24 Approach 【接近】

24 Approach 【接近】



外ではまだ、太陽が明るく街を照らす時間、

昴と利佳子のいる部屋は、その眩しさとは一線を引いている。

厚いカーテンは外気を遮断し、欲望にまみれる二人の吐息だけを部屋に落とす。

利佳子は両手で昴の頬を挟みながら、その細い指に力を入れる。

自分にまとまりつく熱を逃がしたくないのか、『さらに深く』と腰をあげた。

利佳子のアンクレットが揺れ、つま先はシーツを離れる。

昴は、押し寄せる波を受け止め続け、悦びに顔を逸らす利佳子を見ながら、

その両手をつかみ腕を上げた。

昴の頬にあった利佳子の両腕は、強い力に押さえ込まれる。

利佳子は嬉しそうに目を閉じ、昴はさらに深く沈んだ。

言葉もなく唇を重ねる時間は、二人を限界まで結びつける。

太陽が街を照らす時間、闇は密かな時間を守っていた。



昴は、利佳子の呼吸を聞きながら、携帯で時間を確認する。

時刻はあと30分で17時となるところだった。

昴はこのままホテルを出て、取引先から直帰するとウソを言っても、

橋場は首を振らないだろうと考える。

利佳子は昴の持った携帯を取り上げ、枕の下に隠そうとした。


「何をするんだ」

「まだ時間はあるはずなのに、
帰ることばかり考える、デリカシーのない男に対する抗議」


利佳子はそう言うと楽しそうに笑い、昴の胸の上に自分のアゴをそっと乗せた。

昴は利佳子の前髪に触れ、軽く汗ばむおでこを指で弾く。


「痛い」


昴の携帯が揺れ、相手を見ると、

以前、悠菜と訪れた『HONEY』のオーナー佐藤からだった。

切り捨ててきたはずの時間が、昴の脳裏に蘇り、

先日、このホテルで偶然会った悠菜の顔が浮かんでくる。


「変えられないかな……」

「変える? 何を?」

「会う場所を、変えられないかな」


昴は天井を見上げながら、そうつぶやいた。

利佳子は不思議そうに首を傾げた後、

何かを思いついたのか、昴の顔を自分の方へ向ける。


「どうしたの、急にそんなこと言って。誰かに会ったの? ねぇ、昔の彼女とか?」

「いや……」


昴は利佳子の手を払い体を起こすと、別に気にしないでくれと言い直した。

タオルを腰に巻き付け、シャワーを浴びようと立ち上がる。


「いいわよ、昴が別の場所がいいって言うのなら、変えたって」

「いいよ、ごめん」


昴は利佳子の声から逃げるようにシャワールームへ入り、

そのまま蛇口を捻った。

始めは水だった流れが、だんだんとお湯に変わり、湯気が全体に広がり出す。

お湯が足にかかり赤みを増していく中、昴は浴槽の端に座ったままだった。





利佳子と別れ、エレベーターを降りると、小さな人だかりが出来ていた。

その一番後ろに立ち、人の隙間から様子を伺うと、

一人の女性が数人の男性を引き連れ、店舗フロアに続く階段を昇るところだった。

かわいらしい黄色の飾りをあしらった帽子を深くかぶり、

スーツに身を包んだ女性は、書類を持った男性に何やら説明を受けている。

昴の存在に気づくことなく前へ進むその横顔は、どこか冷たく見えた。

『渡瀬晴恵』との久し振りの再会は、たった数秒で、

昴はすぐに目をそらすと、そのままホテルを後にした。





「よし、これでいいかな」


その日の夜、悠菜は『トランプ』との交渉で提示した条件をまとめ、

書類を作ろうと『salon』に残っていた。

他にも数名残業をしている社員はいたが、昴は直帰するという連絡が入り、

戻ってこなくなる。

今日、食事でもしながら、自分の提案を評価して欲しいと頼む予定は、

見事に外れてしまったが、楽しみが明日に伸びただけだと思うようにしようと、

卓上カレンダーを見た。

コップを流しで洗い、棚に片付けると、ハンカチで手を拭き営業部に戻る。


「お先に失礼します」

「あぁ、お疲れ」


先に帰ると挨拶した後、エレベーターの方へ向かうと、ちょうど扉が開くところだった。

すみませんと声を出し乗り込むと、上から降りてきた豊川と目があってしまう。


「あ……お久しぶりです」


豊川は、悠菜の挨拶に一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐにそれを含みのある笑みに変えた。

何かを言いたそうな表情に、悠菜はわざと前を向く。


「営業成績、伸びているそうだね、住友さん」

「いえ、まだまだです」

「そんなに謙遜しなくてもいいよ。そういった情報は流れてくるものだ」


エレベーターは悠菜の気持ちとはうらはらに、ご丁寧に各階へ止まる。

なかなか来ないことにしびれを切らしてしまったのか、誰もいないフロアで、

扉だけが動き続けた。


「畑野が手取り足取り、教えたかいがあったというものか」


悠菜は『その通りだ』と言おうとして、言葉を止める。

余計なセリフを吐けば、そこからまた聞きたくない声を聞くことになるかもしれない。


「いや、手や足だけじゃないかもしれないな、
あの男なら、君に他のことも要求したんじゃないのか? 密室で肌でも合わせながら……」

「あの……」


あまりにもデリカシーのない言葉に、悠菜は文句を言おうと豊川の方を向く。

エレベーターはそのタイミングを計ったように止まり、

扉が大きく開いた。


「まぁまぁ、そんな顔しなくたっていいじゃないか。冗談だよ、冗談。
ムキになる方が、怪しいってものだ……」


豊川はそう言うと、悠菜の肩にポンと触れ、先にエレベーターを出て行った。

悠菜は豊川に触れられた場所を反対側の手で払い、

横から抜き去ろうとする。


「人生……いろいろだね」


悠菜は豊川の言葉を無視したまま、『salon』の正面玄関から退社した。





昴が部屋へ戻ると、綾音はすでに大学から戻り、ピアノの前にいた。

課題曲だと言っていた『ベートーヴェン ワルトシュタイン』を、

何度も何度も繰り返す。

綾音が代表になると宣言した『クリアコンクール』は、歴史のあるコンクールで、

今、華やかに活動している演奏家達が、ほとんど出場していた。

『立原音楽大学』のピアノ科で、期待されている存在だとはいえ、

厳しさは相当なものだ。

そこで入賞することで、さらなる国際大会への道筋が見えてくると、

毎年、このコンクールに目標を定める学生もいる。

鍵盤を叩き、楽譜に向ける目の真剣さに、昴は黙ったままその演奏を聴き続けた。


「ごめんなさい、すっかり遅くなって」

「いや……」

「明日からは、大学で弾き込んでくるから」

「気にしなくていい、お前のやりやすいようにしなさい」

「……はい」


綾音は食事の支度を整えると、昴と向かい合うように座った。

箸を手に持つと、両手を合わせる。


「望月教授のところへ、謝りに行ったけれど、でも本当は間違ったとは思っていないの」


綾音は、先日、マスコミとのトラブルで演奏会をキャンセルしたピアニストの態度を、

あらためて責めた。昴はそれに対して言葉を挟むことなく聞き続ける。


「それでも謝罪をしたのは、舞台に立てなくなると困るから、ただそれだけ」


綾音は、正しくないことはわかっているけれど、『自分のため』に謝ったと、

そう宣言する。


「望月教授は何か言ったのか」

「わからない。レッスンには出させてもらっているけれど、
どう思っているかまでは見えないし」


綾音はそれでも構わないと言い切り、唐揚げを口に入れた。

昴は、強気なことを言う妹の顔を、じっと見てしまう。


「どう思われてもいい。結果は私の努力に着いてくると思っているから」

「努力?」

「そう……私、お兄ちゃんに崎本さんとのことを反対されたくないこともあるけれど、
この『クリアコンクール』に出場する権利を得て、
お兄ちゃんのしてきてくれたことを、証明したいと思っているから」

「証明? どういう意味だ」

「境遇が恵まれていなくても、ピアノを弾き続けることは出来るし、
奏でる音を認めてもらうことも出来るってこと……」


綾音の視線は昴を通りすぎ、ワインの瓶を置いたあの写真に向かう。


「必ず……勝ってみせるから」


昴は、綾音の視線を追い、幼い兄妹と笑って写真に収まる母の顔を見る。

突然のシャッターに、着物姿で驚き顔の綾音は、10年と少しの時を越え、

昴の想像以上に、たくましく成長した。





悠菜は夕食の片付けを終え、作り終えた書類を見直した。

冷蔵庫から小さなカクテルの缶を取りだし、プルを開ける。


「明日、明日……」


『ブランカ』で買った宝石箱の中に入れた指輪を取り出し、薬指につける。

父が母に贈るはずだった時を越えた指輪が、一歩前へ出ようとする自分に、

大きな力を与えてくれるような気がしてしまう。


「明日、畑野さんにお願いしてみるから……見守ってお母さん」


悠菜はそう言うと、指輪にそっとキスをして、包むように両手を組んだ。





朝まで振り続いた雨の影響で、いつも混雑する電車は遅れが目立ち、

さらに不快な状況を作り上げた。知らない相手に体をぴったりつけられても、

文句を言うことも出来ず、ただ目的地まで黙って揺れ続ける。

扉が開くといち早く解放されることを望むサラリーマンが、一気にホームを埋め尽くし、

悠菜は手に抱えた資料を落とさないように気をつけながら、

『salon』への道を急いだ。

営業部へ入ると、すぐに今日の予定をチェックする。

昴の場所には、特に書き込みはなく、まずはほっとした。

同僚に挨拶し、デスクにバッグを置くと、資料をしっかり引き出しに押し込んだ。


悠菜が昴に声をかけたのは、昼のチャイムが鳴る少し前だった。

昴は資料を広げると、悠菜に状況の説明をしてほしいと言う。


「思っていたよりも、シビアな条件でした。
店舗の広さも客層も、それなりに計算して提案したつもりでしたが……」

「うん……」


『トランプ』へは、昴も何度か向かったことがあった。

関東に数店舗を展開し、売り上げ実績もしっかりしていた。

しかし、悠菜の分析に間違いがあるようにも思えず、なぜ許可が下りないのかと考える。


「早い方がいいな、これ」

「はい、『salon』以外にも、営業をかけているところはあるようです」

「だろうな……」


昴は午後の仕事が終わった後、悠菜にあらためて話を聞かせて欲しいと言った。

悠菜はわかりましたと答え、その場を離れていく。

自分の場所へ戻り、PCの下で両手を軽く握り、ガッツポーズのようなことをする。


「どうしたの?」

「いえ……」


昴が、自分のために時間をとってくれたという事実だけで、

悠菜の気持ちは華やぎ、いつもなら面倒だと思う伝票処理も、何も苦にならなかった。





社員がいなくなった営業部に、昴と悠菜が残り、

『トランプ』への対策を練り始めた。誰が仕入れの担当者で、どんな傾向を示し、

何を目的としているのか、互いの意見が交差する。

失敗のない方法ということで、昴がどう進めるべきかアドバイスをした。

悠菜は納得したように頷いていたが、その表情はどこか浮かなく見える。

昴は、その裏にある悠菜の思いに気付き、意見を止めた。


「住友さん」

「はい……」

「一つだけ聞いてもいいかな」

「はい」

「この話を、本当にここでする必要があった?」


悠菜は、自分の説明が足りなかったのかと資料を慌ててめくり出す。

昴はそういうことではないと、悠菜の手を止めた。

昴にとってはなんでもないことだったが、思わず手が触れたことに、

悠菜の鼓動は、そこから一気に速まってしまう。


「あの……」

「『私はこう思っています』って言葉が、君の表情になって出ているから」


昴は、悠菜は頭の中でしっかりと計算し、

実は、アプローチの方法も決めてあるのではないかと、そう尋ねた。

悠菜は『そうではない』と言い返すが、その言葉は歯切れも悪く、

語尾が小さくなってしまう。


「怒っているわけではないんだ。もし、住友さんが気をつかっているのなら、
その必要はないと言いたかっただけで」


元々、『トランプ』は昴が仕掛けた店だった。

しかし、一度条件面が合わずに契約が終了し、それから1年の月日が経過した。

その間に経営者が変わったが、売り上げの実績は以前と同じで、

そこに悠菜が目をつけた。


「私が以前関わりを持っていたから、話を聞かなければと思っているのなら、
そんな遠慮は必要ないことだ。
橋場部長から、『GO』サインをもらったのは住友さんなのだから、自信を持って……」

「いえ、そんな意味ではなくて……」

「それならば、どうして。話を聞けば聞くほど、住友さんの気持ちが伝わって来るのに」

「あ……その……」


悠菜は、これを口実に話がしたかったとは言えず、言葉が続かなくなった。

仕事を一緒にしていたときのような時間を、また持ちたかったのだという気持ちは、

言葉に出来ず沈みかける。


「……楽しくて」


黙っているつもりだった悠菜の口は、ポロリと言葉を出してしまった。

しかも『楽しい』という、あまりにも幼稚なセリフに、思い切り顔を赤くする。


「楽しい?」

「いえ、すみません、失礼な言い方ですが、ただ……それ以上、どう言ったらいいのか」


悠菜は、昴と仕事の話をすることが、楽しくて仕方がないとさらに付け足した。

新しい発見や、課題を見つけられることに、気持ちがわくわくするのだと訴える。


「もっと頑張ろう、明日はさらに上へ行こうって、いつもそう思えるんです。
自分の足りないところが、畑野さんと話すと、見えてくるというか……」


昴は『楽しい』と言った悠菜の顔を見た後、思わず口元をゆるめた。

仕事が楽しいなどと感じたことは、この数年間にあっただろうかと考える。


「『楽しい』……ですか」

「すみません、失礼ですよね」

「いえ、そんなことはないですよ」


悠菜は、綾音の言葉に乗ってしまった自分に反省し、

慌てて広げた書類を片付けようとした。

昴は、その1枚を素早く取り、書かれている表に付箋をつける。


「この分析だけ、もう少し見直してみたらどうかな。
『トランプ』は30代女性をメインターゲットにしているけれど、
配色は無難なものを好むから」


昴は胸ポケットからペンを取り出し、2つの商品に丸をつけた。

悠菜はその丸をじっと見る。


「こんな課題を出すと、住友さんの『楽しみ』は、また膨らみますか?」


悠菜は、昴が自分の言葉に不快な思いをしなかったのだとわかり、

残りの書類を両手で握り締め、『はい』と返事をした。





悠菜と別れた昴は、そのまま部屋へ戻り、

誰もいないリビングに灯りをつけた。

綾音はまだ、大学に残り、『有言実行』のためピアノの前にいるのだろうと考える。

浴槽にお湯を入れ始め、ネクタイを外し、スーツを着替える。

部屋へ入り、取ってきたクリーニングのワイシャツを全て棚に入れると、

デスクに積み重ねてある『salon』のリストを手に取った。

リビングへ戻り、リモコンでテレビをつける。

昴はリストの中にある商品に、いくつか付箋をつけた。



『……楽しくて』



「楽しい……か……」


悠菜の言葉を思い返した昴は、椅子の背もたれに寄りかかりながら、

リストをめくり続けた。





次の日、いつもより早めに起きて慌てている綾音のそばで、

昴はリストをバッグに押し込んだ。


「何を慌てているんだ」

「30分早く出ようと思っていたの。レッスン室が開く時間にあわせて」

「間に合わないのか……」

「大丈夫、あとは任せていい?」

「あぁ……」


綾音は両手を合わせて『ごめんなさい』のポーズを取ると、

すぐに玄関へ向かった。そのまま出て行くのかと思えば、またリビングへ戻る。


「いけない……」


綾音は、テーブルに置いた裕からのネックレスをつかみ、

もう一度玄関へ向かった。

昴は、綾音の姿を見ながら、ワイシャツの袖を軽くめくり、

流しの中にある食器を洗い出した。





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コメント

非公開コメント

楽しくて

「楽しくて」っていいですよね
仕事をしていて、「楽しくて・・・」
私もそう思うときが欲しいわーー;

綾音、頑張ってますね^^
あの頑張りを見てると、昴も何も言えないですよ

私もです

yokanさん、こんばんは

>仕事をしていて、「楽しくて・・・」
 私もそう思うときが欲しいわーー;

はい、私も欲しいです。
悠菜にしてみたら、昴へのちょっとした告白でもありましたが、
昴にはそう届いていないようです。

綾音も頑張っていますよ。
さらに話は動きますので、これからもよろしくお願いします。