39 Regret 【後悔】

39 Regret 【後悔】



くびれた腰に手を当てると、その手は別の場所へと移された。

背を向けたままの顔に左手で触れると、その手はまた別の場所へと泳がされる。

荒い息づかいだけが耳を支配し、揺れ続ける腰の重さが、体全体を支配する。

昴は体調が悪いのか、頭で思うような動きが取れなくなっていた。

それでもなんとか女に両手をつかせ、身勝手に行動させまいと体を押しつける。

長い髪を振り乱し、押し寄せる波の強さに溺れるような声を上げながらも、

女は終わることを許さない。

昴が、目の前の壁にかかる時計を見ると、長い針が少しずつ速度をあげ、

1周し終えた瞬間から、急に回転し始めた。

その動きに驚いていると、いつの間にかこちらを向いた女は、

昴の首を強く握りしめたまま、さらに激しく揺れ始める。



『何を見ているの……まだ時間はあるのよ』



女は、もっと自分を受け入れろと要求し、首へ向かう力を強めた。

長い髪の毛が顔を覆い隠し、その表情が確認できなくなる。



『ほら……あなたを選んだの……私を満たしなさい』



昴は声が出せないまま、必死にもがいてみるが、

女の力は強く、思い通りにはならなくなる。



『一緒に沈んでしまえばいい……』



昴は、必死に自由になる手で助けを求めようと、隣にあるはずの携帯に手を伸ばす。

何かが割れる音がした瞬間、支配されていた体は、全て自由になった。


「はぁ……はぁ……」


その地獄のような光景は、昴の見た夢だった。

そばに落ちていたのは、目覚まし時計で、横には携帯も落ちている。

扉をノックする音が聞こえ、向こうから心配そうな綾音の声が聞こえた。


「ごめん……大丈夫だ」

「大丈夫なの? 今、大きな声がしたから」


昴は、無意識のうちに声を上げていた。ベッドから体を起こし、呼吸を整える。


「悪かった。心配しなくていいから、眠りなさい」


時刻は夜の2時を過ぎていた。

悠菜にウソをつき、これ以上ないような辛い顔をさせた。

初美からの突然の告白に、自分の気持ちを再確認し、

正直な笠間の宣言に叩きのめされた体と心は、何一つ真実を語れない後悔に、

押しつぶされそうになる。

昴は部屋を出て冷蔵庫を開けると、小さな缶チューハイを取り出した。

普段なら、こんな形で酒を飲むことなどないのだが、

そうでもしなければ、また、同じような夢を見る気がしてしまう。

カーテンを開け、外を見てみるが、月は機嫌を損ねているのか、姿を見せようとはしない。

昴は、黙ったまま酒をノドに押し込み続けた。



同じ頃、悠菜も眠れない夜を迎えていた。

昴と初美が並んで歩いて行く姿が、目を閉じる度に浮かびあがり、

どうしてあの時、すぐに顔を逸らさなかったのだろうと後悔した。

昴が仕事のことについて書いてくれた付箋紙は、まだ、鏡の前に貼ってある。

悠菜はその付箋紙を取ろうと手を伸ばしたが、結局その手は下へ落ちた。

思う人が別の人を選ぼうとも、心はすぐに切り替わらない。

悠菜はどうしようもない思いを抱え込んだまま、ベッドに寄りかかり、

いつの間にか眠っていた。





「うわぁ! って言ったのよ」


次の日、綾音は朝食の支度をしながら、昨晩昴がそう叫んだと話した。

昴は覚えていないとはぐらかす。


「何かあったの? 仕事で……ねぇ……」


綾音の問いかけに、昴は早く支度を済ませてくれと、新聞に目を向ける。

綾音は、そうやっていつも話をしようとしないと口をとがらせ、

何があったのか悠菜に聞くと、言い始めた。


「よしなさい、住友さんには関係のないことだ」

「いいじゃないの、お兄ちゃんのこと……」

「よせと言っているだろ!」


昴の強い口調に、綾音は言葉を返すことが出来なかった。

綾音とすれば、昴の話題が共通点であり、

話も盛りあがるだろうとそう思っただけだった。

昴は、表情をこわばらせた妹に『コーヒーをいれてくれ』と頼み、

また新聞に目を向ける。


「兄妹でしょ、お兄ちゃん。何かがあるのなら、それを一緒に解決したいと思っただけよ。
私はずっと、お兄ちゃんに甘えて生きてきた。
だからこそ、少しでもって……それはおかしい?」


昴は、妹の温かい思いに答えることが出来ず、黙ったままになる。


「……コーヒー、今、いれる」


綾音はそう言うと、戸棚からパックを取り出し、コーヒーをいれる準備をし始めた。





一度ずれ始めた歯車は、戻る当てのないまま月日だけが重なり、

悠菜が『salon』で過ごせる日も、残りが5日となった。


「ごめん、すぐに出られると思ったけど、別の取引先から連絡が入ってしまって」

「いえ、急がなくてもいいですよ。私はそれほど仕事を抱えていませんから」

「まぁ、そうだけれど……」


笠間は、『トランプ』の社長と将棋を通してすっかり意気投合し、

契約も順調に先へ進んでいた。悠菜は、きっかけは自分があたえたものの、

それをしっかり自分のものにしていくあたりは、

昴とは別の意味で仕事の出来る人だと、あらためて考えた。


「迷惑だったら、迷惑だって言ってよ、住友さん」

「迷惑? どうしてですか?」


笠間は、悠菜にも活動の予定があるはずなのに、

自分のスケジュールにつき合わせていることを申し訳ないと謝った。

悠菜は、『トランプ』を引き継いでもらうのだから、それくらい当たり前だと、

首を振る。


「次は何をするの?」


笠間は、『salon』を辞めてまで、新しくトライすることとは何なのかと、

さりげなく問いかけた。悠菜は、顔だけ笑ってみるものの、

具体的には答える事が出来ず、黙ってしまう。


「……本当は、そんな予定、ないとか?」

「いえ……」


笠間が薄々昴への気持ちに気付いているため、

なんとしてもごまかさなければならないと、

悠菜はある資格を取りたいのだとウソをつく。


「資格?」

「はい、どういうものかとか、
今、聞かないでくださいね。取れるかどうかもわからないですから。
いずれ、きちんと取れたら笠間さんにもご連絡します」


悠菜としては、退社さえしてしまえば、それで忘れてしまうことだろうと、

軽い気持ちで言ったことだった。笠間は、『連絡してくれる』という言葉に反応し、

必ず連絡をして欲しいと念を押す。


「……はい」


笠間は、悠菜が退社後も自分と連絡を取ることを了承してくれたと、

気分をよくして、また歩き出した。





「ごちそうさま」


昴はそう言って立ち上がると、サイドボードに入れてあったウイスキーを取り出し、

グラスに氷を入れだした。綾音は食器を片付けながら、その様子を見続ける。

ここのところの昴は、明らかにおかしかった。

夜中に大きな声を出してから、確実にお酒を飲む量が増えている。


「お兄ちゃん」


昴は、氷用の水が少なくなっていることに気付き、蛇口をひねる。

ケースを定位置に入れた後、扉を閉め、ウイスキーの蓋を開けた。

少し濃い目の水割りが完成する。


「お酒の量、少し多くない?」


お酒の量が増えてしまったために、食事の量が減っていると、綾音は指摘した。

昴は残したまま重ねられた皿を見た後、

仕事が忙しいから気持ちが落ち着かないと言い返す。


「本当?」

「本当だ、そんなこと、お前にウソをついてどうする」

「……ならいいけど」


ウイスキーの入ったグラスの中で、冷たい氷が互いにぴったりと重なった。

左手でグラスを持ち、ノドに押し込んでいく。


「心配なんてするな。大丈夫だ」


昴はそう言うと、テレビのリモコンを手に取った。





綾音にはそう言ったものの、

昴にも、自分が全てにおいてバランスを崩していることくらいわかっていた。

悠菜の気持ちを、自分から振り切ると決めたはずなのに、

退社日が着実に近付いていることが苦しくなる。

悠菜の性格からしても、『好きな人がいる』と言った自分に対し、

無神経に連絡を取ってくるとは思えず、これで本当に全てが終わるのだと思うと、

後悔の思いだけが、大きくなる。

消し去ることが出来ないからこそ、お酒を飲み、はぐらかせることしか出来ず、

今日もベッドに横になったまま、真っ暗な部屋の天井を、一人見続けた。





退社する3日前、悠菜は有給を取り、電車で『ハローワーク』へと出かけた。

笠間にあれだけ言われ、資格を取るとその場をごまかしたものの、

実際には、次に働く場所さえ確保されていない。

相談があるのですがと受付に座り、自分の経歴を書いた履歴書を見せる。


「住友悠菜さん、27……ですか」

「はい」

「ほぉ……『SOMIK』に就職したんだ。で、何? すぐに退社?」

「それは、母の看病を優先した結果です。
助からないとわかっていたので、せめて最後まで一緒にいたいと……」

「あ、そう……で……」


担当の男性は、『salon』を3月に退社するという欄を指差し、

今度の理由はと尋ねて来た。悠菜は、すぐに答えを出せずに黙ってしまう。


「優秀なんだろうけどね、こうも一流企業をすぐに入社で退社となると、
年齢からいっても、普通、企業は敬遠するよ」


女性の年齢で27ともなると、結婚を意識しているだろうと思われ、

長く勤めてはもらえないだろうと、マイナスイメージがついて回ると言われてしまう。

しかも、過去2度、大手をすぐにやめているという事実も加わり、

少し難しいのではないかと、履歴書を戻される。


「小さな会社で満足できます? 社員4名とかさ、そういうところの事務とかなら、
紹介できると思うよ。大学も出ているし、一流企業に入るだけの実力があったわけだから。
でも、今までのような仕事は……出来ないだろうな」


悠菜は履歴書を袋に入れ、わかりましたと頷いた。

頭を下げ、席を立つ。


「ねぇ、今からでも辞表撤回すればいい。『salon』はもったいないよ」


悠菜はもう一度頭を下げると、そのまま扉を開け外へ出た。

駅へ向かいながら、視線は下を向く。

ある程度難しいことは覚悟していた。『salon』でやってきたような仕事が出来るとも、

思ってはいなかった。しかし、二つの企業を退社したという事実が、

マイナスに働くとは考えていなかっただけに、足取りは重くなる。



『今からでも辞表を撤回すればいい』



事情など何も知らない担当男性の一言を思い出し、

悠菜は唇をかみ締めながら、しっかりと前を見た。





「それでは、住友さんと前川さんの未来を祝して、乾杯」


橋場部長の挨拶で、前川と悠菜の送別会が開かれた。

昴は前川の斜めに座り、悠菜とは距離が離れていた。

それでも、少し目を動かせば、昴の顔が視界に入り、悠菜はその横顔を何度も見ると、

長い間、こうして仕事をしている昴を見続けてきたことを思い出した。

取引先からの電話に、時折ふと見せてくれる笑顔を見ると、

自分にも、笑顔を見せてくれる日が、いつか来るかもしれないと、考えた。

仕事の厳しさと細かさに、指導してくれることを望み、

どこか遠くを見つめ歩いている姿を、ずっと横に並べるように、

必死に歩みを速めた。


「住友さん……」

「あ……はい」


先輩からの言葉をもらい、挨拶をしていると、橋場が昴を呼び、何やら話をし始めた。

すると、立ち上がろうとした橋場を止め、昴が席を立つ。

慌ててバッグを手に持ち、昴は会場を出て行った。

それぞれが話しに盛り上がっていて、

あまり昴が抜けたことに気付いていないように思え、

悠菜は、隣の前川に『ちょっと席を立つ』と言い残し、昴を追いかけた。

笠間は昴が出た後、悠菜が動いたことに気付き、何気なく席を立つ。

店を出る悠菜を確認した後、自分もその後に続いた。





「畑野さん」


悠菜の声に、昴は立ちどまり振り向いた。

地下の階段を上がりきった悠菜が、小走りに近付いてくる。


「すみません、仕事に戻られるのですよね」

「あ……はい。少しトラブルがあったようで、すみません、途中で抜けて」

「いえ……」


明日があるのはわかっていた。

それでも、100人以上が仕事をする社内で、話すことが出来ないこともわかっている。

悠菜は、再出発をするために、どうしても言っておきたいことだと、

大きく息を吐いた。


「畑野さん、先日は、ウソだなんていって、すみませんでした。
他に好きな方がいると、そう言われたことを、
きちんと受け止められなかった自分が恥ずかしくて、
しばらくお話が出来ませんでした」


悠菜は、しっかりと昴を見た後、精一杯の笑顔を見せた。

『さようなら』と告げられているようで、昴は息をすることも苦しくなる。


「畑野さんの……」


悠菜の言葉はそこで一度止まった。

下を向いてしまった顔を、奮い立たせるように上げる。


「仕事に対する厳しさと、立ち向かう勇気をそばで学ばせてもらいました。
綾音さんを通じて、楽しい経験もたくさん重ねられました。
本当に充実した1年だった気がします」


悠菜は、営業の表を見て、成績が良かった昴に自分の営業方法でぶつかったこと、

本社でトップを取る男は、小さなプライドを跳ね返し、さらなる課題を与えてくれたこと、

その中で畑野昴を知り、一人の男性として意識してきたこと、

綾音と一緒に、姉妹のような思いを共有できたこと、

この1年の思い出を巡らせながら、『充実した』という言葉に全てを乗せた。


「……お世話になりました」


昴は両手を握りしめ、黙って言葉を受け続けた。

口をしっかりと閉じていないと、

『全て違う』というセリフを吐き出してしまいそうになる。

むしろ、感謝の気持ちを持っているのは自分の方だと、言葉に出来ない思いを、

必死に飲み込み続けた。


「私は今でも……あなたが好きです」


悠菜はそう言うと丁寧に頭を下げ、店の中に戻ろうと昴に背を向けた。

昴は咄嗟に左手を伸ばし、悠菜の上着をつかもうとする。

中指と人差し指にかすかな感覚があったものの、

その指は『確かな愛情』をつかむことなく、悠菜は遠ざかっていく。

声を出せば、まだ悠菜はふり返るだろうが、それが出来なかった。

昴は無意識に動いた自分の左手を見た後、顔を上げる。

昴は、後悔と申し訳なさと、苦しさが入り交じった顔で、

悠菜が消えた階段を、しばらくその場所から見つめ続けた。


悠菜の消えた階段横には、近くに店がオープンしたという看板が立てかけてある。

昴と悠菜の別れを見届けた笠間も、すぐにはその場所を動けなかった。





営業部に戻ると、電話があった企業からFAXが確かに届いていた。

内容を確認し、PCを立ち上げ、データを見る。

メールを作成し送信ボタンを押すと、トラブルの内容は一瞬で相手に届けられた。

昴は、あえて営業部のの灯りをつけることはしなかった。

ついているのはPC画面の灯りと、自分のデスクの灯りだけで、

昴は悠菜のデスクまでゆっくりと進む。



『畑野……暇だろ、手伝え』



豊川に指名されて、このデスクを運んだ。

そこに座る女性が、どんな人なのかなど、思うこともしなかった。

始めは、前へ出ることしか考えていない騒々しい人だと見ていた女性は、

綾音を『小麦園』に預けてから、必死に戦い続けてきた自分の心を、

優しく溶かしてくれる人だった。



『私は今でも……あなたが好きです』



昴は、目の前にいる人に触れることも出来ず、

ただ、こうしてデスクに手を置き、ため息を重ねるしかなかった。

昴は、自らの過去の重さにつぶされそうになりながら、

誰もいない部屋に、悲しさだけを落とし続けた。





『Flow』
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