40 Declaration 【宣言】

40 Declaration 【宣言】



悠菜と前川が退社した次の日、春を迎えた木々には、小さな桜の花が咲き始めた。

重いコートを脱ぎ、新たなスタートに向け、それぞれが歩き出す。

昴はいつもの電車に揺られ、駅の階段を上がりながら、前を行く同僚を見た。

悠菜と同じような髪型の女性もいるし、

悠菜と同じようなスーツを好み、着ている女性もいる。

明るい笑い声が聞こえ振り返ってみるが、立っていたのは別人だった。



『畑野さん』



そう自分を呼び止めてくれる声の主は、もうこの階段を上がってくることはない。

昴は流れの中に身を置き、残されないように歩き続けた。

受け付けの前を通ると、初美が頭を下げる。

昴も同じように頭を下げ、その前を通り過ぎた。

エレベーターに乗り、営業部へ到着する。

目の前にいきなり積みあがっていたのは、

秋用の新商品一覧を束ねた、取引先へ配るリストだった。


「おぉ、畑野。今日からこれを配布するように指示を出してくれ」

「おはようございます」


一日の始まりに、一番ふさわしくない豊川の顔がそこにある。

昴は昨日まで悠菜が座っていた場所が、

1日経っただけで、すっかり物置きとして利用されていることが少し辛くなった。


「もう少し早く出そうと思っていたけどな、
ここにはスパイが潜んでいるかもしれないからと思って、なかなか出せなかったんだ」


昴に対し、豊川は悠菜と個人的な関わりを持っているだろうと考えたのか、

わざとらしくそう言い出した。普段は嫌味で無能な上司だと噂しながらも、

さすがに面と向かっては言わない女子社員たちが、

『スパイとはどういうことですか』と口を尖らせてみせる。


「何怒っているんだよ、君たちが」

「だってねぇ、ひどくないですか、スパイだなんて」


会社のために働いている自分たちに対し、失礼ではないかと、

女子社員たちは笑いながら言い返す。


「どういうことなのか知りたいか」

「知りたいです。豊川部長……」

「それじゃ、今日の仕事が終わったら、飲みに行くか」


女子社員たちは、メンバーを集めていいのならと乗り気な態度を見せ、

豊川は、その中で一人の社員にだけ、個人的にだよと耳元でささやきだす。

豊川が口に出した『スパイ』の意味がわかる昴は、

くだらないやりとりを聞く気にもなれず、リストを数冊手に取ると、

指示を無視したまま席へ向かおうとする。


「おい、畑野。言ったことが聞こえなかったのか」

「豊川部長」

「なんだ」

「本当の意味で会社の損害を出しているのが、外から来た『スパイ』なのか、
『スパイ』にもなれない無能な男なのか、真剣に考えた方がいいと思いますよ」

「は?」

「一流企業の仕組みは、それほど甘くはないと、私は信じていますので」


昴は営業部内にいる社員に声をかけ、

リストをそれぞれ得意先に持っていくようにと指示をする。

昴の強気な発言に、豊川にゴマを擦っていた女子社員たちも、

不穏な空気を感じ取り、仕事があるからとその場を離れた。





通勤のなくなった悠菜は、午前中に部屋の掃除をした後、窓から外を眺めていた。

ネットの求人募集を調べて見るが、気持ちが動くような職は見つからない。

退社の理由があるため、しばらくは手当てで生活が出来るとはいえ、

感覚は離れれば離れるほど不利になる気がして、気持ちだけが焦ってしまう。

鏡に貼り付けた昴からのメモは、結局はがすことが出来ず、そのまま残っていて、

悠菜は自分の気持ちが、別れを告げた言葉とはうらはらになっていることに気付き、

大きく息を吐いた。





「それじゃ、今日はここまでね」

「ありがとう、お姉ちゃん」


綾音はその頃、大学の休みを使い、『小麦園』を訪れていた。

子供たちはすっかり綾音の訪問を待つようになり、

女の子はピアノのレッスンで順番待ちをする。


「お酒の量?」

「そうなんです。年が明けてから、兄が昔に戻ってしまったようで。
いえ……昔よりもさらにおかしくなったというか、夜中に急に大きな声を出したりして」

「夜中に?」

「はい、うわぁーって。私驚いたんです」


綾音は、昴がお酒の量を増やし、近頃帰ると、常にグラスを持っていると心配した。

康江は仕事のプレッシャーもあるのだろうとフォローするが、綾音は首を振る。


「仕事って言うよりも、悠菜さんと何かがあったような気がするんです。
この間も、悠菜さんの名前を出したら、嫌がって……」

「嫌がった? だって、昴と悠菜さんが……」

「そうなんです。兄が変わったのは悠菜さんと出会ったからで、
クリスマスくらいまでは、私のことなんてどうでもいいくらい幸せそうだったのに。
年が明けてから、急におかしくなって……」


康江は、悠菜が昴に対し、生い立ちの話など全てを語ると言っていたことを思い出した。

そういえば、それから何も連絡が入っていない。

3月で退社し、時間もあるはずなのにと不吉な予感がしてしまう。


「悠菜さん、もう退社したのよね……」

「退社? 悠菜さん退社したんですか?」

「あ……うん」


康江は、悠菜の情報を綾音が知らないとは思わずに口にしてしまい、

その慌てぶりに戸惑った。隠し事をしても仕方がないと思い、悠菜の事情を説明する。

綾音は全てを聞き終え、何も知らなかったと、表情を硬くする。


「大企業のお嬢さんだって知ったから、兄はショックだったんでしょうか」


綾音は、悠菜が『STW』社長の娘だと知り、自分には親もいないことから、

ショックを受けてしまったのかと言い始めた。康江はそれはないだろうと言い返す。


「そうですよね」

「そうよ。悠菜さんは悠菜さんだもの。彼女も今更会社に入って、
お父さんの娘だってことで、後継者になろうなんて思っていないだろうし。
たとえ後継者として入ったとしても、昴がその相手に不釣合いだなんてこと、
ないと思うわよ」

「先生……」

「妹の綾音を育て上げたのだもの。誇れることではあっても、
文句を言われることではないでしょう。親がいないことなんて、
昴にはどうしようもないことだし」

「はい……」


綾音は、自分がここまでやってこられたのは間違いなく昴の力だと言い、

苦労した分、昴には幸せになってほしいと訴える。

康江は、少し落ち着いたら悠菜を『小麦園』に呼び、事情を聞いてみるとその場を納めた。





3月の終わりから、暦は4月に入った。

昴は、橋場とともに管理職としての仕事を増やし、

個別の取引相手を若手の社員に振り分けていく。


「笠間、ちょっといいか」

「はい」


悠菜から『トランプ』を引き継いだ笠間が、きちんと成績を出していることから、

さらに別の仕事をふることにした。

その日の午後、挨拶をするために一緒に取引先へ向かう。


「オーナー。私の仕事を引き継ぐ笠間です。若手では一番の営業マンですので、
どうかこれからも、『salon』をよろしくお願いいたします」


オーナーは昴に絶大なる信頼を置いているため、

その人の薦めならとすぐにOKを出した。

笠間は名刺を取り出し、挨拶を交わし、二人揃って店を出る。

駅へ向かいながら、昴はオーナーは情のある人だからと説明を付け加えた。

笠間はその言葉を黙ったまま聞き続ける。

流れている時間は普通のものであるはずなのに、昴にはどこか違和感があった。

いつもの笠間なら、笑顔を見せたり、何か冗談めいたことの一つでも言い返すのに、

どこか冷たい表情が気になり、何かあったのかと問いかける。


「仕事に悩みでも出たのか、笠間」

「畑野さん」

「どうした」

「先日の送別会の日、僕、話を聞いてしまいました」


笠間は昴の顔を見た後、立ち聞きしてしまったことは申し訳ないと頭を下げた。

それでも、気になってしまったので、席を立ったと行動を正当化する。

昴は、笠間が悠菜と話したときのことを言っているのだとわかり、

表情が曇り出す。


「住友さんがどうして『salon』をやめたのか、
本当の理由は、本人でないとわからないのかもしれません。
でも、僕には畑野さんが無関係だとは、どうしても思えませんでした」


昴は笠間の言葉に、あの日のことを思い出した。

思いを残してくれた悠菜に対して、何も言葉をかけることが出来なかった。

かけたかったのは山々だが、昴の事情がそれを許さなかった。


「男と女ですから、思い通りにならないこともあるでしょう。
でも……あんなふうに会社を去らせるのは、彼女が……かわいそうです」


笠間は、自分が見ている限りでは、

昴も悠菜に対して、好意を持っているようにしか見えなかったと付け足した。

昴は黙ったまま、笠間の言葉を受け止める。


「僕は今まで、畑野さんを憧れの目で見続けてきました。
初めて『salon』に入り、営業なんて何も知らない時から、
あなたの背中をずっと追い続けてきたんです。
自分に厳しく、妥協しない仕事の仕方に、絶対に叶わない相手だと、
そう思ってきました」


笠間は、昴は憧れであり、目標であったと口にした。

昴は、いつも自分の横で話しかけてきた笠間の顔を思い浮かべる。


「でも、もう……そう思うのはやめにします」


昴にとっては、これは笠間の『対決宣言』だった。

仕事でもプライベートでも、先輩と後輩という関係ではなくなったのだと、

そう言っているように思えてくる。


「……そうか」

「すみません」


笠間は、そういうと今までで一番深く頭を下げる。

これから別の仕事先へ向かうと、昴を追い抜き、駅へ向かった。





その頃、悠菜は『ハローワーク』から紹介された会社へ向かう途中だった。

手書きされた地図を見ながら駅の改札を降りると、目指すビルはすぐに見つかった。

1階は、馴染み客が多そうな『とんかつ』店で、その横には上へ向かう階段がついている。

階段の窓が開き、そこからダクトが伸びているため、

油の匂いが階段を支配するようになる。

大きくて明るいガラス窓に、観葉植物が癒しの役目をする『salon』の玄関とは

大きく違う。

さらに、置く場所が見つからないのかダンボールが階段の隅にあり、

悠菜はつまずかないように気をつけて、上へ向かった。



『曽根崎精密機器』



画数だけはやたらに多そうな会社は、精密機器のネジを卸している。

社員は社長を含め8名だが、若くて動ける人を求めていると、

求人票に大きく記されていた。ネジなど今まで、取り扱ったことのない商品だが、

だからこそ、一から出直せると、悠菜は扉を叩いた。


「ほぉ……『salon』でねぇ」

「はい。営業部におりました」


悠菜を面接してくれたのは、作業服を着た社長本人だった。

中には経理担当だという年配の女性がいるが、

視線の先でうっつらといねむりをしている。


「大手なのに、もったいないねぇ」


どういう理由でやめたのか、もし聞かれたら答えようとする理由は、

あらかじめ考えてきた。悠菜が口を開こうとすると、社長は興味がないのか、

履歴書をテーブルに置いてしまう。


「結婚相手を見つけるのは、不可能だよ、大丈夫かい」

「あ……いえ、それは……」


社長は、自分たちが扱っているネジの一覧だと、

ホチキス止めされたパンフレットを前に押し出した。

悠菜は、どういったものがあるのかと質問する。


「あぁ、うん。おおまかでいいよ。それより相手先の要求を聞く方が大切だから」


社長は、商品であるネジは、相手の求めるものを作るのだと説明した。

営業マンといっても、新規開拓をするより、御用聞きだと付け加える。


「若い女の人が行けば、向こうも気持ちが明るくなるだろうしね。
それだけで十分だ」


『若い女性』に反応したのか、居眠りをしていた経理の女性が目覚め、

どこかだるそうにお茶を入れ始める。

悠菜は、そこから色々と質問をし、会社の扉を閉めた。



何が悪いのかと言われると、答える自信はなかった。

しかし、これでいいのかと聞かれても、頷く理由が見つからない。

駅まで戻り、携帯で担当者に連絡をする。

『今回は申し訳ないですが』と断ると、反応はあっさりとしたものだった。


「ふぅ……」


目の前に電車が到着し、悠菜は周りの客と同じように立ち上がると車内に乗り込んだ。

昼間の電車に乗るのは、久しぶりだった。

何度目かのアナウンスを聞いた後、自然と足が外へ向かう。

悠菜が降りたのは、『HONEY』のある駅だった。

自分のやり方は間違いないと信じ、提出した企画書は、

一回目の訪問では、細かく説明しても賛同してもらえなかった。

悔しさを一緒にいた昴にぶつけると、営業マンがどう勝負するのか、

そのノウハウを教えてくれた。

畑野昴に対する思いが、膨らみ始めたのがこの場所で、

悠菜は、携帯電話を取り出すと、奥にしまっていた写真を呼び出してみる。

『HONEY』のすぐ裏道に、新しい店が出来ることを知った後、

二人でこの場所を訪れた。

前に立つ昴に気付かれないように、カメラのシャッターを切った。

その時に映った周りの景色より、今日見るものはさらに変わっている。

悠菜が『HONEY』の店内に入ると、オーナーの佐藤がすぐに見つけ声をかけた。


「お久しぶりです」

「おぉ……元気か。もう新しい仕事は始まったの?」


悠菜は、もう少し休憩してからだとウソをつき、店内の商品に目を向けた。

一番目立つ場所には、苦労して入れてもらったシリーズが、

ハンガーにかけられ並んでいる。


「売り上げは順調なんだよ。これ、学生に人気あってね」

「そうですか」


悠菜は、自分のあと誰が『HONEY』を担当しているのかが気になり、

新しい担当者は誰なのかと、佐藤に問いかけた。


「担当? あぁ、担当は畑野さんがまた戻ったよ」


佐藤オーナーは、商品のビニールを外しながら、10分くらい前に昴が顔を出し、

自分が担当に戻ったと挨拶していったことを教えてくれる。

確かにテーブルの上には、昴の名刺が残っていた。

悠菜は、昴の名前を聞き、思わず店外に飛び出した。

道路の端から端まで、歩いている人を全てチェックする。

当たり前だが、そこに昴の姿はなく肩を落とした。


「畑野さんは、部長代理だそうだね。そこクラスになると、
個人店舗など自分で処理しないんだろうに。昔からの縁だからなのかなんなのか……
まぁ、うちにしては有難いけどね」


悠菜は走っていく電車を目で追いながら、どうしても消せない昴への思いを、

押し込むのに必死だった。





昴は、悠菜が見る電車の中にいたのではなく、

その時、『立原音楽大学』の見える公園の中に立っていた。

橋場からは、今まで持っていた全ての企業担当は、

他の営業部員に任せていいと言われたものの、

自ら『HONEY』だけは難しい客なのでと言い訳をつけ、譲らなかった。

自分がきっかけを作り、悠菜が新しい風を吹き込んだ『HONEY』だけは、

なんとしても守り続けたいとそう思ったからだった。

幼い頃、母と見ていた景色の前で、過去を捨てる気持ちになったとき、

横に立っていたのは、悠菜だった。

漕ぐとさび付いた音のしたブランコは、3月いっぱいで使用禁止となり、

ローブが張り巡らされている。

押すことも引くことも出来ないまま、

昴は色々な思い出の中に、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。





『HONEY』から家へ戻る道で、悠菜は黒い車に気がついた。

歩みが止まると、運転席から出てきたのは勇の秘書である江口で、

悠菜を見ると一度頭を下げてくれる。


「ご無沙汰しております」

「何か……」

「『salon』を退社された後、どうなさっているのかと、社長がご心配になりまして。
ここでお待ちしていれば、お会いできるかと」


江口はそう言った後、大きな紙袋を取り出した。

中にはしっかりとした箱が入っている。


「これは社長から、悠菜さんに」

「私に?」

「はい。4月のお誕生日がもうすぐだと」


悠菜は、退社騒ぎで、すっかり自分の誕生日など忘れていたことに気がついた。

勇と再会した日、プレゼントを贈ることは許して欲しいと言われたことも思い出す。

断るのも失礼だと思い、江口に頭を下げると、それを受け取った。


「申し訳ありません。ここまでしていただいて」

「いえ……それともう一つ」


江口は、こちらは自分からだと、小さな紙包みを手渡した。

悠菜はそんなことをしてもらう義理はないと戻そうとする。


「これは誕生日とは別のものです。今は必要だと思われないでしょうが、
いずれ必要になる時が来るはずです。遠慮などなさらずに、どうかお受け取りください」


江口の自信ありげな物言いに、悠菜はつき返すことが出来ずに、

結局受け取ることになった。江口はそれではと頭を下げ、黒い車に乗り込む。

悠菜の目の前でエンジンがかかり、車はあっという間に幹線道路へ消えていった。


悠菜がアパートのポストをのぞくと、康江からのハガキが入っていた。

季節の挨拶、『小麦園』で行われるイベントのお知らせが書いてある。



『会いに来て、待ってます』



ハガキには、この一言が書き加えられていた。悠菜は、昴と話をすると言った後、

康江に何も連絡をしていなかったことを思い出す。

遠慮がちに心配している康江の気持ちが嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。

悠菜は右手に勇からのプレゼントを持ち、左手に康江からのハガキを持つと、

階段をゆっくり上がっていった。





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コメント

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切ない(TT)

切ないね~、本当に切ない(TT)
お互いに思いあってるだけに、切なくて、つらいわ~

昴が壊れちゃいそうで、この先が心配です

重み

yokanさん、こんばんは

>昴が壊れちゃいそうで、この先が心配です

『目的』のためなら、
手段を選ぶ必要なしと思っていた昴ですが、
悠菜との出会いによって、価値観が変わりました。

失った物の大きさを思い悩む中にいますが、
彼がこれをどう乗り越えるのか、
誰が助けを出すのか……
もう少しお付き合いくださいね。