22 Expectation 【期待】

22 Expectation 【期待】



悠菜は同僚と別れた後、会社近くにあるコンビニに立ち寄り、

のど飴を選ぶと、レジに並ぶ。



『あの人、相当お金持ちのお嬢さんとお付き合いしているって……』



悠菜は、ランチをしながら同僚が言ったことは、根拠のないただの噂だと思いながらも、

どこか納得できるような内容に、気持ちが沈んだ。

あの日、悠菜が渡瀬と再会したとき、昴が他の女性と会っていたのかと想像すると、

呼吸すべきところが、ため息に変わる。


「お客様、105円です」

「あ……はい、すみません」


悠菜は、うわの空でのど飴を前に出し、

値段を言われたいことで焦りながら財布をのぞく。

小銭は1円硬貨が3枚しかなく、慌てて札を出そうとしたが、

レシートが邪魔をして、うまく引き出せない。


「すみません、これも一緒に」


後ろにいた男性が、のど飴の横にガムを置き、500円硬貨を出した。

店員は『お預かりします』と声を出し、そのままお釣りを寄こす。


「畑野さん……」


昴はのど飴を悠菜に差し出し、レジを離れた。

コンビニのレジは、また次の客を迎え、バーコードを読み取る音がする。


「畑野さん、すみません、私ボケッとしていて、
お金、後でお返しします」

「いいですよ、そんなこと」

「いや、でも……」


昴はそう言いながら数歩進んだが、そこで立ち止まった。

悠菜は止まると思わなかった昴に、ぶつかりそうになる。


「住友さん」

「はい」

「今日は忙しいですか?」

「この後ということですか?」

「いえ、仕事が終わってからです」


悠菜は、自分の予定を頭に浮かべたが、確か急がなければならないものは、

入っていなかったと首を振る。


「そうですか、それなら食事にでも行きませんか?」

「……私……とですか?」

「ご迷惑かな」

「いえ、いえいえ、迷惑だなんて」


昴は、悠菜が誘いを受けてくれたことがわかり、『よかった』という言葉を口にした。

悠菜は沈みかけた気持ちが、一気に弾けていくのを感じながら、

すぐに昴を追いかける。


「畑野さん」

「はい」

「私、何かご迷惑をおかけしたのでしょうか。取引先から苦情でも……」

「いえ、違います」

「……だとしたら……」

「プライベートなお誘いです。仕事のことではありませんから」


悠菜は力なく『はい』と返事をし、先を歩く昴の背中を見る。

横を向くとガラスに映る自分がわかり、風で乱れた髪を軽く整えた。





『プライベートなお誘いです』



悠菜は、その日の午後、昴の動きばかりを気にしていた。

何度か食事をすることはあっても、今までは仕事がらみであり、

唯一仕事でないときは、昴からの謝罪だった。

今回は謝られることもなければ、仕事のトラブルもないと言う。


「住友さん、ねぇ……」

「何?」

「総務の室井さんが飲み会しないかって、あなたも行く?」


悠菜の視線の先で、昴が立ち上がり、書類を橋場に提出する。


「ごめん、今日はダメなの」

「何、用事?」

「うん……ちょっとね」


悠菜は隣の前川にそれだけを言うと、コーヒーを入れてくると給湯室へ向かった。





昴が悠菜を誘った店は、『salon』から駅とは反対に向かった店だった。

カウンターをあわせても、20人は座れない。


「ここに、こんなお店があったなんて、知りませんでした」

「そうですか、昼は営業しない店なので、仕方がないですよ」


昴はここにはコースしかないのでと説明し、二人の前にワイングラスが運ばれた。

輝くグラスの中に、白のワインが流れるように入っていく。


「突然お誘いして、申し訳なかった」

「いえ……」

「実は……」


悠菜の心臓が、全てのことを意識して、鼓動を速めた。

期待してはいけないこともわかっているけれど、気持ちが勝手に動いてしまう。


「綾音のことなんです」


昴の言葉に、悠菜は思わず『エッ……』と声を出した。

悠菜の声に、昴はどうしたのかという顔をする。


「あ……あ、はい。綾音さん……あぁ、そうですよね、はい」

「どうしましたか」

「いえ……」


悠菜は自分が何かを期待していたことがおかしくて、『ふぅ……』と息を吐いた。

冷静に考えてみたらすぐにわかることだったのに、

昼間聞いた噂話が影響したのか、全く頭に浮かばなかった。


「綾音さん、何かありましたか」


仕事の時に比べて、どこか昴に落ち着かない部分が見えたのも、

綾音を思ってのことだとわかる。


「いや……その……」

「何でも聞いてください。わかっていることは答えます」

「ありがとう」


昴はその言葉に落ち着けたのか、『崎本裕』の名前を口にした。


「崎本裕」

「君は綾音から聞いているだろう、立原に出入りする調律師だ。
彼が綾音に色々と言っているのではないかと……」


悠菜は、昴の口ぶりから、裕との交際がバレてしまい、

また二人が衝突したのだろうと考える。


「崎本さん、とてもいい人ですよ」

「いい人? 住友さんは会ったことが……」

「いえ、ありません。綾音さんから話を聞いているだけです」

「話だけ? それでいい人だとどうしてわかるんだ」

「綾音さんが、とても素敵な女性になっているからです。
彼との出会いが、プラスに働いているのだろうなって、そう感じますから」


悠菜は、確かに裕が『立原音楽大学』に出入りしている調律師で、

綾音の演奏を聴き、そのピアノに向かう姿勢を褒めてくれたこと、

福岡に転勤が決まったけれど、綾音との付き合いを継続したいと願ったこと、

綾音もその応援を励みに、頑張る気持ちになれたことなど、

知っていることを順序良く昴に語った。


「福岡……」

「はい、地方の会社を吸収したそうです。その指導員として赴任することを、
彼は自分から志願したと、綾音さんから聞きました」


二人の前に料理が運ばれ、互いにナイフとフォークを持ちながら、

話は続いていく。


「全国のピアノを最高の状態にして、本当に素敵な音を聴いて欲しい……
それが崎本さんの夢なのだそうですよ」

「夢……」

「はい」


昴は、マンションに調律をしにきた崎本の横顔を思い出した。

確かに真面目に取り組み、接客の態度もしっかりしていた記憶がある。


「……君には、あれこれ話すんだな、綾音は」


昴はそういうと、ワイングラスに口をつけた。

悠菜には、その表情がどこか寂しく見える。


「ガールズトークです。恋愛話で盛り上がるのは当たり前ですよ」

「ガールズトーク」

「はい……綾音さん、畑野さんのことは、兄でもあり、父でもあるって、
前にそう言っていました。心配させるようなことは言えないのでしょう。
自分を大切にしてくれていることは、痛いくらいにわかっているんです。
それと同時に……大きなプレッシャーも」

「プレッシャー?」

「はい……」


昴のポケットに入れてあった携帯が鳴り出し、その相手を確かめた。

相手は綾音になっていて、悠菜に断りを入れると、その場で携帯を開く。


「もしもし」

『もしもし、畑野昴さんでしょうか』

「……はい」

『突然、申し訳ありません。綾音さんの携帯からかけています』


悠菜は、昴の表情から、何かが起こったのではないかと、そう思った。

ナイフを横に置き、見守ろうとする。


「君は」

『はい、崎本裕と申します』


綾音の携帯を使ってかけてきたのは、裕だった。

昴に裕との交際を反対された綾音は、今朝、学校に向かい、

午前中の授業を終えた後、飛行機で福岡に飛んだ。

このまま家には戻らないと言う綾音を説得し、電話をかけていると説明する。


『申し訳ありません、僕のいたらなさです。
すぐに東京へお返ししようと思ったのですが、綾音さん自身に納得してもらわないと、
また同じようなことになるのではないかと。今までずっと二人で話をしていました』

「綾音は……いますか」

『はい、お待ちください』


裕の声が聞こえた数秒後、綾音の小さな『もしもし』が昴の耳に届いた。

『何をしているんだ』と怒鳴りたくなる気持ちをグッとこらえ、

あえて冷静に『うん』と声を出す。


『ごめんなさい……』

「こんなことをして、崎本君にも迷惑がかかるだろう」

『はい……でも……』


言い返そうとした綾音の言葉が、そこで止まってしまう。


「言いたいことがあるのなら、言いなさい」

『私には……彼が必要なの』


昴はその時初めて、前に座っている悠菜が心配そうな顔をしていることに気付く。

受話器を手で押さえ、相手が綾音で、今、福岡に行っていると説明する。

悠菜はバッグに押し込んだ携帯を取り出し、着信の記録を見た。

綾音から2度ほど電話があったことがわかり、

気付いてやれなかったことに唇をかみ締める。


「綾音、夜行バスくらいあるだろう、すぐにこっちへ戻れないのか」

「畑野さん!」


悠菜は『福岡』という言葉を聞き、綾音が昴との衝突のショックから、

裕のところで向かったのだとわかり、発言を止める。

昴は、受話器に手を当てた。


「何……」

「何を言っているんですか、綾音さんがどこにいるのかわかったんですよ、
しかも、正直に話をしているのに、夜行バスに乗って戻れだなんて……」

「いや、しかし……」

「また、どこかに行ってしまいますよ、それでもいいんですか?」


悠菜の脅しにも聞こえるセリフに、昴は言い返すことが出来なかった。

いつまでも子供で、力のない妹だと思っていた綾音は、

自分から裕のところへ向かう選択をした。


『もしもし……』

「はい」

『明日、僕が自宅へ送ります。お兄さんにもお会いしたいと思いますので、
何時ごろならよろしいですか』


裕は、自分が一緒に東京へ戻り、きちんと話をしたいとそう語った。

昴は、それ以上言い返すことが出来ずに、19時に家へ戻ると返事をする。

裕のわかりましたという返事が届き、電話は終了した。

昴は受話器を閉じると、またポケットに戻す。


「綾音さん、どうするって……」

「明日、崎本君が一緒に東京へ来てくれるそうだ」

「そうですか……よかった」


綾音のことを本当に思い、昴に向かってくる裕の思いに、

悠菜は嬉しくなると同時に、うらやましくもなる。


「素敵な人ですよ、きっと」

「……さぁ」


昴はそういうとまた両手にナイフとフォークを持つ。


「いえ、絶対に素敵な人です。だって、綾音さんが選んだ人なのですから」


悠菜はそう言うと中断していた食事に戻る。

昴は、裕と会ったわけでもないのに『いい人』だと言い切る悠菜の言葉に、

反論しようとしたが、結局、その先を言うことが出来なかった。





「ごめんなさい」

「あぁ、本当だ。ごめんなさいじゃ済まないよ」

「崎本さん」


福岡では、裕の暮らすアパートで、二人が向かい合っていた。

綾音は迷惑をかけたとあらためて謝罪する。


「謝る人が違うだろ、君が謝らないとならないのはお兄さんだ」


綾音のためを思い、綾音のためだけに苦労してきた昴に、

こうして反抗していることを、裕は強く責めた。


「他人の力を借りずに生活することが、どれだけ大変なことなのか、
まだ君にはわからないだろう。しかも、お兄さんは自分の幸せを保留して、
君のためにずっと生きてきたんだ。それをちょっと衝突したからって、
何も言わずに出てくるなんて……」


裕にそう言われ、綾音の目には涙が溜まりだす。

『小麦園』に、昴が迎えに来てくれた日のこと、

部活の応援に昴がやってきたことで、友達が驚き黄色い声が上がったことなど、

懐かしい思い出が蘇り、勢いでここへやってきてしまったことへの後悔が、

どんどん胸を締め付けた。


「……絶対に、してはいけないことだ……」


裕はそういうと立ち上がり、不安そうに身を小さくする綾音をそっと抱きしめた。

綾音はそのぬくもりに安心したのか、溜めていた涙を流していく。


「無理しているの、お兄ちゃんは絶対に無理をしているの……」

「綾音」

「それが……辛い」


綾音は裕の腕をしっかりと握り、小さな部屋の中でしばらく泣き続けた。





昴と悠菜の料理は全て運ばれ、片付けられた皿の代わりに、

陶器で作られたカップが、二つ置かれた。

コーヒーの香りが、気持ちを落ち着かせてくれる。


「すみませんでした、また余計なことをして」


悠菜は昴に向かって、軽く頭を下げる。

昴はカップに向かわせた手を止め、悠菜の方を見た。


「いや……いいんだ。確かに君の言うとおり、無理に戻そうしたら、
家に帰る事もしないかもしれない」


綾音が福岡まで行ってしまったという事実は、昴にとって大きな出来事だった。

いつまでも子供だと思っていた妹は、自分の世界を着実に作っている。


「今の綾音さんにとって、『恋』をしていることは、マイナスだと思えません」


カランと入り口が開く音がして、客がまたもうひと組姿を見せる。


「明日きっと、『ごめんなさい』って謝ってくれますよ。綾音さんはそういう人です」


悠菜の言葉に、昴は黙ったままになる。

悠菜は角砂糖を一つ取り出し、カップの中に入れた。





悠菜は、昴と別れてから、電車内で綾音にメールを打とうと携帯と開いた。

着信に気付かなくて申し訳なかったこと、

裕のところに行ってしまうという大胆な行動に驚きながらも、

その行動力をうらやましく思ったこと、

昴が綾音との関係を修復しようと願っていることなど、

絵文字や顔文字を取り入れながら、丁寧に打ち込み送信する。

地下鉄の景色が、駅構内に変わり、悠菜は乗換えをするため、

他の客の流れに乗り、電車を降りた。


そのメールは、福岡にいる綾音にしっかりと届く。


「何、誰?」

「悠菜さん、ほら、私がお姉さんのように思っている人」

「あぁ、綾音にアドバイスをくれたって人?」

「そう……」


綾音は悠菜からのメールを読みながら、自然と顔がほころんだ。

悠菜が、自分を気にしてくれていたことももちろん嬉しかったが、

関係の修復をしたいと願う昴が、その助け舟を悠菜に出し、

電話の瞬間、一緒にいたという事実が、さらに気持ちを明るくさせる。


「なんだよ、さっきからニヤニヤして、そんなに楽しいメールなの?」

「ねぇ」

「何?」

「私の突然旅行には、とても大きな意味があったのかも」

「大きな意味?」

「そう……」



『畑野さん、真剣に話を聞いてくれたの……』



「意味が、あるといいな……」



綾音が悠菜からのメールに、これからの期待を抱いていた頃、

悠菜は乗り換え駅のホームで、次の電車を待ち、

昴は自動改札を抜け、マンションに向かって1歩踏み出したところだった。





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コメント

非公開コメント

無くなった^^

綾音の大学での出来事、綾音の言うとおりだと思うわ
愛のない音色はそこどまり、それ以上の音色は出ない

今回の出来事で裕を見直しちゃったわ~
裕への不信感はなくなりました^m^

yokanさん、こんばんは
お返事遅れちゃって、ごめんなさい。

>今回の出来事で裕を見直しちゃったわ~
 裕への不信感はなくなりました^m^

よかった、よかった……
綾音、悠菜、裕
彼らが昴を変えていけるのか、いけないのか、
これからもお付き合いくださいね。