17 Rebound 【反発】

17 Rebound 【反発】



昴が朋之から呼び出されたのは、それから2日後のことだった。

仕事を終えて『FLOW』の扉を開くと、

朋之は簡単な挨拶だけを交わし、昴にいつもの酒を出した。

昴は、それを受け取ると、軽く口をつける。

どうして朋之に呼び出されたのか、聞かなくてもどこかわかる気がした。


「ようは、向こうがお前の気持ちを勘違いしているわけだ。
お金でつながっていることに気付きながら、
その空しさからこんなことをしたんだろうな」


少し遅れて『FLOW』に到着した雅仁は、隣に座る昴を一度見たあと、

これからどうするつもりだと問いかけた。

昴は、少し時間を置き、軽く首を振る。


「もう……いいんだ。これ以上は続けられない」


個人的な感情を必死に傾けてくる晴恵に対し、

これ以上冷静に対応が出来ないと、昴は言い切った。

雅仁は、今までの出来事を思えば、それも当然だと同調する。


「まぁ、この状態で、向こうが契約金を返せということはないだろうけれど、
でも、いいのか。あてにしていた金額なんだろ」


昴はその言葉に軽く唇をかんだが、それでも首を振った。

元々、氷の上に張り付いたような、紙一重の状態を保たなければならないのに、

晴恵との関係は、すでにひびが入りすぎた。

朋之は、昴がそうしたいのならそうした方がいいと、昴と雅仁に助言する。

雅仁は、事務手続きに入ると宣言し、昴もそれを了承した。





元々、雅仁や達也に比べると、昴は契約者が少なかった。

仕事を別に持っていることも理由だったが、

綾音の学費がまかなえればそれでよかったからだ。

自分のやっていることに誇りもなければ、正当性も感じない。

ただ、綾音を『立原音楽大学』から送り出し、ピアニストにするためだけに、

存在している時間だった。



『FLOW』を訪れた次の日、昴は営業途中で入った喫茶店で、

これからの出費を計算する。贅沢をしないでいけば、

なんとか出来るだけの計算が成り立った。

最悪の状態は防げたと、まずはほっとする。

ポケットに入れた携帯が鳴り出し、相手を見ると『立原音楽大学』となっていた。

昴は席を立ち、喫茶店を出ると、太陽から隠れるように屋根の下で携帯を開く。


「はい、畑野ですが……」


昴は、事務員と名乗る女性から、予想外のことを聞かされることになった。





悠菜は買い物を済ませ、いつもの道を歩く。

店のシャッターを降ろす店主が、『お帰りなさい』と声をかけた。

悠菜はお返しに『お疲れ様です』と声をかける。

街灯が一つだけ調子が悪いのかチカチカと光り、

曲がり角では自転車であやうく転びそうになった学生が、急ブレーキをかけた。

悠菜の目にアパートが見えたとき、一緒に黒い高級車が視界に入る。

それは以前、母のことを聞いた男達が乗った車と、同じものだった。

悠菜は車の中にいた人影を感じ、歩みを止める。

ドアが開き、目の前に出てきた男は、あの日と同じ『江口』だった。


「先日は、突然失礼いたしました」

「いえ……」


江口は、悠菜からの手紙が無事に届いたこと、それを勇が受け取ったことを語る。

悠菜はそれを聞きながら、別の人影がないかと車を気にした。


「悠菜さんのお気持ちは、社長も十分ご理解したそうなのですが、
そこをなんとか切り替えていただけないかと、今日はお願いにあがりました」


江口は、勇が悠菜に会いたいと願っていると訴え、

悠菜は、自分の気持ちには変化がないのだと言うことを、もう一度説明した。


「実は、社長がお母様にお渡しする予定だった指輪を、受け取って欲しいと……」


勇は、悠菜の母、苗子のために指輪を買っていた。

身を引かれてしまうことなど予想もせずにいたため、誕生日まで待ったのだった。

そして、その指輪は、持ち主の定まらないまま時を越える。


「社長の中に、残っているお母様への思いを、
どうか悠菜さんが受け取っていただくことは出来ませんか」


悠菜は以前、調査結果の中に入っていた、母の若い頃の写真を思い出す。

何かが少し変わっていれば、受け取ることが出来た指輪。

目の前にある車に乗り込み、強引にこの場所へ来ようと思えば出来る。

しかし、こちら側の気持ちを考え、それをしなかった勇の紳士的な態度に、

悠菜も強く出られなくなる。


「少し、考えさせてください……」


悠菜は、返事を待ち目の前に立つ江口に、そう答えるだけで精一杯だった。





綾音は、台所に立ち、昴の帰りを待った。

裕が旅立つまで、なかなか気持ちが割り切れず、家事をおろそかにしていたが、

向こうで落ち着いたと連絡があり、少しずつ生活も元に戻りだす。

以前、悠菜からもらったワインで乾杯したように、

また、兄妹で向かい合えたらと、同じワインも用意した。

玄関で昴の声がして、綾音は『お帰りなさい』と声をかける。


「お兄ちゃん、ちょっと頑張って料理したの、一緒に食べよう」

「綾音……」

「何?」

「お前、何をしていたんだ」


昴の凍りつきそうな表情に、綾音はどういう返事をしたらいいのか判断できず、

ただ黙ってしまう。何を怒っているのかもわからず、

どういう態度をとればいいのか検討もつかない。


「何をって、どういう……」

「望月教授の特別レッスンを、半分以上休んだって言うのは、
どういうことなんだと聞いている」


綾音は、学校側が昴に連絡を入れたのだとわかり、さらに言葉が出せなくなった。

体調を崩したとか、用事が出来たとか、それなりに繕ったつもりだったが、

今まで、一度も休んだことがなかっただけに、怪しまれたのだと下を向く。


「お前、教授のレッスンだから遅くなるって、いつもそう言っていたな。
出ていなかったのなら、どこにいた。何をしていたんだ!」

「……お兄ちゃん」

「何をしていた」


昴は綾音に近付き、綾音は数歩後ろへ下がった。


「体調を崩したこともあったし……。友達と話しがしたくて、つい……」


必死に繕っているつもりだったが、

自分で言いながらも説得力のない言葉しか浮かんでこない。

綾音は、どうせ怒りをぶつけられるのならと、覚悟を決める。


「……そう、望月教授のレッスンには、参加していない」

「綾音……」

「私、特別なことなんてしたくない。ピアニストになんかなりたくない」


綾音はそう言い切ると、自分は『音楽教師』になりたいと宣言した。

ピアノは好きだけれど、『合同合宿』で、他人の失敗を笑う人たちを見ていて、

こういった世界に入りたくないと思ったこと、

以前からコンクールへ出て行くことが辛かったことなど、

今まで押さえていたものが、あふれ出る。



『ママね……ピアニストになりたかったの』



昴の脳裏に、母の言葉が蘇った。

母は、再婚した相手との間に綾音が生まれ、

ピアノを習わせることを楽しみにしていた。

その意思を継いだ昴は、綾音にピアノを習わせた。

綾音をピアニストとすることで、母の思いを叶えることだけを考え、

何もかも犠牲にしてきた。


「ピアニストになるんだ……」

「嫌、私は……」

「ピアニストになるんだ、綾音!」


親の経済力不足と、生まれながらのハンデから抜け出すには、

自ら実力を持って、エリートの門をこじ開けるべきだと、昴は綾音に告げた。

綾音はそれに首を振る。


「お兄ちゃんはおかしい。そんなこと、誰も望んでいないし、
誰も幸せになんてならない! 身勝手なだけじゃない」


昴は、自分の努力を身勝手だと言われ、目の前に立つ綾音の頬を右手で叩いた。

綾音の頬が赤く染まり、目には涙がにじんでいく。


「どうして……どうして叩かれないとならないの?
私は……私の人生は、お母さんやお兄ちゃんのものじゃない!」


綾音はテーブルの上にあった財布を取ると、そのまま玄関へ向かう。

昴は、出て行く綾音を止めることなく、ただ呆然と立ち続ける。

綾音が出て行った後、閉まる扉の音を聞きながら、

昴は、テーブルに並んだ料理と、悠菜がくれたものと同じワインの瓶を見た。





悠菜は部屋へ入り、買ったものをテーブルに置くと、アルバムを開いた。

成人式の日、母と並んで撮った写真を見る。

若い頃の母に比べたら、しわも白髪も増えていたが、笑顔の形は変わらない。

悠菜の父親である渡瀬勇と結ばれず、

結局、他の男性と結婚することなく自分を育ててくれた母の想いと、

苗字を変えてまで、その勇から隠れようとした母の想い。

ため息をついても、天井を見上げても答えが出せず、

悠菜は携帯を開き、康江の番号を呼び出した。


『もしもし……』

「先生、すみません悠菜です」

『あら、悠菜さん、どうしたの』


悠菜は、康江に江口が来たことを話し、勇が母に買った指輪をいまだに持っていて、

渡したがっていることを話した。

『会う』か『会わないか』の気持ちが、揺れていると素直に語る。


『今日、しっかり寝てみることね』

「寝るとわかるのですか?」

『気持ちは膨らむはずだと思うから、明日起きてみて、どう思うのか、
また心に問いかけてみるといいんじゃない?』


康江の声に、携帯のキャッチ音が重なり、悠菜は相手を確かめた。

相手は綾音であることがわかる。


「先生、綾音さんから電話が入ったみたいです。またかけ直します」


悠菜はそう康江に告げると、慌てて綾音の受話器をあげた。


「もしもし……」

『……悠菜さん?』

「そうよ、どうしたの? 何かあった?」

『今日だけ……泊めてもらえませんか?』


綾音は、昴とケンカをして飛び出したことを告げると、

もう一度、お願いしますと繰り返した。

綾音の追い詰められたような声に、悠菜は時計を確認し最寄り駅を告げる。


「綾音さん、改札は一つしかないから、そのまま出てきてくれたらいいわ。
私が、駅まで迎えに行くから」


悠菜は綾音にそう告げると、素早く買った物を冷蔵庫に詰め、一度脱いだ靴を履く。

玄関を出ようと、手をドアノブに伸ばしたが、一度下へ降ろした。

あらためて受話器をあげ、『小麦園』に連絡をすると、

康江も気になっていたのか、電話の理由を尋ねてくる。


「綾音さん、畑野さんとケンカをしたようなんです。
今からここへ来るって言うので、私、駅まで迎えに行きます」

『昴とケンカ?』

「はい、細かい理由はわからないですけれど、もしかしたら先生の方へ、
畑野さんから電話が入るかも知れないと思って……」

『あ……そうね……』


康江は、昴の対応は任せて欲しいと言い、

綾音の気持ちを聞いてやって欲しいと悠菜に告げる。

悠菜は『わかっています』と明るく答え、あらためて玄関を開けた。





昴は、一人リビングの椅子に座り、顔の前で両手を組んだ。

ピアノが好きで、練習の虫だった綾音から、

ピアニストを拒絶するような言葉を聞くことになるとは、

全く想像もしていなかっただけに、飛び出していく妹を止めることも出来なかった。

内心、綾音が向かうのは『小麦園』だろうという安心感もあり、

これからどう気持ちを戻していこうかと、大きくため息をつく。

1本のワインと2つのグラスを見ながら、左手で顔を覆った。


「もしもし……」


昴が電話をかけたのは、康江のところだった。

細かいことは何も語らずに、

綾音からそちらへ向かうと連絡があったかどうかを尋ねてみる。


『綾音は来ないわよ』


康江の予想外の返事に、昴は言葉が出せなかった。

しかし、綾音が来ないことをわかっている康江の口ぶりに、

居場所を知っているのだと考える。


「先生、ウソをつかないでください。綾音はそこへ行くのでしょう」

『綾音は来ないわ』

「だとしたら、どこへ」

『それは言えない。でも、綾音がどこにいるのかはわかっているから、大丈夫よ』

「どういう意味ですか」

『言葉の通りです。綾音には明日、『小麦園』に来るように伝えてもらうから、
昴も来てちょうだい。話はまたそこでゆっくり聞かせてもらう』


昴は、康江が綾音からの連絡を受けているのに、

知らないふりをしているのだろうと、そう考えた。


「『小麦園』についたら、連絡を寄こすように伝えて下さい」

『だから言っているでしょう。綾音はここには来ないのよ』

「先生……」

『昴にウソはつかないわ。ここへ来るのなら来ると言います。
綾音には、お姉さんのように慕う人と一緒に、明日ここへ来るように伝えておくから、
昴も必ず来てちょうだい。今言えるのはそれだけ、
危ないところにいるわけではないから、心配しないように』


康江は冷静にそう告げると、昴との電話を切った。

昴は、もう一度康江にかけようとしたが、その指を止める。

綾音が『姉と慕う人』とは誰のことなのか、昴には全く予想がつかなかった。

考えてみると、綾音の友達関係も、よくわからない。

それでも、あれだけ康江が大丈夫だと宣言しているのだから、

危ない場所にいることはなさそうだった。

昴は立ち上がり、部屋のカーテンを開けた。

ベランダから見える、少し離れた場所にある高速道路には、今も車の列が出来る。

昴は手すりに両手を置き、しばらくその景色を見続けた。





「うん、これでいいかな」

「すみません、借りてしまって」

「いいの、いいの。私、一人っ子でしょ。
綾音さんがここへ来ようとしてくれたことが、とっても嬉しくて」


綾音を迎えた悠菜は、寝間着用のシャツとトレーニングパンツを取り出した。

悠菜は、買い置きしていた歯ブラシがあること、

冷蔵庫には適当に飲み物が入っていることなど、楽しそうに語り続ける。

綾音は、快く受け入れてくれた悠菜の気持ちが嬉しくなった。


「調律師くんのことがバレちゃったの? 畑野さんに」

「違います。崎本さんのことではなくて……」


綾音は、悠菜に話していないここまでのことを語り始めた。

裕の気持ちと自分の想いが重なったこと、

転勤が急に決まり、時間を確保するのが大変だったこと、

その中で、教授のレッスンよりも裕と会うことを優先したこと、

悠菜は、時折笑みを浮かべながら、綾音の話を聞き続ける。


人を好きになった気持ちは、悠菜にも十分理解できた。

その人のそばにいたくて、何もかも犠牲にしてしまう思いも、痛いほどわかる。


「大学から、私がレッスンに出ていないことで電話があって、兄に追及されました。
だから、つい、私はピアニストにはならないって宣言して……」

「宣言したの」

「はい……」


綾音は、コンクールに向かう学生たちが、他の学生をライバルとしか思わずに、

互いを認め合うことをしないと文句を言い始めた。

音楽を楽しむところがない今の大学内は、

自分にとって有意義なものではないのだと、強調する。


「私は、ピアノが好きですけれど、争うことは好きじゃないし……」


悠菜はインスタントだけれどと断りを入れて、綾音の分も紅茶を作り出した。

お湯を入れると、沈んでいたお茶の葉が、グルグルと動き出し、色を出す。


「綾音さん、私音楽のことは全く詳しくないの。
だからピントの外れた意見だったらごめんなさい」

「いえ……」

「ピアノを学ぶ人の頂点が、ピアニストなのかそれとも音楽の教師なのか、
商売にはしないで、趣味として楽しむ人なのか、それはよくわからないけれど、
でも、どれになったとしても、『逃げていく』のは、よくないことだと思う」

「逃げる?」

「コンクールに出る人たちが互いのミスばかり笑って、嫌になったとか、
学校の雰囲気がどうのこうのとか、それって結局、
綾音さんが逃げていることじゃないのかな」


葉の動きが止まり、悠菜はサーバーからカップへ注ぎいれる。

スティックの砂糖をいくつかと、ミルクのポーションをお盆に乗せた。


「畑野さんは、仕事にとても厳しいの。2ヶ月くらいだったけれど、
そばにいてそう思った。妥協はしないし、細かいし……。
でも、『ここまで来てしまった』って時には、きちんと道を開けてくれた」


悠菜は昴と過ごした2ヶ月の中で、学んだことを思い出した。

細かく指示は出さないけれど、しっかり取り組んだことに対しては、

たとえそれが失敗に終わったとしても、きちんと答えを出してくれた。


「やり遂げてみて、それでも綾音さんにとってピアニストが魅力的でないのなら、
その時にもう一度、畑野さんに話をしてみたらどうかな」


カップの中から、湯気がゆっくりと上がっていく。


「コンクールにも全力で向かって、対等の立場に立たないと、
あの人にはきっと、勝てないと思うから……」


悠菜はそういうと、『頑固だよね』と言葉を足し、言いすぎたかなと舌を出す。

綾音はカップを手に持ち、何度か首を振った。


「悠菜さん、兄のことをよく見ているんですね」

「……ん? 何?」

「本当に、よく見てくれているんですね」


綾音のその言葉に、今度は悠菜の方が下を向き、

照れた姿を隠そうと、カップを手に取った。





『Flow』
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