くなっただけで、

自分がどれだけ気持ちを前向きに出来るのかと、おかしくなる。

もらった書類を歩きながら何度も眺め、悠菜は口元をゆるめたまま歩き続けた。


「あれが、苗子の娘なのか」

「はい……住友悠菜さんです」


悠菜の歩く反対側の道路には黒い車が止まり、中には渡瀬勇が乗っていた。

手紙を受け取ったものの、丁寧に言葉を並べた『娘』に対し、

存在を知った頃よりも、さらに『愛情』が増していく。


「……似ているな、苗子の横顔に」

「社長、どうされますか」


勇は、黙ったまま自分の元を去った苗子のことを思い出しながら、

悠菜の姿を見続ける。


「会えるように、取り計らってくれ。私がいきなり出て行くのは、
彼女も構えるだろう」

「……はい」

「あの子の望むことを、叶えてやりたい」


秘書の江口はわかりましたと頷き、悠菜に気付かれることなく、静かに車を動かした。





『HOTEL GRAND 1011号室』


昴は重たい気持ちを振り払うように、扉をノックした。

しばらくするとゆっくり開き、晴恵が姿を見せる。


「お久しぶり……」

「申し訳ありません」

「仕事が忙しいのだそうね」


昴は扉を閉めると、そのまま部屋の奥へ進む。

小さなテーブルには無造作に紙袋が置かれ、晴恵は髪の毛を持ち上げると、

昴にファスナーを外して欲しいという仕草をした。

昴は荷物を置き、上着を脱ぐと、晴恵に近付く。


「くだらない仕事など、辞めてしまえばいいのに」


晴恵の言葉に、昴の手が止まる。


「その袋の中に、サラリーマンの月給以上のものが入っているから、
あなたはそれを持って帰ってくれたらいいの」


昴の目が、どこかの店からもらってきたような紙袋へ向かう。

晴恵は振り返り昴の首に腕を回し、止まったままの唇にキスをする。


「あなたの時間は、私が買い占める……」


そう言いながら、昴のワイシャツへ伸びた手は、目的地に到着する前に掴まれた。

昴はそれを跳ね返す。


「何を……」

「契約は、打ち切っていただいて結構です」


脱いだ上着とバッグを手に持ち、昴は扉に向かう。

晴恵が触れた首に、鳥肌がたつ思いがした。


「本気で言っているの? 契約違反になるわよ」

「契約違反をしないで欲しいと、先に申し込んだのは私の方です」


昴の手が、ドアノブに伸び、迷いなく外への道を開けていく。


「何よ! 金で女を抱くくせに!」


履き捨てるような晴恵の言葉を、遮断するつもりで昴は扉を閉め、

振り返ることなく前へ進んだ。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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コメント

非公開コメント

別人だよね

晴恵は最初の頃とは別人だわ(@@;)
お金が彼女をそうさせたのか?
溜息しかでんね~ーー;

晴恵とはすんなりと契約を切ることが出来るのかしら・・・

しかし、あの捨て台詞はきついねーー;

綾音の嘘がいつばれるのか?
その時の昴が壊れちゃいそうで怖いわ~

女は変わるのです

yokanさん、こんばんは

>晴恵は最初の頃とは別人だわ(@@;)
 お金が彼女をそうさせたのか?
 溜息しかでんね~ーー;

裏切られたという思いから、飛び込んだ晴恵。
ひと肌脱いでしまったら、変わってしまいました(笑)
綾音のウソがばれるのか、
昴の仕事がばれるのか……で、続きます。