28 Decision 【決断】

28 Decision 【決断】



声楽、管弦楽器など、発表の順番はそれぞれ分野ごとになる。

裕は駅に到着すると、時計で時間を確認し、会場まで走った。

朝一番の飛行機に乗り東京へ来るつもりが、人身事故のため到着が遅れ、

予想以上に時間がかかってしまう。

幸い『ピアノ』の7名は後半の演奏順番なので、間に合うはずだと、

さらに速度をあげた。


「はぁ……」


分野ごとに休憩時間が入り、悠菜は学生たちの迫力に、大きく息を吐く。

隣の席がまだ埋まらないのは、裕が遅れているのだろうと思い、落ち着かなくなった。


「あと、綾音さんまでどれくらいですか」

「綾音まで5名です。バイオリンが3名いて、綾音はピアノの2番目なので」

「5人……」


悠菜は両手を合わせ、どうか裕が間に合うようにと願いながら、

観客が出入りする場所を何度も確認する。

すると扉が開き、一人の若い男性が姿を見せた。

悠菜には、その男性がチケットを持ち番号を確認しているように見え、思わず席を立つ。


「畑野さん、畑野さん……あの人、崎本さんですか?」

「ん?」


悠菜が立ち上がったことで、裕の視線が動き、隣にいる昴を捕らえることが出来た。

裕はすぐに頭を下げる。


「そうですね」

「あぁ……よかった。こっちです、ここへ……」


裕も、悠菜が立ち上がった意味を掴んだようで、そのまま席へ向かう。

先に座っていた客に頭を下げながら奥へ入り、

立ったままで、昴に対して『遅れてすみません』と頭を下げる。


「いや、綾音の演奏はまだだから」

「はい……」


裕は、昴への挨拶を終え、隣にいた悠菜にも頭を下げた。

悠菜は間に合ってよかったと、ほっとする。


「もしかしたら、悠菜さん……ですか」

「はい……」

「始めまして、崎本です。綾音さんからいつも、お話を聞いています。
自分にとってはお姉さんのような人だって」


悠菜は、裕から自分の名前が出たことが恥ずかしくなり、

自分の方が幼くて、お姉さんだなんてとんでもないと返事をした。

裕は悠菜の明るい笑顔に、緊張した気持ちをほぐしていく。


「ありがとうございます。立ち上がってくださったので、すぐにわかりました」

「いえいえ……」


演奏再会の時間が迫っているのか、席を立っていた客たちが戻りだす。

裕は、あらためて間に合ったことに安心したのか、軽く息を吐いた。

悠菜は、裕の仕草がほほえましく、つい口元をゆるめてしまう。


「崎本さんは、私の思っていた通りの方でした」


悠菜の言葉に、裕はどんなイメージを持っていたのかと問いかけた。

悠菜は、横に座る裕の顔を見た後、小さく頷いてみる。


「とっても優しい方だろうと、思っていたので」


裕は、それならばよかったと笑顔を見せた。

昴は話しに入ることなく黙ったまま舞台を見つめる。

悠菜が、さらに裕へ問いかけようとしたとき、演奏再開のブザーが鳴り響いた。





それから15分後、『畑野綾音』の名前がコールされ、拍手の中を綾音が登場する。

昴、悠菜、裕がそれぞれ綾音に視線を向け、緊張の一瞬を迎えた。

綾音はゆっくりと頭を下げ、顔をあげる。

悠菜には、綾音がしっかりと一点をとらえたように見えた。

悠菜は、両手をしっかりと握り締め、無事に演奏が終了するようにと、

必死に願った。


拍手の後に訪れた静寂の中、綾音は両手を鍵盤の上にそっと置く。

息を吸い込み軽く吐き出した後、その両手は軽やかに動き始めた。



『ママね……ピアニストになりたかったの』



昴の目の前で、母と自分の思いを乗せた綾音は、見事な演奏を続けている。

会場の誰もがその演奏を耳にとらえ、そして心を奪われた。

綾音は、自分の実力でここまでのぼり詰め、ライトを一身に受けている。



『ピアニストになんてなりたくない……』



綾音の演奏を聞きながら、昴の脳裏には、綾音の声が蘇った。

ピアニストにならないのは、逃げているわけではなく、

自分の人生を、自分で歩み始めたからだと、

テンポの変わった曲の中で、妹は自ら表現する。


苦労して生きてきた母のため、どんなことをしても、自分が綾音を育て、

世の中に出て行く人間にしてみせると誓った日から、

昴は全てをその思いにあわせて生きてきた。

自分がいなければ、綾音はどうすることも出来ないのだと、固く信じてきた。

しかし……



昴が横を向くと、自分と同じように綾音を見つめる二人の目が見える。

一人は姉のように優しく、そしてもう一人は男として、強く綾音を包んでいる。

綾音を支えるのは、自分だけではないという現実に、

昴は、心の中が空になる気がしてしまう。



『そろそろいいはずよ』



昴の脳裏に康江の言葉が浮かび上がったとき、綾音の演奏が終了し、

会場内はより大きな拍手の渦に包まれた。

裕も悠菜も力いっぱいの拍手を送り、舞台上の綾音も、演奏に満足したのか、

緊張から解放された笑顔を見せている。

自らの道を必死に開けようとしている妹に対し、昴は少し遅れて拍手を送った。





全ての演奏者の舞台が終了し、残すのは各受賞者の発表のみとなった。

会場の混雑から早く抜け出したいと願う一般客が、少し退場したものの、

これだけの中から、誰が頂点に立つのかと注目するものも多く、

会場内は熱気を残したまま、その時間を待ち続ける。


「それなら、崎本さんも弾けるのですね、ピアノ」

「いえ、多少という程度です。両手がとりあえず動くといった方が正しいような」

「そうですか? また謙遜しているでしょう。
調律師の方は、結構弾けないとダメなんだって、どこからか聞いた覚えがありますよ」


悠菜は隣にいる裕に、調律師としての仕事の大変さや、

ピアノという楽器の繊細さを尋ねた。裕はわかりやすく説明を加えていく。

悠菜は、綾音が裕に惹かれた部分がわかるような気がして、

ますます二人を応援したくなる。


「崎本君」

「はい……」


それまで話しに入ることのなかった昴の声に、裕は少し緊張ぎみの返事をした。

悠菜は、何かキツイことを言い出すかと、心配になる。


「『小麦園』にピアノをありがとう。
園長先生も子供たちも、大変よろこんでいたみたいで。もちろん……綾音もだけれど」


昴は、事情を知らない悠菜に、裕が知り合いに頼み、

処分される前のピアノを『小麦園』へ譲ってくれたことを話す。

悠菜は、それは素晴らしいことだと、一緒に礼をした。


「いえ……偶然にそういう話があったので、僕は間に入っただけです。
喜んでもらえたのなら、それで……」


昴が、自分の行動を認めた発言に、少し緊張気味だった裕の表情が、

また優しいものに変わる。

審査のために席を離れていた教授や講師が席に戻り始め、

『その時』が近付いたのだと、会場内がにわかに騒がしくなった。


「福岡には、すぐに戻るのですか?」

「……はい、今日は日帰りです。明日早くから仕事が数件入っているので」

「そうですか」


昴は椅子に深く沈んでいた背中を起こし、裕の方を向く。


「もう一度だけ……」


会場に発表者が登場し、明るかった照明がだんだんと消えていく。

騒がしかった場所は、一瞬で緊張感に包まれた。


「あの……今、何か」


裕は、昴の言葉が途中で止まったことを気にしたが、

昴はその続きを話すことなく、前を向いてしまう。

今回の演奏会が、とても素晴らしく、審査にも大変苦労したと挨拶が入り、

続けて銅賞2名の発表があり、それぞれが舞台上に姿を見せた。

一人は大阪の芸術大学を春に卒業し、院生として学んでいる男性で、

もう一人は綾音と同じ『立原音楽大学』でフルートを学ぶ4年生だった。


「次に、銀賞の発表なのですが、実は本年度、銅賞をもう一人増やすことになりました」


司会者は、審査員がどうしても2名に絞りきれず、

本年度だけ3名の銅賞受賞者を決定したとアナウンスする。


「それではもう一人、銅賞受賞者です。『立原音楽大学3年 畑野綾音さん』」


名前を呼ばれたのは、綾音だった。昴と裕は声を出せないままになり、

真ん中にいた悠菜は、思わず両手で顔を覆い、指の隙間から舞台を見る。

長い歴史のある演奏会の中でも、

3年生であり、しかも初参加の学生が賞を取るのは本当に珍しく、

先に呼ばれた2名よりも、さらに大きな拍手が沸き起こった。


「綾音さん……畑野さん、綾音さんが、ピアノのトップってことですよね。
しかも銅賞ですよ」


裕は、綾音が登場し、姿が見えたことで初めて我に返ったのか、

慌てて拍手をし始めた。

昴は舞台を歩く綾音を追いながら、それでも信じられずにいる。


「畑野さん、拍手してあげてください。綾音さんに届きますから。」
だって、演奏前に、畑野さんをしっかりと見ていたじゃないですか」

「……僕もそう思いました」


裕は、拍手をしながら、綾音の目が昴に向いていたと悠菜の意見に同調する。

昴は二人に押され、そこでようやく拍手を始めた。

司会者は、銅賞の盾が2つしかないため、あとから送りますと綾音に告げた。


「おめでとう、とても素晴らしい演奏でした」

「ありがとうございます」


盾代わりに急遽用意された花束を受け取り、綾音は誇らしげな笑顔を見せる。

一度おさまった拍手は、堂々と賞を勝ち取った未来ある若者に対し、

もう一度沸き起こり、感動を上乗せしたことでさらに大きくなった。





全ての受賞者が決定し、今年の演奏会が終了した。

昴は綾音と裕を一緒に食事に行かせることにし、興奮の残るホールを出た後、

悠菜とコーヒーを飲む。


「畑野さん」

「はい」

「一つ伺ってもいいですか?」


悠菜がそう問いかけると、昴は『仕事のことですか?』と聞き返した。

悠菜は、一瞬驚くような顔をした後、違いますよと笑い出す。


「そんなに私、仕事で失敗しそうですか?」

「いや、そういう意味ではありません。
住友さんは、仕事が『楽しい』と以前言われていたので」


昴は冗談ですよと笑い、カップに口をつける。

店内は、同じような思いを持ち、演奏会の感動を語り合う客たちで埋まっていた。


「続きは、何を言うつもりだったのですか?」

「続き……」

「はい。受賞者の発表前、畑野さん、崎本さんに言いましたよね。
『もう一度だけ……』って。崎本さんも、何ですかって問いかけたのに、
その先は答えなくて」


悠菜は二人の真ん中にいたため、途中で止めた言葉の意味が気になった。

昴は何秒かの沈黙の後、口を開く。


「『もう一度』……そう、もう一度だけ綾音に対して、
ピアニストになれと言わせてくれないか……と、崎本君に言うつもりでした」


昴は、演奏会を終えた後、

綾音に、もう一度だけピアニストを目指せと話すつもりだったことを語る。

悠菜は、初めて昴から、『綾音はピアニストになる』と聞かされた時と比べ、

その表情が寂しく、辛そうに思えてしまう。

それだけ、綾音に対する思いが強いのだと、あらためて感じ取った。


「それでも、綾音さんが嫌だと言ったら……」


昴は、当然その質問が返るだろうと思っていたのか、悠菜の言葉に頷き、

それでも綾音が首を縦に振らなければ、諦めようと決めていたと話した。


「そうだったんですか」

「はい。でも、もう言いません」


昴の言葉に、悠菜はピアニストにならなくてもいいということかと尋ねてみる。

昴は黙ったまましっかりと頷いた。


「負けました、あいつの思いに」

「負け?」

「綾音は、逃げずに掴み取ったのです。全力でピアノに取り組んで、
それでピアニストではない道を、自らこじ開けた。
成し遂げた妹に、これ以上押し付けても、説得力がありません」


悠菜には、昴が『受賞』の喜びよりも、空しさを大きくしていることがわかり、

言い返す言葉がうまく見つからなくなった。


母が弱くなり、だんだんと別れが近付いてきた時の、

どうすることも出来ない哀しさを思い出す。

ご近所の人が『よくやっている』だの、

『お母さんは満足しているから』という励ましの言葉を、悠菜にかけてくれたが、

聞けば聞くほど空しく、孤独になる気がした。


「受け入れてあげればいいじゃないですか。
畑野さんから見て、それが負けだと言うのなら、負けてあげたらいいんです」


悠菜の発言に、昴は下向き加減の顔をあげた。

悠菜は、あれだけ綾音が頑張れたのだから、堂々と負けてあげるべきだと、

笑顔を見せる。


「それでも、綾音さんの目は、畑野さんを見ていましたから」

「いや……それは……」

「崎本さんも同じことを思っていました。だから間違いありません。
綾音さんは、演奏前にしっかりと畑野さんを見ていました。
畑野さんへの思いを込めて、弾き切ったのだと、そう思います。
感謝の気持ちは、決して消えるものではありません。だから、堂々と負けましょう」


悠菜はそういうと、またカップに口をつけた。

昴は、花壇の下で何やらついばむスズメ見る。

スズメは日陰の場所から日向に出てくると、大空に向かって羽ばたき始める。

しばらく見ていると、ビルの影に消えていった。

昴が視線を前に戻すと、悠菜が持ってきたバッグから、地図を取り出すところだった。

ポケット地図には付箋が貼ってある。


「ここは……『HONEY』ですよね」

「はい……」


悠菜は、『HONEY』の一つ裏通りに、

海外ブランドのアンテナショップが出来ることになり、

基礎工事が終了したのだと説明する。


「裏ですか」

「そうなんです。ここからだと数駅なので、今日はこれから様子を見に行ってきます。
平日とは違う人の流れも気になりますし、どんな作りなのかも興味がありますので。
綾音さんの頑張りを見て、私も負けていられない……と」


悠菜はそういうと地図で店の場所を示した。

昴は道路の拡張工事が来年始まり、それが終わると、

裏道の方がメインになるかもしれないと情報を、地図を指しながら付け足した。


「やはりそうなんですか。どうも、店の動きがあるなと思っていて……」

「車の通りは増えるでしょうが、駅からの動きは、そう変化しないと思いますよ」

「そうですよね……」


昴が話しに興味を示してくれたことがわかり、悠菜は広げていた地図を半分に折る。

カップに残ったコーヒーをそこで飲み干した。


「畑野さん、一緒に見に行っていただけませんか? 『HONEY』」


悠菜はそう言うと両手を組み合わせ、何やら拝むような仕草を見せた。

昴は、悠菜のそんな態度が、受賞発表を待つ学生たちのように思え、

思わず口元をゆるめる。


「その姿は、発表前……という感じですね、住友さん」

「はい、そのつもりです。合格なのか、不合格なのか……」


昴は、問いかけに返事をしないまま、伝票を掴み席を立った。

悠菜は動き始めた昴に、慌ててついていこうとする。


「畑野さん」

「合格です、住友さん。あなたの問題提起で、気持ちが動きました」

「あ……あの……」

「どんな店なのか、確かめて見たくなりました。
仕事は『楽しく』やらないとならないですからね」


昴が一緒に行ってくれるのだとわかり、悠菜は明るく『はい』と返事をする。

そこから駅までの数分間は、ライバルが出てくる『HONEY』をどう救っていくか、

その話に集中した。





『HONEY』の様子を確認した二人は、そのまま坂の上にある公園に向かった。

悠菜は、先を歩く昴に、どこに行くのかとも問いかけず、

後を黙ってついていく。


「結構キツメの坂ですね、ここ」

「そうですか? 昔は舗装されていないところもあって、
もっと登りにくかったんですよ」

「もっと? あら……」


昴は先に公園に着くと、よく母が立った場所に向かう。

後からついてきた悠菜は、懐かしいと言いながらブランコへ向かった。

昴が、右側にあるブランコは、錆び付いていて嫌な音がすると言う前に、

悠菜はその右側にあるブランコに腰を下ろす。


「私、こう見えてもブランコは得意です」


悠菜は両手で鎖を持ち、両足で後ろへ下がり、そのまま足を浮かせた。

ブランコは反動で、前へ向かう。

かすかに音が聞こえる気はしたが、この間のような不快な音はしてこない。

悠菜を乗せたブランコは何度か揺れながら、やがて振りを小さくする。


「ここは足が曲げられないからダメですね。反動をつけることが出来たら、
もっと上手に漕げるのに」


悠菜はそういうとブランコを降りた。

お客様がいなくなったからなのか、ブランコは大きな音をさせ始める。


「あら……」

「こっちは錆びているようなんです。この間も小学生が漕いだら、ギーギー音がして。
そう伝えようと思ったのですが」

「そうなんですか。小学生は軽かったから、ブランコも声が出せたんですね。
今日は私が重いから、『苦しい』という声も出せなかったのかしら」

「は?」


悠菜はそう言うと軽く頬を膨らませ、すぐに笑って見せた。

昴は、そこで初めて意味がわかり、自然と笑顔になる。


「畑野さん……」

「はい」

「綾音さんを、笑って迎えてあげてくださいね……そんなふうに……」


悠菜は昴の横に立ち、視線を前に向けた。

都会の景色の中に堂々と存在する、『立原音楽大学』がそこにある。

昴は、悠菜の言葉を受けながら、『堂々と負ければいい』と言ったセリフを思い出す。


「……そうですね」


昴は、母の思いが残る場所を、今、悠菜と見つめながら、心の答えを導き出した。





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コメント

非公開コメント

心に動きにホッと・・・

登場人物の心が変化しはじめましたね。

良い方向に向かうことを願いつつ、次回を待ってます^^

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変わってきたよ

なでしこちゃん、こんばんは

>登場人物の心が変化しはじめましたね。

はい!
昴も、悠菜も、綾音も……それぞれの出会いの中で、
変わり始めました。
次なる『変化』は何かと思いながら、お付き合いください。

それは、こちらに

ナイショコメントさん、こんばんは

『?』の箇所は、27話の後半部分(『クリアコンクール』前の昴と悠菜の会話)にあります。

コンクールは、何部門かにわかれていて、その各部門の『最優秀者』から、賞の4名を決める……という仕組みです。

以前見た、別の賞レースから、仕組みをお借りしました。実際にこういったコンクールがあるのかどうか、わからないんですけど(笑)

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