21 Collision 【衝突】

21 Collision 【衝突】



『畑野さん……』


忙しい仕事が終わった週末、昴はこの声を思い出し、目を開けた。

ベッドの中から手を伸ばし、横にあるはずの携帯を探す。

時間は8時に届きそうなところだった。


いつもなら、酒を飲みながら時を過ごすことなど考えられなかったが、

綾音とのいざこざや、晴恵との揉め事の中で、

利佳子といる時間に慰められたのも事実だった。

その油断が自分を追い込んだのだと、あらためて両手で顔を覆う。


「ふぅ……」


ベッドから起き上がりビングへ向かうと、綾音はまだ部屋の中にいるようだった。

冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボトルを取り出すと、

右手で蓋をひねる。

乾いたノドに潤いが注ぎ込まれ、昴はもう一度大きく息を吐いた。





マンションから外へ出ると、コンクリートに跳ね返された真夏の日差しが、

向かってくる。昴は近くの店で昼食を買い、部屋へ戻った。


綾音は、今から2時間ほど前に、外出する格好で部屋から姿を見せ、

今日は大学に向かうのだと愛想無く言った。

無言の昴に対し、目の前で新聞を広げ、

オーストリアから、教授の友人であるピアニストが大学を尋ねてきて、

それを出迎えるのだと情報を足した。

昴が紙面に視線を向けると、確かに小さな記事ではあるが、

有名なピアニストが来日したと書いてある。

昴は、『崎本裕』の名刺を見つけ、その付き合いを綾音に尋ねようとしたが、

結局出来ずに送り出した。


夏前に、見事代表に選ばれた『全日本音楽大学演奏会』での大阪本選は、

綾音なりの頑張りを見せたが、結局数人いる中の『入賞』どまりだった。

それでも、『立原音楽大学3年』という立場で臨んだ割には好成績だったが、

昴は、綾音とのすれ違いを修正できないまま、戻ってきた妹を受け入れることしか出来ず、

どこかギクシャクとした時間が、流れ続けている。


買ってきたパスタに合うようなスープにお湯を注ぎ、テーブルに置く。

昴は、家族写真の前にあるワインの瓶を見つめながら、スプーンで中身をかき回した。





昴が、綾音とのこじれに頭を悩ませていた頃、

『立原音楽大学』では、慌しい人の動きがあった。

世界的に有名なピアニストが来たことを取材するために、

あらかじめ申し入れをしていたマスコミ以外の人間が学校を取り囲み、

ホテルへ迎えに行った車と、危うく衝突しそうになる。


「それで?」

「本人が怒ってしまって、結局ホテルへ戻ったって」

「戻った?」


精神的にダメージを受けたという理由で、

ピアニストは、会場準備が整っていたにも関わらず、

約束を無効にし、戻ってしまったのだと言う。

学生たちからは落胆の声が、教授たちからは失礼な対応をしたマスコミに対し、

怒りの声が上がる。


「全く、どういう立場の方なのか、価値がわかってもいないくせに、
無理やり取材などしようとするからよね。ブレール先生が、いったい、
どれくらい格上の人間だと思っているのかしら」

「……うん」


綾音は、友人の言葉に合わせ、返事をしたが、内心その意味が理解できずにいた。

周りで演奏を待っていた人間は、誰一人、

ピアニスト『アレルド・ブレール』の非を責めるものがいない。


「望月教授」

「何だね」

「ブレール先生の演奏を、ホールでお待ちになっている方には、
どう説明をしたらよろしいでしょうか」


貴重な演奏が聞けるということで、『立原』のホールは無料開放されることになり、

クラシックファンは、数日前の抽選会に参加してくれた。


「今日は中止だ、そう言いなさい」

「でも……」

「でもも何もないだろう。ご本人が気分が乗らないのだとそう言われて、
すでに帰られたのだ。君たちは明日の授業内でレッスンが出来るようにお願いしてある。
今日はどうせ無料開放だろう、本来、お金を出して聴きに行かないとならないものを、
タダで味わおうと思っただけなのだから」


主任教授の望月は、そう淡々と言い切った。

数名の先輩や仲間も、顔を見合わせて仕方が無いかという表情を見せる。


「教授、それではあまりにも……」


望月から見て2列目にいた綾音は、我慢仕切れずに声をあげた。

望月に向かって、意見を述べる綾音の態度に、周りの仲間が驚いた顔を見せる。


「畑野、あまりにも……なんだ。君は私が間違っているとでも言いたいのかね」

「間違っているということではありませんが……でも……」


望月は座っていた椅子から立ち上がり、綾音を睨むような目を見せた。


「今言ったとおりにしなさい。なぜこうなったのか、具体的な出版社の名前を挙げて、
失礼があったことを非難すればいい。この出来事に対する対応は以上だ。
時間が無駄になる。高原、鍋島、レッスン室へ来なさい。
『クリアコンクール』の曲選びを始めよう」


綾音の両隣に立っていた同学年の高原と鍋島は、

主任教授の望月から指名を受け、すぐに頭を下げた。

高原が、軽く綾音の肩にぶつかったが、何も言わず必死に望月を追いかける。

特にやることのなくなってしまった下級生もそれぞれ、散らばり始めた。


「畑野さん……」


すでに4年で卒業を決めた先輩の池本は、『特別レッスン』メンバーの中で、

綾音だけ声をかけてもらえなかったことを気にして、

すぐに望月に謝罪をするようにと助言する。


「池本先輩」

「畑野さん、気持ちはわかるけれど、望月教授のプライドを傷つけたらダメよ。
あの先生がどういう性格なのか、もう十分にわかっているでしょ。
あなたが損をするのよ。『クリアコンクール』は年末の大きなイベントだし、
あなたも行かないと」


綾音はわかりましたと返事をし、望月たちの後を少し追いかけたが、

途中で立ち止まる。

ホールではすでに、演奏会を中止とするアナウンスが流れだし、

会場にいた観客たちがどよめき始めた。

開くことのない幕の中に、弾くはずだった1台のピアノが置かれたままになっている。

綾音は望月の方へは行かずに、ゆっくりとピアノの前に立ち、

ライトも当たらず、楽譜もないピアノに触れ、

椅子に腰掛けると、息を大きく吐き出した。





昴は、明日から動く予定の仕事準備を終え、リビングでニュースを見ていた。

携帯が揺れだし、相手を確認すると『立原音楽大学』であることがわかる。

綾音がまた、自分にウソをつき、欠席したのだろうかと思いながら受話器を開けると、

話は昴の予想とは全く違ったものだった。


綾音は、コンサートが中止と発表されたホールに乗り込み、

演奏者のいなくなったピアノを、勝手に弾きだした。

幕の向こうから聴こえる音楽に、突然の中止を不満に思った観客の嘆きが、

演奏が進むにつれ、無言になり、そして演奏終了がわかると、

大きな拍手を生んだのだという。


「大変申し訳ありませんでした。妹が戻り次第、注意をしますので」


昴が担当者にそう謝罪すると、主任教授である望月が、身勝手な行動に大変憤慨し、

綾音には、しばらくレッスンを休んで欲しいと言っていることを明かす。


「いや、しかし、望月先生には大変お世話になっていて、これからも……」


『立原音楽大学』の、そして業界の中で、

確固たる地位を持っている望月から睨まされたとなると、

これからの進路に大きく影響することは、

昴にもこの何年間かでわかっていることだった。

そのために無理をしてまで、『特別レッスン』を受けさせ、

高額な演奏旅行にも参加させてきた。

なんとかレッスンはと頼むが、代わりに電話をしてきた相手は、

自分ではいい返事を戻すことは出来ないと、何度も繰り返す。


結局、その場で意見を撤回してもらうことは出来なかった。





「私は、自分が間違っているとは思えない」

「綾音……」


綾音は、出かける時の約束どおり、夕食前には戻ってきた。

昴に学校から連絡が入ったことも承知していて、

自分の対応は、非難されるようなものではないと言ってみせる。


「いくら優秀なピアニストだって、たとえ、ちょっとしたトラブルがあったって、
演奏を楽しみにしている人がいることもわかっていて、
帰ってしまう気持ちがわからない。それを悪く言わない、学校の先生たちの気持ちも、
私には全く理解できない。何が特別な人よ……間違っているでしょ」


話の全体像を聞きだせば、確かに大人気ない対応だと思えたが、

昴は『話の核』はそこではないのだと、言い返す。


「核?」

「そうだ、お前が正義感を振りかざして見ても、損をするのは誰なんだ。
望月教授の機嫌を損ねて、レッスンにしばらく出るなと、そう言われたんだぞ」

「……いいわよ、今私も出たいとは思わないし」

「綾音!」

「私は、ピアノを愛しているの。ピアノを弾くことが好き。
機嫌がどうのとか、名誉とか、地位とか、そんなもの関係ない」


昴は綾音の意見に、テーブルを叩きそのまま立ち上がった。

綾音はその姿を見つめ、それでも謝ることなく口を結ぶ。


「ピアノに前向きになると、そう言っただろう。違うのか」

「違ってなんていないわ。私は前向きに取り組んでいます」

「何が前向きだ、主任教授を怒らせて……。
この間の『演奏会』より上に行くには、望月教授の協力がなかったら……」

「間違っているから、それを意見しただけです」



「男に言われたのか……」



「男?」



「お前を強気にさせているのは、あの男なのか」

「お兄ちゃん……」

「ピアニストになることなど考えなくていいなどと、お前に吹き込んでいるのは、
うちに来た調律師なのか」


綾音は、どうして急に昴が裕のことを口にしたのかわからず、

すぐに言葉が返せなかった。リビングから自分の部屋へ戻り、

何か留守中に探られたのかと見回してみる。

本の場所、化粧品の場所、たんすの中など調べてみるが、

特に探られた形跡は見つからない。

綾音は、勝手に中に入らないで欲しいと扉をしっかり閉め、リビングへ戻った。


「中になど、入ってはいない」

「それならどうして崎本さんのことを言うの?」

「お前がここのところ急に、変わってきたからだ。
最初は住友さんに話を振られたのかとそう思ったけれど、彼女ではないことがわかった」

「……それで?」

「うちに調律をしに来たときから、お前の様子はおかしかった。
どこかそわそわしていたし、調律の状態を確認するにしては、本格的な曲を弾いた。
崎本って男も、その様子を真剣に見ていたし……」


綾音は力なく降りていた両手を、しっかりと握り締めた。

隠すべきでも無いことだと、自分に気持ちを入れる。


「そうよ……私、崎本さんとお付き合いをしているの。
素敵な人だから、気持ちがどんどん惹かれた」


綾音は昴の横を通り、ピアノの前に立つと初めて会った日、

もらった名刺を取り出す。


「私のピアノには『愛』があるって、彼はそう言ってくれた。
それが私にはとても嬉しくて……」

「……『愛』?」

「習い始めた頃は、ただ弾くことが楽しくて、音のつながりが曲になることが嬉しくて、
それを繰り返していたのに、『立原』では競うことばかりが増えて、
いつのまにかピアノを叩いているだけのような、そんな気がしていた。でも……」


綾音は、左手の人差し指で、『ド』の鍵盤を軽く叩く。


「彼と出会えて、彼が聴いてくれると思うことで、
私はもう一回、まっすぐにピアノへ向かうことが出来るようになった……
だから……」


綾音の口がさらに動こうとしたとき、昴は呆れるような顔をして、

背を向けてしまう。


「お兄ちゃん……」

「くだらない。今、お前はそんなことを考えている状態じゃないだろう。
何が男だ、何が『愛』だ、いい加減にしてくれ」


綾音のまっすぐな告白に、昴は思いをそのまま吐き出した。

綾音をピアニストにするため、何もかもをそこにあわせてきた。

自分の生活も、時間も、全てを注ぎ込んだのに、

急に出てきた男に、全てをわかっているようなことを言われてはたまらない。

綾音の意見など受け入れないという姿勢が、昴にとって背を向ける行為だった。


「そんな浮いたような言葉に、まんまと騙されて……」

「騙された? そんなことないわ」

「許さないからな、お前の道を邪魔するような男との恋愛など」

「お兄ちゃん」


昴は、冷静になろうと、飲んでいたカップにあらためてコーヒーを入れようとするが、

途中で流しに放り出してしまう。


「お前は……」

「お兄ちゃん、人を好きになったことがないの?」


綾音は、興奮する昴とは反比例し、冷静にそう言った。

昴は言い返そうとしたが、言葉が続かない。


「人を好きになったことがないから、そんな冷たいことが言えるのよ。
ううん、私のことを妹として精一杯愛しているから、こうして学校に行かせているって、
そう言いたいのかもしれないけれど、そんなこと、『愛』でもなんでもない」

「綾音……」

「私にばかり、全てを明らかにしろって言わないでよ。お兄ちゃん……
お兄ちゃんなんて、私に何も見せてくれないじゃないの!」


綾音はそういうと、そのまま部屋へ入ってしまった。

昴の足は1、2歩動いたが、それ以上進むことなく止まってしまう。

言い返したいことは山ほどあり、どうにでも出来ると頭では思っても、

今の綾音に対し、言葉で説得する自信が出てこなくなる。

結局、昴は、その日、これ以上綾音と向き合うことが出来なかった。





次の日の朝、綾音はいつもより早めに家を出たようだった。

昴はいつもと同じ通勤電車に乗り、同じような場所に立つ。

隣の女子高生は吊り輪につかまりながら、必死に携帯をいじっている。

タッチパネルの画面には、どこに住んでいる人かもわからない相手から、

ひっきりなしにメールが届いた。

『わかるよ』とか『同感』など、共感してくれる言葉に対し、

駅に到着することにも興味が無いくらい、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、

必死にやりとりを繰り返していた。


「おはようございます」

「あぁ、おはよう」


昴が『salon』の営業部に到着し席に着くと、

笠間が見て欲しい資料があるといい、目の前に差し出した。

綾音のことばかり考えていた頭を切り返そうと、昴はその書類に目を向ける。


「住友さん、ちょっといい?」


部長の橋場が声をかけ、悠菜が席を立ち上がった。

その動きに気付き、昴は視線を向ける。

悠菜が取引していた業者との連絡が取れたこと、次の戦略をどう立てるのかと、

橋場は興味深そうに聞いている。

悠菜も資料をまとめ、しっかりと意見を言うと、橋場に頭を下げてまた席へ戻った。


「畑野さん……聞いてますか?」


昴の横で、笠間は間延びするような言い方をすると、『はぁ……』とため息をつく。

昴は聞いていると答えたが、笠間は納得がいかないのか、首を傾げた。


「どうした」

「どうしたじゃないですよ、それは僕のセリフです。
人が大事な話をしようとしたのに、
畑野さん、住友さんの方ばかり見ているし……」

「適当なことを言うな」

「適当じゃありませんよ、彼女の動きに合わせて、動いていました」


昴はそう指摘されたことで、体ごと笠間の方へ向ける。


「貸してみろ」


笠間は、どこかムキになる昴がおかしくて、笑いをこらえながら書類を手渡した。





昼休みのチャイムが社内に鳴り響き、昴は席を立った。

悠菜は隣の女子社員に声をかけられ、財布を手に持つとどこかに出かけてしまう。

昴が、その波に少し遅れて廊下へ出ると、同じ営業部の若手社員が一人、

階段の脇に立っていて、ほんの数分後に別の部署から来た女子社員と一緒に、

階段を下りていく。

社内でも公認の間柄なのか、すれ違う上司は二人に笑顔で声をかけた。



『お兄ちゃん、人を好きになったことがないの?』



幸せそうな二人の姿を見たとき、昴は昨日、綾音が言ったことを思い出した。

『人を好きになる』ことに経験がないわけではない。

しかし、『FLOW』に入り、契約を交わすことが決まり、その部分は切り捨てた。

会社員と『愛人』の使い分けは出来ても、

女性に対する思いを使い分けることが出来るとは思えなかった。

幸いなのか、あまりにも現実が途切れなく押し寄せてきて、

いつの間にか『人を愛すること』を考えることもなくなっていた。


昴にとって、唯一『愛情』を向けていたはずの綾音とは、ますますすれ違っていく。

どこに解決の糸口があるのかすらわからず、昴は誰もいない階段をひとり、

ゆっくりと下りだした。





「メンテに来る瀬戸口さん、素敵よね」

「あぁ、あの人ね、確かに……」


その頃、悠菜は同僚と一緒に、ランチの店に入ったところだった。

席が向かいの女子社員は、近頃、コピーのメンテナンスに訪れる会社の社員が素敵だと、

嬉しそうに語りだす。


「でもさ、素敵さからいったら、なんといってもうちの畑野さんでしょ」


悠菜よりも1つ先輩の女子社員は、入社してからずっと昴に憧れていると言い出し、

他の女子社員も、納得するように頷き返す。


「畑野さんが素敵なのはわかっているけれど、それはそうなんだけど、
あの人、相当お金持ちのお嬢さんとお付き合いしているって……」


悠菜はメニューを持ったまま、本当にそうなのかと問い返した。

そう情報を述べた前川は、あくまでも噂だけれどと、付け加える。


「噂……」

「そう、噂なんだけど、だってね、あの年齢で素敵さで、
社内の女子社員と一切お付き合いがないのよ、仕事上で話をすることはあっても、
プライベートで飲みに行くなんてこと、まず聞いたことがないし……」


確かに、昴が同僚たちとどこかに出かける話など、悠菜も聞いたことがなかった。

3人の前にウエイトレスが現れ、それぞれランチを注文する。


「前の部長、あの豊川がさ、いつも畑野さんを目の敵にしていたでしょ。
でも、畑野さんはそんなこと余裕って態度だったじゃない、
あれは、プライベートでお金持ちのお嬢さんと付き合いがあって、
将来的には成功が見えているから余裕なんだって……」

「……って?」

「もっぱらの噂」


悠菜は、同僚たちの言葉に軽く頷きながら、

先日、ホテルで偶然会ったときのことを思い出した。

渡瀬勇からの呼び出しがなければ、悠菜がまず近付く場所ではなかった。

その『宿泊客専用』のエレベーターから、昴が確かに降りてきた。


「お嬢さん……ねぇ」


目の前に置かれたお冷に口をつけながら、

悠菜はあの日昴が見せた、少し驚いたような顔を思い返した。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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