41 Vestiges 【面影】

41 Vestiges 【面影】



悠菜は次の日、『小麦園』へ向かった。

昴のことを聞かれることはわかっていたが、逃げているわけにもいかなかった。

康江はそれぞれにとって母のような存在であるからこそ、ウソをつくわけにもいかない。

最寄駅を降りバスを待つ。ロータリーに1台止まっていたが、

目指すバスではなかったため、悠菜はベンチに腰を下ろす。


昨日、江口から渡された勇からのプレゼントは、バッグだった。

ボーナスが出たときに、思い切って買おうと決めるようなブランド物で、

誕生日を祝うカードが添えてあった。

『誕生日おめでとう』と丁寧に書かれたカードは、悠菜の気持ちを尊重し、

あれから連絡を取らない勇らしく、シンプルなものだった。

悠菜は父である勇の直筆を見た後、バッグを押入れにしまい、

母の手鏡、そして指輪と同じ場所へ手書きのカードをしまった。


少し離れた場所に停車していたバスが、エンジンをかけ、停留所の前に止まる。

悠菜は行き先を確認すると、それに乗り込んだ。



『今は必要だと思われないでしょうが、いずれ必要になる時が来るはずです』



勇の秘書、江口がそう言って手渡してきた紙包みには、名刺の箱が入っていた。

中を開けると『STW 広報室 住友悠菜』と書かれた名刺があり、

悠菜は強引に出てくる江口の態度が実は本心なのか、

勇に問いただしてみたいと思いながら、それを机の奥へ押し込んだ。


乗客を乗せたバスが坂道をゆっくり登っていく。

悠菜は途中でブザーを押し、バスを降りる。

目指した『小麦園』は子供たちが学校に行っている時刻だからか、

いつもより静かだった。


「春の日差しが、暖かいですね」

「そうでしょ、ここに座って繕い物なんてしていると、いつの間にか寝ているのよ」


悠菜は、いつもの食堂に通され、康江はコーヒーを入れだした。

豆の香りが、待っている悠菜の元に、届き始める。


「どう? 就職は上手く行きそう?」


康江の言葉に、悠菜は小さく首を振った。

康江も予想していたのか、それはそうよねと言葉を濁す。


「どこでもいいのなら、あるのでしょうけれど、そう割り切れなくて」


悠菜は、仕事に不満を持ちやめたわけではないため、

気持ちが切り替わらないと弱音を吐く。


「焦らずに探せばいいじゃないの。生活は出来るのでしょ」

「はい……」


それでも、悠菜は内心、時間が空けば空くほど

『再就職』が難しくなるのことがわかっていた。

就職にはやはり時期があり、それに乗り遅れると、遅れたものしか手に入らない。

母の看病を終え、就職活動した経験からも、明らかだった。


「この間ね、ここに綾音が来たのよ。
コンサートがあったりして忙しいみたいだけれど、子供たちにピアノを教えてくれるの。
みんなも楽しみにしていて、本当にありがたいのよ」

「そうなんですか」


綾音の名前を聞くと、心がチクリと痛んだ。

綾音が綾音自身というより、昴の妹だという思いが強くなる。


「昴に、話したのでしょ、全て」

「……はい」


悠菜は、正月が明けて、自分の生い立ちから全てを語ったとそう言った。

康江は、昴はどう受け取ったのかと聞き返す。


「黙って聞いていました」

「黙って?」

「はい……それから……」



『……好きな人がいます』



思い出したくないセリフが、悠菜の脳裏に蘇った。

それでも説明しないわけにはいかず、

昴からその後、別の女性を思っていると言われたことを説明する。


「別の女性?」

「はい。クリスマスの日に、なんとなくこれから先に続くようなことを言われたので、
私もその時には、わけがわからなかったんです。どうして急に年が明けたら、
180度変わったようなことを言われるんだろうかって。でも……」

「その相手がわかるの?」

「確実ではないのですが。1月から本社の受付に勤務が決まった人がいて、
その人、元モデルさんだそうです。本当に綺麗な人で……。
で、私が営業先から戻ったとき、畑野さんが退社するところで、
声をかけようとしたら、その人が曲がり角で待っていて……」


初美が昴を待っていたように顔を出し、昴もそれを知っていたように立ち止まった。

去っていく二人の姿は、あまりにも似合っていた。


「並んで帰りました。その時、あ……そうか、
彼女が相手なら年が明けてからでも、おかしくないなって」

「1月に入社した人に、すぐ気を移したってこと?」

「いや……移したというより、私が勘違いしていたのだと思います。
畑野さんにとって、私は綾音さんの友達みたいなもので。
そこから結局抜けることなど出来なかったんです」


悠菜の説明を聞きながら、康江にはさらに疑問ばかりが膨らんだ。

相手の女性が別にいて、交際が始まっているのなら、

家で綾音に指摘されるような酒の飲み方をすることが、おかしく思えてくる。


「本当にそれが理由なのかしら」


康江のつぶやきに、悠菜はなぜそう思うのかと尋ね返した。

康江は、綾音がここへ来たとき、昴の飲むお酒の量が増えたことを気にしていたと話す。


「お酒を飲むのはね、別に当たり前なのでしょうけれど、
普段とは違うと綾音が思うくらいなのだから、何かあったんじゃないかって。
仕事がうまくいかないとか、そういうことはあるのかしら」


悠菜にとっても、それは不思議な話だった。

昴と何度か食事に行ったこともあり、軽く飲む程度にしか思っていなかった。

仕事のトラブルは、よくわからないと説明する。


「他に好きな人が出来たって言うのは、言い逃れじゃないのかな」

「言い逃れ?」

「綾音が言った時には、違うのではないかと思ったけれど、
悠菜さんが、大企業のお嬢さんだと知ったことで、昴は考えてしまったのかしらって、
あなたの話を聞いたら、そう思えるようになったわ」

「考えてしまった……とは」

「だから、自分には不釣合いだとか、そういう弱気なことを思ったのかしらって……」


悠菜は、両手で康江からコーヒーの入ったカップを受け取った。

スティックシュガーの袋が入った入れ物が隣にあると、教えてもらう。


「でも……畑野さんは知っていたようなんです、
私がどういう理由で会社を辞めることになったのか」


悠菜は昴がすでに全てを知っていたと語った。

たとえ、境遇を知り構えたのだとしても、それから何も言ってこないのは、

それが気持ちなのだろうと結論づける。


「綾音さんにも、会いたいなと思うんですけど、今は気持ちが向かなくて……」

「悠菜さん……」

「ダメですね、こんなことじゃ」


悠菜はカップに口をつけ、精一杯の笑顔を作った。

康江は、頑張ろうとする悠菜が切なくなる。


「あの子が初めて、動いたと思ったのだけれど……」


康江は廊下に飾ってある昴と綾音の小さい頃の写真に目を向けた。

固い表情のまま、綾音をしっかり守ろうとする兄の顔がある。


「ごめんなさい先生。なんだか複雑なことになって」

「何を言っているの。悠菜さんの責任ではないでしょ」


久しぶりの再会は、ため息の落ちる、どこか雲がかったような時間だった。





仕事を終えた昴が、近頃毎日のように通う店がある。

乗り換え駅の間にある、通路で構える小さな飲み屋は、カウンターだけが7席あった。

待ち合わせとして使う客が多いのか、1杯飲んではすぐに出て行ってしまう。

昴も長く居座るのではなく、その日の気分で酒を選び、1杯飲むだけで店を出た。

何も飲むことなく電車に乗り込むと、見てしまうのはいつも自分のキーケースだった。

思い出すので使うことをやめようとするが、その手は力なく落ちてしまう。

お酒をノドに押し込んだ状態で車内に入ると揺れが心地よく、

何も考えることなく、家まで戻ることが出来た。

さらに、家でお酒を飲むことに対して、どこか冷たい目を向ける綾音の存在もあり、

なるべく顔をあわせたくないのが本音だった。


過去の自分を思い、悠菜を突き放したのは昴であるはずなのに、

切り捨てられたのは自分であり、行くあてすらないような気がしてしまう。

どこか怪訝そうな顔をする綾音も、事情を知れば悠菜に思いを寄せ、

自分から離れていくだろう。

憧れではなくなったと宣言した笠間が、悠菜を救おうとすれば、

人の気持ちなど、自然に移っていく。

どうせ離れてしまうのなら、せめて、悠菜自身に責任など何もなく、

他に好きな人がいるわけでもないのだと、告げることが正しかったかと、

答えの出ない堂々巡りを、繰り返した。





それぞれが思いを抱えたまま、季節は5月を迎える。

ピアニストにはならないと宣言した綾音だったが、

『クリアコンクール』での成績が評価され、大学での期待は大きいものだった。

さらに、卒業後の進路として、

私立の学校から『音楽講師』として採用したいという申し出が、学校に届き始める。


「教員免許を取って、採用試験と思っていたけれど、色々な道があるみたいで……」

「コンクールへ出ながら免許の取得は、難しいだろう。やることも別だろうし」

「そうなのよね。でも……今までお世話になってきた先生方の気持ちもあるし、
正直迷っている」


昴は、1、2年の遅れは取り戻せるのだから、

今年1年は『コンクール』に向けたらどうかと提案した。

教員となってしまえば、そういった世界からは遠ざかることになるからだ。


「うーん……」


昴の提案に、綾音からの返事は、あまりハッキリとしたものにはならなかった。


「綾音。お前の気持ちが向く方へ動きなさい。流されたような選択をすると、
結局、結果もいいものは出てこない。過ぎてしまったことを後から後悔しても、
取り返しのつかないことはたくさんある」


綾音は、昴の言葉を聞きながら、昴にも後悔していることがあるのかと問いかけた。

昴はしばらく黙っていたが、この年齢になれば、1つや2つの後悔はあると言い返す。


「悠菜さんのこと?」


昴は、綾音の言葉に、顔を上げた。

綾音は、昴が悠菜に対し、『別の人を好きになった』と話したことを、

昨日、康江から聞いたと話す。


「お兄ちゃん、ねぇウソでしょ、そんなこと。だって、そんなふうに思えないもの」


綾音は、悠菜と会っていた頃の昴は、とても『楽しそう』だったと言い切った。

昴は話から逃げようと、出ていた食器を片付ける。


「悠菜さんが大企業の社長さんをお父さんに持っていたから、
だからお兄ちゃんは無理だと思ったの? 無理じゃないでしょ。
お兄ちゃんのどこが……」

「わかったようなことを言うな」

「だって……」

「お前はピアニストになることを、自分の意思で辞めたのだろう。
それなら、こっちの人生にも、勝手な口を出さないでくれ」


昴はそういい切ると、部屋へ入った。

なぜ自分が昴を心配するのか、わかってもらえない悔しさに、

綾音の目には、自然と涙が滲み出した。





悠菜は思ったよりも電車の乗り継ぎが上手く行かず、

待ち合わせた時間より5分ほど遅れて、喫茶店へ入った。

座っている人を確認していくと、一番奥に笠間が座っているのを見つける。


「すみません、笠間さん」


悠菜の声に、書類を見ていた笠間は顔をあげた。

5分も遅刻したと頭を下げる悠菜に、

突然呼び出したのは自分だから気にしなくていいと声をかける。


「本当にすみません」

「いいんだって。あんまり恐縮しないでよ。呼び出したこっちが申し訳なくなるからさ」


笠間はウエイトレスを呼ぶと、悠菜に何を頼むかと尋ねた。

悠菜は『ミルクティー』を注文する。


「元気そうだね、住友さん」

「はい……」


笠間は、明るい顔が見られてよかったと笑みを浮かべた。

悠菜は、『salon』にいた頃と同じように優しい笠間の言葉に、ほっと一息をつく。


「『トランプ』の社長が、住友さんに渡してくれって」

「ありがとうございます」


笠間から悠菜が受け取ったのは、

『トランプ』が横浜にオープンする、新店舗お披露目会の招待状だった。

取引先の企業しか招待されない貴重なもので、悠菜は笠間が自分に気をつかい、

招待状を得たのだろうと考える。


「笠間さん、もう本当にいいんですよ、私に気をつかわなくて」

「ん?」


悠菜は、自分はあくまできっかけを作っただけで、

これだけ仕事の範囲が広がったのは、間違いなく笠間の手柄だと、そう言い切った。

ウエイトレスが『お待たせいたしました』とテーブルの横に立ち、

大き目のカップに入るミルクティーを置いてくれる。


「いや、社長が本当に言ってくれたんだ。
きっと、君がやめてしまったことが、もったいないとそう思っているんじゃないかな」


確かに『トランプ』をつかんだ時に、まさか3月で退社するとは思ってもみなかった。

しかし、現実は止まることなく動いている。


「仕事、見つかった?」


そう尋ねた笠間の視線はまっすぐで、

悠菜は、呼び出された本当の理由はこちらにあるのだろうと、すぐに感じ取った。

ずっと働いてきたので、少しゆっくりしてから探しますと、

あくまでものんびり活動しているのだと、ウソをつく。


「……いいよ……そんなふうに繕わなくても」


笠間は、悠菜の送別会の日、昴の後を追いかけた姿を見て、

つい自分も追ってしまったと正直に語った。

悠菜は、あの別れのシーンを見られていたのだと思い、下を向く。


「ごめん。結果的には立ち聞きしてしまった。それは謝るよ。
でも、気になるんだ、君が本当はどうして『salon』をやめたのか」

「笠間さん……」

「あれだけ仕事に前向きで、頑張っていたのに、
急に退社だなんて、飲み込むほうが難しいだろ」


確かに笠間の言う通りだった。結婚するという明確な理由があった前川と違い、

悠菜の退社の仕方は、確かに疑問が残るだろう。


「本当の理由は、畑野さんじゃないの?」


悠菜は、昴の名前に顔を上げた。

笠間は、昴が悠菜に対して、紳士的な態度に出なかったことが原因ではないかと、

分析をする。


「笠間さん、本当にそれは違うんです。
今回のことと、畑野さんは全く関係がなくて……」

「じゃぁ、どうして」


悠菜は、そこで言葉を止めることしか出来なかった。

それでも何か理由をつけないと、笠間が昴を勘違いしてしまう。


「君の……力になりたいんだ」


その言葉は、間違いなく笠間の告白だった。

友達、同僚以上の感情を持ったことがない笠間から、真剣な思いを告げられたことに、

悠菜は、これ以上ごまかし、振り回すことは出来ないと、覚悟を決める。


「笠間さん……」

「何?」

「来週、『トランプ』のイベントでお会いしましょう。
その時、私がなぜ『salon』をやめたのか、証明します」

「証明?」

「はい」


悠菜は、テーブルに置いたお披露目会の招待状を見ながら、

しっかりとうなずいた。





笠間には、本当によくしてもらった。

昴への思いが何もなかったのなら、

その優しさに、だんだんと気持ちを寄せていったかもしれない。

悠菜は帰りの電車に乗り、外の景色を眺めながら、そう考えた。

軽く買い物を済ませ、部屋へ向かい、デスクの引き出しを開ける。

一番奥に入っているのは、先日、江口から受け取った名刺の箱だった。



『STW 広報部 住友悠菜』



悠菜は、そっと蓋を開け、1枚目を手に取った。





若葉の香る5月も、あっという間に過ぎていく。

昴はいつもの電車に揺られ、『salon』のビルへ到着した。

管理職の業務が増えてから、外出は大きく減った。

ほとんどPC前から離れずに、部員たちの動きを把握する。


「おはようございます」


聞こえてきた声の方を向くと、受け付けの初美が頭を下げてくれた。

昴も同じように、返礼する。


「お疲れではないですか? 畑野さん」


初美は、近頃、昴が受け付け前を通るとき、いつも下を向いているとそう言った。

昴はそういえば、床を見ていることが多かったかもしれないと考える。


「少し、お酒の量を控えた方がいいですよ」


初美はそういうと、軽く頭を下げ、内線電話の受話器を上げる。

昴は、エレベーターの方へ2、3歩進んだ後、どうして初美がお酒のことを言うのかと、

ふと振り返った。


営業部はいつものように人が動いている。

本社の大会議室で新人の研修を受けていた4月入社の男性が、

今日からデスクをもらうことになり、橋場がその場所を入り口前に指定する。


「よし、ここでいい。新人だからな、すぐに挨拶できるように」

「あ、はい」


悠菜のいた場所は、物置になり、そして新人の場所になった。

昴はそれを確かめると、自分の席へ向かう。

隣の笠間が『おはようございます』と挨拶をしたため、同じように返礼した。

すると笠間が1枚の紙を、昴のデスクに置く。

それは悠菜の名刺だった。



『STW 広報部 住友悠菜』



「住友さんが、どうして『salon』を辞めたのか、昨日、本当のことを知りました」


笠間は、昨日『トランプ』のお披露目会で悠菜と会ったと話し、

そこでもらったものだと付け加える。


「外へ行ってきます」


笠間はバッグを持ち、すぐに営業部を出て行った。

昴は、悠菜の名刺を、引き出しに押し込んでいく。

渡瀬勇とは、縁を持たないと言っていたけれど、結局はこうなったのだとわかり、

ほんの数ミリの願いは、見えない風に吹き飛ばされた。





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