19 Gratitude 【感謝】

19 Gratitude 【感謝】



「はぁ……もう、嫌」


悠菜はその日の仕事を終え、足早に営業部を出た。

綾音のことは本当に妹のように思えるし、将来のことも気にしてあげたいとは思うが、

今日、昴の前で発言した内容は、明らかに『お節介』だったと反省する。


「あぁ、もう……何を熱く語っているのよ、私」


憧れの先輩である昴に、謝罪をされたのだから、それを受け入れていればよかったのに、

悠菜の発言で、食事の会はどこか『冷たい空気』が流れてしまった。

冷蔵庫に入れてある缶チューハイを開け、ノドに押し込めるだけ押し込んでみる。


「最悪……」


冷たい缶をおでこに当ててみるが、もちろんやってしまったことは戻らない。



『答えはこうだと決めつけてしまうのは、
無限にある可能性を排除してしまうことだと……』



「何、言い切っているんだか」


悠菜は、子会社から本社へ採用になり、

絶対に負けないという、尖った気持ちをほぐしてくれたのが、

昴にかけてもらった言葉だったと思い返す。

悠菜は、チューハーの缶をしばらく見つめた後、それをテーブルに置く。

左手を引き出しに伸ばし、以前押し込んだ手鏡を取り出した。

母の形見に、今日の自分を映してみる。

昴に見せていた顔が、どんなものだったのか、ゆっくりと考えた。

眉間にしわを寄せ、口元を強く結ぶ。

そこまできつい表情ではなかっただろうと、元へ戻す。


「畑野さん、決め付けてしまうのは……」


実際のセリフを鏡の前で語ってみた。眉は動くが、それほどきつい顔ではない。


「でもな……」


口角を上げ、笑ってみる。

デジタルの時計が夜の9時を示し、電子音が『ピピッ』と鳴った。

悠菜は、自分のしていることが急に空しくなり、手鏡を引き出しに押し込んだ。

その指先に触れた封筒を手にとって見る。

『調査会社』が調べた渡瀬勇の資料と、秘書の江口がくれた名刺。

悠菜は封筒を開き、まだ、自分を生む前の若い母の写真を見る。

悠菜はその写真をしっかり両手で持ちながら、ベッドに寄りかかった。





「あの子からか」

「はい、私の名刺を以前お渡ししていましたので、
今朝早く、会社に連絡があったそうです。
一度だけという条件なら、社長にお会いしてもいいと……」

「そうか……」

「ご自宅ではなく、別の場所がいいとおっしゃってましたので、
どこか個室のあるお店を予約した方がよろしいでしょうか」

「あぁ、そうしてくれ。あの子の望む場所で構わない。江口が調整してくれるか」

「はい……」


悠菜は、渡瀬の秘書江口に連絡を取り、『父親』として会うことを了承した。

あくまでもこれきりでという条件をつけ、気持ちを整理するためだと付け加える。

江口はそれを社長である勇に話し、二人の再会日時が決定した。



『THE CAPE TOKYO』



その中にあるフランス料理店『オンブラージュ』が、再会の場所だった。

江口から届いた封筒には、渡瀬からの感謝の手紙が入っていて、

悠菜は、初めて見る『父親』の筆跡に、鼓動を速める。

カレンダーの日付に、忘れないよう赤いペンで印をつけた。





「ただいま」

「お帰り」

「この時間になったのは、きちんと教授のレッスンに出たからです。
疑うのなら、学校に連絡をしてみて」


綾音はそう言うと、すぐに部屋へ入ってしまった。

昴は、挑戦的な態度に軽い怒りを覚え、部屋の前まで行くが、

ノックしようとする手を寸前で止める。

あれこれ言って、また家を飛び出されることよりも、

今はまた『ピアノ』に向かっていることを受け入れたほうがいいだろうと、

体をリビングへ戻した。

部屋の中では、綾音がベッドサイドに腰かけ、大きくため息をついた。

教授のレッスンを勝手に休んだことを、兄に責められるのは当然のことで、

こんな態度を取るべきではないこともわかっているのに、

顔を見るとつい、尖った態度に出てしまう。

綾音は携帯を取り出し、裕のアドレスを呼び出すと、

複雑に変わる心模様を、懸命に打ち込んだ。





それから2日後、昴は『FLOW』の中にいた。

個人的な思いをぶつけ、昴に難題を振りかけようとした晴恵が、

『契約違反』だという昴側の条件を受け入れたと、朋之から連絡を受けた。


「擬似的なものであっても、信頼関係がなければ続かないことを話したよ。
最初は昴側に落ち度があるようなことを言っていたけれど、気持ちが落ち着いたら、
自分が無理を言ったと、認めてくれた」

「ありがとうございました、ご迷惑をかけました」

「……というのは建前で、実は雅仁が新しいパートナーを紹介してさ、
それで納得できたみたいだ」


朋之は、雅仁が達也の知り合いを、

新たな『FLOW』メンバーに採用したことを語った。

晴恵はパートナーチェンジを了承し、

昴との契約を終了させることに納得したのだと言う。


「女はすごいな、欲望がどこまでも果てしない」


朋之はそう言いながら笑うと、昴がいつも頼む酒を差し出した。

昴は軽く頭を下げ、グラスに口をつける。


「ただ、少しだけ疑問もある」

「疑問?」

「しばらく身辺には気をつけろ。だいたいこういったパターンで、
簡単に女が折れてしまうことは少ないんだ。
特に今回は、個人的な気持ちが動いたことが原因なんだし。
契約がなくなったことで、逆に挑戦的な態度に出ることも過去にあったから」

「……はい」

「それでも、あくまでも財産のある伴侶がいてこそ、成り立っている遊びだからさ、
世の中から指摘されるような無謀なことには、ならないはずだ。
そこは相手も冷静なものだろう。離婚でもされたら、遊ぶ金も出なくなる」


大騒ぎをすれば、自分だけではなく、自分のパートナーも恥をかくことになる。

朋之の言い分に、昴は黙って頷いた。





昴が『FLOW』にいた頃、綾音は空港にいた。

綾音からのメールを受け取った裕が、

仕事を終えた後、飛行機に飛び乗ると約束していたからだ。

ほぼ時刻どおりに飛行機が到着し、次々に人が降りてくる。

綾音は人ごみの中にいるはずの裕を、必死の思いで探した。


「あ……裕さん」


裕はすぐに綾音に気付き、見えるように手をあげた。

綾音はそれに答えようと、人の波をかきわけ、前へ進む。


「ごめん、東京へすぐ来るようなことを言っていたのに、なかなか来られなくて」

「ううん……新しい場所に慣れないとならないもの、私の方こそごめんなさい。
忙しいのに」

「いいんだ、気にするな」


裕は綾音の頭に軽く触れると、すぐに手をつなぐ。

綾音は、今日はどうするつもりなのかと問いかけた。


「今日は、先輩の部屋へ転がり込むことにした。
急に来たから、ホテルの予約も取れなかったし」


綾音は、泊まるところがあるのならよかったと笑顔を見せながらも、

あらためてわざわざ裕が来たことが申し訳なく、下を向く。


「どうしたんだ、せっかく会いにきたのに。
僕が見たいのは、綾音のそんな顔じゃないんだけどな」

「……私、ダメだと思って。こんなことで迷惑かけて」

「何を言っているんだ、僕は嬉しかったけどね」


裕はつないだ手を、さらに強く握る。


「綾音が困ったって声を出したり、寂しいって言ってくれると、
男として頼られているんだって思えて、嬉しくなるんだ」

「本当に?」

「本当だよ、男は単純だからね」


裕はそういうとお腹が空いたと笑い出した。

綾音は、そう言ってくれた裕を信じ、思いがけずに得られた時間を楽しもうと、

つないだ手を離し、さらに腕を組んで歩き出した。





昴は駅前のレストランで夕食を済ませ、マンションまでの道を歩いた。

横断歩道で立ち止まると、隣には待ち合わせをしていたのか若い夫婦が並ぶ。

結婚記念日だと笑い、女性はピンク色の箱を持っていた。

人気店のケーキが買えたことを、ご主人である男性に語る。


「わかったよ、君の話はいつも大げさだ」

「何よ、失礼ね」


隣に立つ男性の手には、1本のワインが納まっていた。

それは悠菜が昴に寄こしたワインと同じものになる。


「ねぇ、これがそのワインなの?」

「あぁ……口当たりがいいんだ。たまにはいいだろ、こういうのも」

「そうね、でも、いつもこういうものを買われていたら、
我が家のお財布が空になるけど」

「そんなに高級なものじゃないよ、また大げさに」


幸せそうに笑いあう夫婦は、高級ブランドに身を包むこともなく、

特に金持ちには見えなかった。


「このワインに伝わる話を教えてあげるよ」

「話?」

「あぁ……親とケンカをして家を追い出された青年がいて、
その人が頼るところがなく転がり込んだのが、ワイン作りの使われていない倉庫だった。
寒さをしのぐために、勝手に入り込んだ青年を見つけたそこのご夫婦は、
男を警察に突き出すことなく、事情を聞き家に受け入れてやるんだ」

「へぇ……」

「青年はご夫婦の優しさに触れ、自分のおろかさを反省し、ワイン作りを一から学び、
やがてそのワインは町中の評判となっていく」


男性は、それからこの銘柄が、『弟子から師匠へ贈るもの』として愛されるようになり、

さらにそれを聞いた大学生が、お世話になった教授に手渡したり、

社会人になった子供が、世話になった親に贈ったりするようになったという話を、

女性に語り続ける。



『たいしたものではありませんが、今の私には精一杯のワインです』



昴は、悠菜がただワインを選んだのではなく、

仕事を教えてくれた自分に対する思いがこもったものだったのかと、

その時初めて気付いた。


「感謝の気持ちなんだ。だから互いの実家に送るって言ったのね」

「そう。親に対する感謝の思い……ってことかな」


歩道が青に変わり、夫婦が歩き出す。

昴は、あげていた頭を少し下げながら、速度を上げて二人を追い抜いた。



『感謝のワイン』



昴はマンションへ戻ると、綾音が買ってきたままのワインを手に取った。

悠菜にもらったワインが美味しかったからと、綾音が同じものを用意した日、

『立原音楽大学』から電話があり、ケンカになったため、

結局飲むことなくしまわれている。

サイドボードの上には、綾音が3歳の『七五三』で、

母と昴の3人で撮った写真が飾ってあり、

昴はワインの瓶を写真の前に置くと、幸せそうに綾音を支える母の顔を見た。





綾音は、食事に入った店で、裕に転勤後あったことを全て語った。

レッスンをサボっていたことがばれてしまって、怒られた事。

自分がピアニストにはなりたくないのだと、本音を口にしたこと。

裕はその話を真剣に聞き、時々頷き返す。


「僕も、その悠菜さんの言うとおりだと思う。
綾音が将来何を選択するのかは自由だと思うけれど、今は精一杯取り組むべきだ」

「……うん」

「人の気持ちなんて変わるかもしれないだろ、
たとえ変わらなくても、精一杯やり遂げれば、意見を言っても無視はされないよ。
今は、どこまでやれるのか、挑戦すべきじゃないのかな」


綾音は、裕の意見に頷き、自分が悪かったと下を向く。


「お兄さんもきっと、言い過ぎたなと思っているよ。それでも綾音の方が妹なんだ、
ここは折れてあげないとね」

「……そうね」


裕と話すと、素直になれることが嬉しくて、綾音は壁にかかる時計を見た。

時間はすでに22時を回る。


「そろそろ帰ろうか」

「うん」


裕は携帯を取り出し、泊めてもらう事を頼んだ友人と連絡を取り出した。

綾音は財布を取り出すためにバッグをあけ、内ポケットに入っている鍵を見る。

外はほろ酔い気分のサラリーマンが、楽しそうに歩いていた。


「行こう」


綾音は『はい』と返事をし、少し重たい心を動かした。





まだ裕が東京にいた頃と同じように、乗換駅まで送ってもらう。

一緒に話したベンチには先客がいて、その先のロッカー前まで進んだ。


「失敗したな、やっぱりホテル、取るべきだった」


綾音の手を握る裕の手に、後悔の力が入る。


「このまま帰さないとならないのが、腹立たしいよ」


綾音は裕の腰に手を回すと、そのまま自然に体を寄せた。

綾音の思いを受け入れるように、裕の両手が背中へ回る。

ロッカーの影に身を寄せて、二人は唇を重ねた。





浴室から出た昴は、リモコンを握り、テレビをつけた。

時計を見ると22時を過ぎている。

綾音には今日、遅くなる話を聞いていたので、携帯に連絡をすることはなかったが、

なんとなく尖った態度を取る妹に、沈めていた疑問符がまた浮かび上がる。

綾音に対し、アドバイスをしているのが悠菜だと思ったが、

それは違っていて、そこから何も解決していない。

綾音の才能に、怒りをぶつける同級生や先輩のことも考えてみたが、

それだけのことで、綾音が将来の思いを変化させるとは思えなかった。

昴の手は自然とピアノに向かい、その上に並んでいる楽譜を取る。

開いてみても、さっぱりわからないような音符が並び、

あらためて綾音の実力が高いものだと、納得する。

ところどころに付箋が貼りつき、教授のアドバイスらしき文字が書いてある。

『リスト全集』の楽譜本を手に取ったとき、クリアファイルが挟んであるのが見えた。



『愛の夢』



母が愛し、綾音が先日のコンサートで披露した曲。

初めて生の演奏に触れたのだろうか、悠菜も涙を流していた。

昴が見たクリアファイルの中に、数枚のメモと1枚の名刺が入っている。



『大野調律センター 調律師 崎本裕』



それは先日、家のピアノを調律してくれた調律師のものだった。

『立原』で調律をしているから腕も確かだろうと、綾音自身が決めてきた業者になる。

学校内でセールスでもされたのかと、ファイルを元に戻そうとしたとき、

その名刺が中から滑り落ちた。

裏に書かれたいくつかの数字。

『080』から始まる数字、桁数を数えるとそれが携帯の番号ではないかと想像できる。

昴は名刺を拾い、数字をじっと見る。

業者が営業をするのなら、会社の番号がわかれば済むことで、

昴は名刺をつかんだまま、自分の携帯を握った。

しかも、その数字の筆跡は、綾音のように思える。

名刺の裏に書かれた番号を打ち込み、通話開始のボタンを押す。

番号が並び、相手にかかる手前で、そのまま受話器を切った。





綾音がマンションへ戻ると、昴はリビングでくつろいでいた。

ただいまと元気に声を出し、そのままリビングへ向かう。


「はぁ……ノド乾いちゃった」

「中に何かあるだろ」

「うん」


冷蔵庫を開き、麦茶を取り出す。

グラスの半分くらい注ぎ、それを飲み干した。

何気なく視線を動かすと、以前買ったワインが写真たての前においてあるのが見えた。


「お兄ちゃん、どうしたの、あれ」

「あぁ……なんとなくな」


昴は綾音にそれ以上何も言わないまま、自分の部屋へ入った。

綾音はワインの瓶を手に取り、兄がなぜそんなことをしたのかと考えながら、

思いがけず再会できた裕との時間を、思い返した。





「それじゃ、お先に」

「あ、お疲れ様でした」


悠菜は帰り支度を済ませ、昴の席を見る。

昴はすでに退社したようで、デスクの上は綺麗に片付けられていた。

悠菜は、バッグを開け手帳を開く。

そこには待ち合わせの店名と、時間が、大きく目立つように書き込まれてあった。


「落ち着け、私」


季節が夏の頂点になるある日、

悠菜は、勇と会うために指定された店へ向かった。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

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じわりじわり

拍手コメントさん、こんばんは

>昴が裕のことに、気づきそうですね。
 悠菜の方も気になりますし。

昴の周りは、色々と動きをみせています。
それがどう絡まって、昴のところへ向かうのか。
これからもお付き合いくださいね。

鋭い!

昴は勘が鋭いね
しかし、晴恵の存在が不気味だわ
何事も無ければいいけど・・・

悠奈は実父にあって、どんな感想をもつのかしら?

いつか、昴と悠奈そして渡瀬と晴恵の4人が会うときがくるのか・・・
恐ろしいね~ーー;

先の先

yokanさん、こんばんは
昨日は、眠気に勝てず、創作UPだけしか出来ませんでした。

>悠奈は実父にあって、どんな感想をもつのかしら?
 いつか、昴と悠奈そして渡瀬と晴恵の4人が会うときがくるのか・・・
 恐ろしいね~ーー;

本当、このままだと恐ろしい関係だよね。
その恐ろしさに、じっくりお付き合いください。