23 Promise 【約束】

23 Promise 【約束】



次の日、昴は朝から外回りだった。

取引先の店舗が改装を済ませ、商品の再搬入が行われることになり、

長い付き合いから信頼の厚いオーナーに依頼を受け、陳列のアドバイスも続けた。


「これはもう少し上へ」


『畑野君に任せておけば安心だ』というオーナーは、横で涼しい顔をしている。

昴は、『salon』の商品が一番いいポジションを確保するよう、

従業員に丁寧な指示を繰り返した。





「うわぁ……すごいじゃないの、住友さん」

「いえ……」


その頃、『salon』の社内では、営業成績の一覧がPC内で発表されていた。

トップを走る昴の位置はそのままだが、子会社から来て実績のなかった悠菜も、

着実に順位を上げ、女性では2番目の成績を取る。

男性社員全て含めても、『優秀』といえるグラフに、

悠菜は、社内で自分の位置を確保できた気がして、ほっと一息をついた。


「これはのんびりコーヒーなんて飲んでいる場合じゃないですよ。」
俺も住友さんに抜かれないようにしないと」

「何を言っているんですか、笠間さん、私なんてまだまだです」

「いやいや……」


昼過ぎの給湯室前では、悠菜を見つけた笠間が、そう声をかけた。

笠間は、それほど切れが鋭くは見えないものの、

コミュニケーションを取るのがうまく、営業成績も上位になる。


「なんとか師匠に追いつきましょう」

「師匠? あ、あぁ、はい。畑野さんのことですね」

「そうですよ、あの冷静沈着で、何があっても動じないような男の顔を、
ちょっとは焦らせないと」

「……はい」


笠間のその言葉に、悠菜はその通りだと笑顔を見せた。





「南雲……本当に、この『salon』にいるの?」

「はい、調べた結果、ここの営業部に所属されていると……」

「主人は知っているの?」

「えっと……おそらく、いや、江口さんならご存知かと」

「江口は私が聞いても、何も言わないわ。
元々、私が渡瀬の家に来たことも不満みたいだし……」

「いや、そんな」

「いいのよ、南雲が気をつかわなくても。
娘がいるとわかってから、主人も江口も、私のことなどどうでもいいみたいだし」


悠菜が笠間と笑っている頃、『salon』の前には1台の車が止まり、

黒塗りの高級車の中には、一人の女性がいた。

前に座り運転をしているのは、江口と同じく『STW』で働く、南雲孝助で、

本来、江口の下で動くはずが、晴恵が私用を頼むことが増えていき、

こうして外出に借り出されている。


「『salon』の営業部ねぇ……」


晴恵は、車内から正面に建つビルを見続ける。

以前、この場所に、別の人間を追いかけ、車を止めたことを思い出す。


「奥様……到着のお時間に遅れますので」

「わかってます。ねぇ……でも『salon』にいることが本当なら、
世の中に知られて、いいことになるとは思えないけれど。
主人はそれもわかっているのかしら」


晴恵の問いかけに、南雲は答えを詰まらせ、困惑の表情を浮かべた。

晴恵は、後部座席の背もたれに体を預け、まっすぐに前を見る。


「いいわよ、もう何も聞かないから。どうぞ出発して」

「はい……」


黒塗りの車が出発し、排気ガスの匂いが少し残った場所に、

数秒後、取引先から戻った昴が姿を見せた。

時刻は午後2時をまわり、綾音と裕が来るまで、あと数時間になる。

昴は携帯をポケットにしまうと、足早に営業部へ戻った。





悠菜は仕事を終え、スーパーで買い物を済ませると、部屋へ戻った。

以前、昴に書いてもらった付箋のメモを手にとってみる。

部屋にかかった時計を見ると、『午後7時10分前』だった。


「頑張って、畑野さんと綾音さん……」


悠菜はそうエールを送ると、ビニール袋の中から、野菜や肉を取り出した。





「おじゃまします」

「あぁ……」


綾音は、裕を連れて約束の10分前に部屋へ戻ってきた。

昴は、二人をリビングに通し、座るようにと言う。


「お兄ちゃん、勝手なことをしてごめんなさい」


綾音はそう言うと、立ったままで深々と頭を下げた。

裕もそれに合わせるように、頭を下げている。


「いいから、そこに座りなさい」


昴の言葉に、二人は顔を上げ椅子に座った。

昴はサイドボードの前に立ち、ワインの瓶を動かすと裏にあった写真を見る。

綾音の『七五三』を喜び、満面の笑みを浮かべる母の姿が、そこにあった。


「綾音がピアニストになることを、一番願っているのは母さんだ。
それはお前もわかっているだろう」


自分もピアノを愛し、子供たちに聴かせることを楽しみにしていた母の、

本当の願い、昴はそれを綾音に語った。

綾音も裕も、黙ったまま聞き続ける。


「親もなく、後ろ盾もいないものが、しっかりと生きていくには、
実力を磨くしかない。『立原音楽大学』へ行くと決めたとき、
綾音自身がピアニストになりたいと、願っていたはずだ」


昴の真剣な言葉に、綾音もその通りだと返事をした。

昴は『だったら……』なぜこうなるのかと、悔しさをにじませる。


「幼い頃は、それが当たり前なのだと思ってきた。
ピアニストって言葉しか、ピアノに関わる仕事がないと信じていたから。
でも、学ぶうちに、色々な方法があることも知って、自分を見つめる時間も得て、
それで考えた結論なの。勘違いをしないで欲しい。
私はピアノが好きだから、一生ピアノと一緒に生きていきたいと思う。
その方法がピアニストしかないという、お兄ちゃんの決断に反発した。
教師でも、それがたとえ趣味として終わってもいい。
決してピアニストになることだけが、素晴らしいとは思えない」

「ピアノから逃げ出せる場所を見つけたから、お前はそう言い訳をしているんだ」

「違う」


裕とのことをいい訳だと言い切る昴に、綾音はすぐに反論した。

その強さと真剣さに、昴の言葉が止まってしまう。


「裕さんとの交際が、マイナスだなんて絶対にない」

「綾音……」

「それを私が証明してみせる」





昴と綾音が直接対決をした日から3日後、

綾音は悠菜と待ち合わせをし、食事をすることになった。


「宣言? 綾音さんが?」

「12月に行われる『クリアコンクール』の学校代表になってみせるって、
そう宣言した」

「うわぁ……」


綾音は、主任教授の望月から、レッスンを休みように言われたにも関わらず、

自らの力で代表を勝ち取って見せると、昴に宣言した。

綾音の思い切った行動に、悠菜は驚くばかりで言葉が出なくなる。


「無謀だと思っているんでしょ、悠菜さん」

「ううん……それが無謀かどうかより、綾音さんが強くなったことが驚きで……」


昴とケンカをし、自分のアパートへ逃げてきたときよりも、

綾音はさらに強くなっていると、悠菜は笑顔を見せる。


「崎本さんが、悪く言われるのは嫌なの。
私のピアノを評価してくれて、私のわがままをしっかりと怒ってくれた。
私ね、毎日ピアノを関わり合いながら、自信が持てずにいた。
時々、何をしたくてここにいるのか、ピアノを弾いているのか、わからなくて」

「わからない?」

「そう……兄だけに負担させて、生活も環境も違うような人たちと、
ここでピアノを習っている意味がわからなくて……。そんなときだった、
崎本さんの言葉に救われたの。『君のピアノには愛がある』って」

「愛?」

「そう……その言葉に、心がスーッと軽くなって。
また、新しい気持ちでピアノに向かえた。
だから、あの人がいるから、私が悪くなっているなんて、絶対に言われたくない」

「うん……」

「この間も、僕は綾音さんの夢を応援したいって、そう言ってくれた。
でも、二度とこんなふうに福岡へ逃げてくることは許さないってことも」

「うん……」

「ただ、甘やかしてなんてくれないの。彼もピアノが大好きな人だから。
真剣に向き合わないと、見抜かれてしまう」


悠菜は、綾音の言葉を聞きながら、それを昴がどう受け取ったのかが気になった。

自分のことよりも、妹の将来を案じている兄として、

寂しさが膨れたのではないかと、想像してしまう。


「私、兄が真剣に怒ってくれることも、
崎本さんが私を認めてくれていることも、両方嬉しかったんだけど、
それよりももっと嬉しいことがあった」

「嬉しいこと? 何?」

「兄があの日、悠菜さんと一緒にいたってこと」


綾音はそういうと、あの昴が、助けを悠菜に求めたことが何よりも嬉しいと、

さらに言葉を付け足した。悠菜は、そんなに大げさなことではないと言いながらも、

嬉しさはこらえきれずに、表情が崩れてしまう。


「仕事も出来るし、世の中のことも色々知っていて、
隙がないように見える兄ですけど、本当は不器用で、
抜けているところもたくさんあるの」

「綾音さん」

「兄には、絶対に、絶対に、幸せになって欲しいから……
だから、これからもよろしくね、悠菜さん」


綾音はそういうと、悠菜に向かってしっかりと頭を下げた。

悠菜は、そんなことをされたら困ると、慌てて顔を上げさせようとする。


「もう少し、悠菜さんの方から、積極的に出てあげて。
今の兄なら、絶対に断らないはず」

「……いや、でも……」

「大丈夫、私が後ろからガンガン押すから!」

「……もう! 勝手なことばかり言うんだから!」


綾音と悠菜の食事は、互いの話を織り交ぜながら、笑いの耐えないものとなった。





その頃、昴はまだ『salon』の中にいた。

明日納品予定の商品が到着せず、そのトラブルが回避されるまで、

電話の前を離れられない時間が続く。

携帯にメールが届く音がして、相手を確認すると綾音だった。

また、何か起きたのかと慌てて開いてみると、

『いい女が二人』というタイトルがついていて、

悠菜と二人で撮った写真が貼り付けてあった。



『お兄ちゃん、いい女は早く抑えないと逃げちゃうよ』



綾音からの一言を読んだあと、昴は二人の顔を見た。

綾音は本当に嬉しそうな顔で写真を撮っていて、

悠菜もそれを受けるような表情で笑っている。


「何をしているんだ、二人で……」


昴はそのメールを閉じると、一度大きく背伸びした。





悠菜は綾音と別れ、駅からアパートへの道を歩いた。

『もう少し積極的に……』と言われたことを思い出しながら、隣を歩く女性を見る。

高級なブランドもののバッグを手にし、折れそうなくらい高いヒールを履いていて、

ブロンド色の長い髪は、女性らしくクルリと巻いていた。


ランチの時、同僚が話したように、昴には別の女性がいるかもしれない。

自分のような容姿を持つ女性ではなく、隣を歩くような人かもしれない。


たとえ、誰も隣にいない状況だとしても、自分を認めてくれるかどうかはわからない。

赤だった信号が青に変わったとき、悠菜は隣の女性よりも少し早く前に出て、

その距離を広げていった。





通勤電車に揺られ、地下鉄からの階段を昇る。

『salon』へ向かう波があり、悠菜もそこに入り込んだ。

今日は、以前から目をつけている店舗へ、思い切って営業に向かってみよう。

そう心に決めながら、営業部を目指した。


「おはよう、住友さん」

「おはようございます」


同僚に声をかけられ、バッグをデスクに置き、引き出しを開ける。

部長の橋場はすでに席にいたため、そのまま前へ出た。


「橋場部長、今日はこれから『トランプ』に向かおうと思います」

「『トランプ』……あぁ、あの……」

「はい、絶対に落としてきます」

「……はい」


橋場にそう宣言し、悠菜はもう一度バッグを肩にかけると、

ホワイトボードに『トランプ』と書き込んだ。

営業部へ入ってくる人の流れと逆に向かって、しっかりと歩き出す。

その中に、昴の姿を見つけた。


「おはようございます」

「おはよう……」


悠菜はそのまま頭を下げ、通り過ぎようとしたが、

昴から『住友さん』と呼び止められ、歩みを止める。


「はい……」

「先日はありがとう……それから……昨日も」

「……昨日?」

「綾音が、あなたを信頼してるのだと、写メでよくわかりました」

「写メ? エ! 昨日のあの写真を送ったんですか? 綾音さん」

「はい、二人とも笑ってましたよ」

「いえ……あ……あはは……」


まさか綾音がそんなことをしたとは思わず、

悠菜は恥ずかしさを隠すのに精一杯になった。

それでも、昴の表情が優しく、言葉が自然と続く。


「畑野さん、私、今から『トランプ』へ向かいます。
今日だけで全てが決まるとは思えませんが、また、質問には答えていただけますか?」


質問には答えると、以前言ったことを思い出し、悠菜はあえてそう問いかけた。

昴は優しい表情を崩すことなく、わかりましたと返事をする。


「本当ですか?」

「はい……」


悠菜は『ありがとうございます』と頭を下げると、

昴に笑顔を残し、『salon』を出て行った。

別の営業部員から挨拶をされ、それに返礼する。

そのまま営業部に入ると、すぐに橋場から声がかかった。


「おはよう、畑野君。ちょっとみて欲しいものがあるんだ、いいかな」

「はい……」


橋場は営業部の取引一覧を取り出し、今、悠菜が『トランプ』へ向かったことを告げた。

昴は、そこで会いましたと返事をする。


「そうか、住友さんがうまく交渉してくれたら、それにこしたことはないのだが、
まぁ、相手もそう簡単に折れてくるとは思えないからね。
戻ってきたら、状況を少し聞いてみてくれないか。
君が後ろからフォローしてくれたら、なんとかなるかもしれない」

「はい……」

「それと、正式に『部長代理』のポストを作ってもらえるよう、上へ願いを出した。
君の実績なら間違いないだろう」

「部長……」

「君には、期待しているんだ私自身」


昴は『ありがとうございます』と頭を下げるが、

豊川一族が栄えている限り、出世は無理だろうと思ってしまう。


「うかない顔をしているのは、前部長のことだろう」

「……はい」

「まぁ、本当の意味でトップに立つことは難しいだろうが、
君がある程度の出世をすることに、反論をする上司はいないよ。
たとえ彼が文句を言ったとしても、それをまともに受けるほど、組織はバカじゃない。
安心して待ちなさい」

「……はい」


昴は、橋場にもう一度頭を下げると、そのまま席へ向かう。

携帯電話が揺れ、相手を確認すると利佳子からだった。



『今日から、広太郎は1週間北海道なの、時間を作ってね』



昴を見つけた笠間に声をかけられたため、昴はそのまま携帯を閉じた。





「畑野です、望月教授はいらっしゃいますか」


綾音は、昴と交わした約束のため、望月の部屋を訪ねた。

出張から戻った望月は、機嫌がよかったからか、綾音の謝罪を受け入れる。


「わかったのなら、これ以上は言わない」

「ありがとうございます」

「レッスンに出なさい、予選会はもうすぐだ」

「はい……」


綾音はしっかりと頭を下げ、望月の部屋の扉を閉めた。

ドアノブから手を離し、周りに誰もいないことを確認すると思い切り舌を出す。


「さて、頑張ろう」


課題曲の楽譜をしっかりと握り締め、綾音はレッスン室へ足早に向かった。





昴は次の日、仕事の途中で、利佳子と待ち合わせをするホテルへ向かった。

いつものようにロビーを通り過ぎ、『宿泊者専用』のエレベーターの方へ歩く。

人ごみの中から、『畑野さん……』と声が聴こえてきた気がして、

思わず立ち止まり目を動かした。

スーツ姿の男性、どこかで集まりでもあったのか、着物姿の女性がいる。

あたりを見回してみるが、昴を見る人は誰もいない。

空耳だと信じもう一歩前に出たとき、悠菜が以前降りてきた階段を、

足早に駆け下りるヒールの音がした。

昴は顔を動かしたが、その女性はそのまま通りすぎる。


悠菜は昨日『トランプ』から戻り、何やら書類を作り、今日は別の店へ向かっている。

ここに姿を見せるはずがないのに、昴の足は、動かなくなった。


取引の人間と待ち合わせるサラリーマンは、時計を睨みながら前かがみに歩き、

給料をもらうため、仕事を円滑に進めるため、汗を流している。


ほんの数時間前まで、昴も同じような思いで時を過ごしていた。

目の前で『宿泊客専用』のエレベーターが開き、昴を誘う。

昴は重たい足を懸命に持ち上げ、中へ入った。

エレベーターは店舗フロアを通り過ぎ、一気に宿泊フロアへ向かう。

もう何度も同じことを経験したはずなのに、何かを置き忘れてきたような、

そんな思いが昴の脳裏を駆け巡った。

それでも扉が開き、他の客に前へ押し出されると、目の前の現実が迫ってくる。

あくまでも『契約』の実行だと割り切り、いつもの部屋をノックした。





『Flow』
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コメント

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晴恵の存在が嫌だな~、なんだか爆弾を抱えてるような気になるわーー;

綾音は強くなったね、昴に自分の意見を真っ向から言ってる^^

昴に何か変化が起こってきましたね^m^
これからがまた楽しみになりました^^

yokanさん、こんばんは

>綾音は強くなったね、
 昴に自分の意見を真っ向から言ってる^^


はい。裕との出会いが、綾音を強くしました。
昴も驚くくらいです。

これからも楽しくお付き合いください。