20 Desire 【欲求】

20 Desire 【欲求】



指定されたフランス料理の店は、

悠菜が目の前を通っても、決して入ることはないだろうと思えるくらいの高級店だった。

秘書の江口に言われた通り、店員に名前を告げると、深々と頭を下げられ、

女性についていくと、店の奥にある個室へ案内された。


「こちらでございます。すでに渡瀬様はお見えですので」

「はい」


女性はそのまま悠菜へ頭を下げると、また入り口へ戻ってしまう。

悠菜は心を落ち着かせながら左手を上げ、2回ノックをした。

中から低音の返事が戻ってくる。

悠菜はドアノブをつかみ、自分の方へ引いた。





昴がいつもの部屋をノックすると、中から利佳子が現れた。

当たり前のように中へ進み、バッグを椅子に置く。


「本当に忙しいのね、昴」

「本当に? ウソだと思っていたのか」

「そうね、私のお相手は気まぐれなところがあるから」


利佳子は楽しそうに笑うと、グラスに口をつけた。

昴は空いている椅子に腰かけ足を組む。


「上司が変わると、これだけ変わるのかと思うくらい忙しいよ」

「へぇ……」


利佳子はグラスをテーブルに置くと、昴の前に立った。

昴の上着を脱がせ、ハンガーにかけていく。


「今日はね、特別に昴の好きなお酒、用意しちゃった」


利佳子は、もう一度昴の前に戻り、指で組んでいる脚に軽く触れた。

昴は組んでいた脚を元に戻す。

利佳子はそこに軽く腰を下ろし、昴のネクタイを外し始める。


「ほら、大阪で会ったでしょ。あの時に昴が頼んだお酒」


確かにテーブルの上には2つのグラスが置いてある。


「へぇ……どういう罠が仕掛けてあるのかな」

「罠? 失礼ね。いつもいつも冷静な昴を、今日はちょっと変えてみたかったの。
どう? 飲まない? いくらなんでもこれから仕事はないでしょ?」


利佳子はそういうと立ち上がり、グラスを昴に差し出した。

昴はネクタイの無くなったシャツのボタンをいくつか外し、そのグラスを受け取った。


「受けてくれるんだ、嫌だって言わない昴、めずらしいじゃない」

「そうかな」


二人は揃ってベッドサイドに腰かけた。利佳子は乾杯をするつもりなのか、

グラスを前に出そうとする。


「乾杯? 何かいいことでもあるの?」

「……お遊びが、さらに楽しいお遊びになりますように」


利佳子は乾杯の理由をそう言うと、昴のグラスに軽く当てた。

カチンというクリアな音が、部屋をめぐる。

利佳子は一口飲むと、ふぅと息を吐き出し、指につけていた高価な指輪を外した。

その様子を見ながら、昴はグラスに口をつける。


「ねぇ、どんな味がする? サービスの人に聞いたら、結構オリジナルだって、
ここのカクテル。名前は一緒でも、他の店とは違いますからって、
ずいぶん自信たっぷりだったの」

「ふーん……」

「昴……私も飲みたいんだけど」


利佳子はそういうと、昴に顔を近づけた。

昴はその顔の前にグラスを差し出し、唇に押し当てる。


「……叩くわよ」


昴は口元をゆるめ、グラスに入ったカクテルを少しだけ口に含んだ。

そしてそのまま利佳子と唇を重ねていく。

口移しをしたカクテルが収まりきれず、利佳子の首筋をしたたり落ちていく。

昴はその流れを指に感じた後、あらためて唇で受け止める。

利佳子はその刺激を待ち望んでいたと、吐息を押し出し、

カクテルに濡れた昴の親指を、当たり前のように口に含んだ。


「美味しい……」


昴は利佳子のブラウスのボタンを外し、ほのかに漂う香りを鼻に受けた。

利佳子の肌は呼吸をするたびに動き、昴の手は少しずつ高まる体温を感じながら、

先へと進み続けた。





悠菜は以前、秘書の江口が示した、母の形見と色違いになる手鏡をじっと見た。

確かに同じ場所に細工が施されている。


「これが、苗子……いや、悠菜さんのお母さんですか」

「はい、高校の卒業式と、私の成人式の写真です。
大学の卒業式の時には、すでに母は体調を崩していて、参加できなかったので。
元気な姿で撮ったのは、これが最後の写真です」


悠菜は、勇との再会のために、母が映る写真を数枚用意していた。

母はとても働き者で、家にいる時間が少なかったが、

いつも明るく自分の話を聞いてくれたこと、

学校行事などには顔を出し、大きな声で声援を送ってくれたことなど、

思い出を語った。

勇は、その話を、写真と悠菜の顔を交互に見ながら聞き続け、

二人の前に出された料理はなかなか進まなかった。


「寿命という点で言ったら、母は短い人生でしたけれど、
でも、こうしていつも笑って過ごしていたことは、
きっと自分の生き方に後悔などしていなかったのだと思います」


『愛する人』と寄り添うことは出来なかったが、得られた宝を精一杯愛し、

育ててくれた母への感謝を、悠菜は自分の言葉で語った。


「私の知っている苗子さんは、いつも凛としていて、明るい人でした。
今、悠菜さんの話を聞いていて、その通りだと思えるのと、私にはあなた自身の中に、
確かに彼女がいると、そう思えてなりません」


勇は写真の母親を愛しそうに指でなぞり、悠菜に戻した。

悠菜は、そんな勇の仕草に、両親が一時でも愛し合えたときがあったのだと感じ、

会ってよかったと確信する。


「悠菜さん、苗子さんのお墓参りをさせてもらいたいのだが、
どうか、場所を教えてくれないか」

「……はい」


悠菜は自分の手帳を取り出し、母のお墓がある場所をメモにした。

お寺の名前、そしておおよその地図を書き添える。


「それと……」

「まだ、何か……」

「あなた自身の、何か手助けが出来たらと思うのですが」


勇は、悠菜が住んでいるアパートのことを秘書の江口から聞き、

もう少し広く、オートロックになるような物件へ引っ越さないかと提案した。

そのくらいの援助をさせてもらいたいという話に、悠菜はしっかりと首を振る。


「それは結構です」

「遠慮などしないでもらいたい。苗子さんに何もしれやれなかった罪滅ぼしでもある。
これからも会ってほしいなど、わがままを言うつもりはないのだけれど……」

「いえ、遠慮ではないのです。母に……」

「母に?」

「母に笑われてしまいますから」


悠菜は、頑張って自分を育ててくれた母に、

今の状態で、当たり前のように勇からの援助を受けてしまうのは、

間違っているといわれそうな気がすると、笑顔で答えた。


「私は、私自身で築いた今の生活に満足しています。特別優雅ではないですが、
それほど惨めなものだとも思えませんし。ですから、罪滅ぼしなどと思わないでください」

「しかし……」

「母は、渡瀬さんから私という子供をもらったのだと、そう思っているはずです」


悠菜は戻ってきた写真を重ね、嬉しそうに笑う母の顔を見る。

勇は、悠菜のその言葉に、言い返そうとした唇を閉じた。


「わかりました、あなたに無理は言えません」

「すみません……」

「いえ、あなたが苗子さんの娘だとよくわかります」


勇は少し笑みを浮かべ、小さな指輪ケースを取り出した。

開いたケースの中には、銀色に輝くダイヤの指輪が入っている。

小さなダイヤモンドが、リングの中心部分にいくつか重なっていた。


「これは、私が苗子さんに贈ろうと買ったものです。
これを彼女に贈り、プロポーズするつもりでした。
家族の反対があることもわかっていましたが、
苗子さんと別れるという選択肢は、当時なかったので」


悠菜の前で、30年近くの時を飛び越えた輝きがあった。

母が通すはずだった指輪だと思うと、綺麗だという思いを通り越し、

哀しさが膨らみ、目頭が熱くなる。


「これを悠菜さんにお渡ししたい」


勇はそういうと、ケースを悠菜の方へ押し出した。


「彼女と別れてから、私は別の女性と3度結婚した。
その時はその時なりに、添い遂げる覚悟をしていたはずなのだが、
この指輪を処理する気持ちにはなれなかった」


勇はそういうと、用意されてあるグラスに軽く口をつけた。

悠菜はまっすぐに指輪を見つめ続ける。


「苗子さんへの気持ちは、どうしても消すことが出来なかった……」


断るべきではないかという思いは、悠菜の頭に浮かんだが、

ここまで紳士的に対応してくれた勇の思いも、どこかで理解できた。


「こんな高価なもの、本来ならお断りすべきでしょうが、でも……」

「はい……」

「いただかせてください」


悠菜はそういうと、勇にしっかりと頭を下げた。

勇はありがとうとさらに深く頭を下げる。


悠菜は右手で指輪を取り、左手の薬指にはめていく。


「あ……」


そのサイズは、今の悠菜にぴったりだった。

母が亡くなる時に持っていた指輪を通したときには、少し大きく感じたが、

この指輪は、悠菜にはめてもらうことを待っていたように、しっくりとくる。


「よかった」

「はい……」


自分という存在が、この世に確かにあったのだと思える指輪に、

悠菜は、父親を探してよかったのだと、あらためてそう感じた。





食事を全て終え、外に待っていた秘書の江口から時間が迫っていると連絡が入った。

勇はわかったと返事をし、名刺を1枚取り出すと、悠菜の目の前に置く。


「今、無理に援助をするつもりはないのですが、いざという時のために、
名刺を受け取ってください」

「でも……」

「私に電話をするのが難しければ、秘書の江口で構わない。
江口からも名刺を受け取っていますよね」

「はい、いただきました」

「それなら……」


勇は、戸惑う悠菜に向かって、さらに名刺を近づける。


「この世のどこかに、いざとなったら助けてくれる人がいる……そう思えることは、
あなたのこれからの人生に、マイナスになるとは思えない」


たった一人の身内だった母を亡くした悠菜には、重い言葉だった。

一人で生きていくことは楽な部分もあるけれど、どこか寂しさも付きまとってくる。

悠菜は、勇が格好だけをつけて言っているようには思えず、口元をゆるめる。


「さぁ……」

「……はい」


悠菜は勇の名刺を両手で受け取り、ハンカチの上に置いた。

『いざ』などないほうがいいけれど、その気持ちだけでどこか心強くもなる。


「それともう一つだけ。悠菜さんの誕生日を教えて欲しいのですが。
プレゼントくらい、許してもらえませんか?」


勇の遠慮がちな、申し入れに、悠菜はありがとうございますと笑顔を見せた。





悠菜にとって、勇との再会は勇気のいることだった。

それでも会う前の不安より、落ち着きの方が強くなる。

悠菜は店を出て、頭を下げ別れたあと、

そのままホテルの2階にある『ブランカ』へ向かった。


『ブランカ』は悠菜の父、渡瀬勇の経営する『輸入雑貨店』で、

かわいらしい小物や、小さめの家具が並んでいた。

悠菜は丁寧な彫刻を施した宝石箱を手にとって見る。

今日の記念に、何かを購入しようと考えた。


「すみません、これはおいくらですか?」

「はい、こちらは15000円になります」


一人暮らしの悠菜にとって、決して安い買い物ではなかったが、

母と父の指輪を入れてもいいだろうと思い、箱に入れてもらい丁寧に包装する。


「カードで……」

「かしこまりました」


店員は木彫りのカード入れを差し出し、悠菜はカードを置いた。

店の入り口から下のロビーへ目を向けると、

スーツ姿に身を包んだサラリーマンや、外国の商社マンが歩いているのが見える。


「お客様……」

「あ、ありがとうございました」


悠菜は『ブランカ』の紙袋を受け取ると、エレベーターには回らずに、

大きくカーブを描く階段を、ゆっくりと降り始めた。



『この世のどこかに、いざとなったら助けてくれる人がいる……そう思えることは、
あなたのこれからの人生に、マイナスになるとは思えない』



父である勇は、自分が思っていたような境遇の人物ではなかったが、

母が愛した男性は、とても紳士的な人だった。

悠菜は、会う前の不安感から、会えたことの喜びが膨らんでいくのを感じながら、

一歩ずつ階段を降りる。


1階に到着したとき、エレベーターが同じように到着し、

中から数名の客が現れた。


「あ……」


悠菜の目の前を一人の男性が横切っていく。


「畑野さん!」


悠菜が声をかけたのは、利佳子との時間を終えホテルを出ようとした昴だった。

昴は、聞き覚えのある声に振り向き、それが悠菜であることに気付く。


「……どうしてここに」

「こんばんは」


悠菜は昴に向かって、軽く会釈する。


「何か、交渉ごとですか?」


昴は、悠菜に質問される前に、あえてそう尋ねた。


「いえ、今日はちょっと、食事に……」

「そうですか」

「畑野さんは……」

「私は……仕事です」


昴はそういうと急ぐのでと挨拶し、足早にホテルを出て行った。

悠菜は昴の背中を目で追いかけ、音をさせたエレベーターの方を向く。

昴が降りてきたエレベーターは、店舗がある階には止まらない、

宿泊客専用のものだった。

『仕事』だと言いながらも、退社が自分より早かったこと、

宿泊客専用のエレベーターから降りてきたことなど、

飲み込みきれない事実がそこにある。


「……だよね」


平凡な自分とは違い、昴には昴にしか出来ない仕事のやり方があるのだろうと、

悠菜は納得するように頷き、昴から少し遅れてホテルを出た。





昴は悠菜の方を振り返ることなく、他の客がタクシーを止めようと、

地下鉄の駅へ入ろうと無視したまま100メートルくらい直進し、歩みを止めた。

そこで初めて大きく息を吐く。

『FLOW』の人間として動く時間に、顔見知りに会うこと自体初めてだった。

しかも今日は利佳子に誘われるまま酒を飲み、時を重ねた。

左手を口の前に出し、息を吐く。

昴は、『仕事』だと言えないくらい、気持ちの切れた顔をしていなかったかと、

冷静に考えた。

昴は、ゆっくりときらびやかなライトが眩しいホテルの方に振り返る。

『食事』だと言った悠菜が後を追って来たことはないかと、

横を通り過ぎる人の顔を、しばらく見続けた。





『今日はちょっと、食事に……』


帰りの電車内でも、昴の頭に浮かぶのは、悠菜のことだった。

あの瞬間は、思いがけないことに、自分が逃げることだけしか考えていなかったが、

本当に逃げ切れたのか不安になってくる。

昴は手帳を取り出し、あの場所でどういう仕事をしていたのかと、

繕える材料を探し始めた。





昴のそんな心配をよそに、悠菜は勇から受け取った指輪をあらためて指にはめた。

母が愛した人からもらったものは、長い年月を感じさせないほど綺麗に輝いている。

そして、『ブランカ』で購入した宝石箱を取り出し、

いただいた指輪をしっかりと入れる。


「お母さん……ありがとう」


悠菜は、父との再会が素敵なものになったことが嬉しくて、

自分しかいない部屋で、そうつぶやいた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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コメント

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そろそろ・・・

渡瀬が悠菜にとって好印象に終わって、ほっとした
でも、晴恵にとっての渡瀬はどうなんでしょうね
愚痴ってましたもんねーー;

そろそろ昴のもう一つの仕事のボロが出てきそうですね

どきどき

yokanさん、こんばんは
日付が変わるところでした

>渡瀬が悠菜にとって好印象に終わって、ほっとした
 でも、晴恵にとっての渡瀬はどうなんでしょうね

人の印象は、見方や関わり方でも変わるかなと。
どちらが本当の渡瀬なのか(笑)