44 Penitence 【懺悔】

44 Penitence 【懺悔】



会議を終えた悠菜は、デスクに戻ると大きくため息をついた。

営業のことは、どことなくわかるものの、

広報となるとまた別の視点で見なければならない。


「疲れたでしょ」

「あ……うん」


隣のまどかは、すぐ悠菜にそう声をかけた。

『STW』の広報部は、人数が少なく、

実際には契約会社を動かすための会議だと教えてくれる。

企画だけはするものの、実際に体を動かすのは別の人たちだと知り、

大きな会社の組織の一部分を、身をもって感じることになる。


「CMの企画って言われても、そうは出てこないよね」

「うん……」

「ねぇ、住友さん。午後、『ブランカ』の原稿を届けにいくの、一緒に行かない?」

「いいの?」

「いいの、いいの。部長に話したら、住友さんと色々行動してあげてくださいって、
そう言われたから」

「うん……」


まどかは、外の空気でも吸わないと、息苦しくなると笑って見せる。

悠菜は、少し沈んだ気持ちが上へ向くのを感じ、

すぐに出発できるように、仕事を片付けるねと返事をした。





麦茶の中に入れた氷は、水となり、形は見えなくなった。

康江は、新しいものに変えようかと言ったが、昴は首を横に振る。


「気をつかわないでください。客として来たわけではないですから」


昴はそういうと、グラスを手に持ち、ほんの少し口に含んだ。

冷たい麦茶の感覚が、話し続けたノドを潤していく。


「綾音を、ピアニストにするためだけに存在している時間の中へ、
彼女は入り込んできました。始めはそのお節介ぶりに腹を立てましたが、
先生から、以前ここで言われたように、
彼女が興味本位で口を出しているわけではないことがわかって、
いつの間にか僕も、彼女を頼りにしていた」


昴の話す『彼女』が悠菜のことであるとわかり、

康江は手に持っていた布巾で、濡れたテーブルを拭く。


「人を好きになるって、こういうことだって、思い出しました。
仕事をする姿が気になって、一緒に笑うことが楽しくて……
このまま時が続けばいいと……そう……」


康江は昴の言葉に、その通りだと頷き返した。

綾音の気持ちを受け入れたのも、悠菜さんとの出会いが大きかったのかと問い返す。


「はい……彼女と話している中で、
亡くなるまで僕と綾音を愛してくれた母が生きていたら、
無理にピアニストになれとは言わないだろうと、そう思えるようになりました。
あれだけ頑なに信じていたのに、不思議なものですが……」

「昴……」

「はい」

「悠菜さんに対する思いを断ち切ろうとしたのは、『FLOW』のことがあったからなの?」


康江は、話のつながりの中で、昴にそう問いかけた。

昴は、利佳子との時間を終えたとき、悠菜に偶然会ったことを思い出す。


「綾音を大学に通わせるだけなら、『FLOW』をやめようと思ったのは、
彼女のことがあったからだと思います。忘れていた心地よい感情の中に、
自分を埋めることができたら……そう思って」

「それでいいのよ、昴。この話はここだけにして、
過去のことは全て語る必要なんてないわ。誰だって触れて欲しくない傷くらい、
持っているものだもの。『過去の恋愛』だと思って……」


康江は、『FLOW』での日々は、過去の恋愛として割り切るべきだと、

そう昴に助言した。『小麦園』を出て行った子供たちにも、

同じようなことがあると例をあげる。


「人生は長いの。ここで荷物を下ろして、新しい自分に……」


昴は康江の言葉を聞きながら、首を横に振り続けた。

そして、一番語りたいことはこの先にあると話を止める。


「僕も、そう思いました。過去の自分を脱ぎ捨てて、
彼女への気持ちを大事にしようって。でも、それは出来ません」

「なぜ? 悠菜さんは気付いているの?」

「いえ……何も知りません。だから苦しいのです。
実は、去年のクリスマスの日、僕は彼女に気持ちを告げました。
綾音の友達でもなく、先輩と後輩としてでもなく、別の気持ちを持っている……と。
女性として、好意を持っていることを、話しました。
でも、年が明けて、僕が彼女に言ったのは、『他に好きな人が出来た』という言葉です。
あまりにもおかしくて、わけがわからない別れのセリフだけれど、
彼女はそれを責めたりしなかった」


悠菜は退社するまで、昴を責めることなく、

それでもまだ『思っている』と、気持ちを明らかにした。

昴は、それだけではなく、別の男性に思いを寄せられながらも、

いまだに自分への思いを、持ち続けていることを知り、辛くなったと語り続ける。


「ここへ来たとき言っていたのは、1月から入社した元モデルの綺麗な人がいるって。
その人のことを好きになったのではないかって、言っていたけれど……」


昴は、悠菜が初美とのことを勘違いしたのだと気付き、それは違うと説明した。

康江は、だとしたらどうしてこうなるのかと、問いかける。


「彼女が、『STW』の社長を務める、渡瀬勇さんの娘だと知ったからです」


昴は、年が明けてから、

悠菜がどうして『salon』を退社しなければならなくなったのか事情を知り、

その中に、大きな壁が出来てしまったことに気付かされた。


「渡瀬勇さんの現在の奥さんは、渡瀬晴恵さんと言います。
彼女は……数ヶ月間、僕の契約相手でした」


その昴の言葉に、康江は言葉を飲み込んだ。

昴が、なぜ慌しく悠菜から離れようとしたのか、本当の理由を知り、

迷った唇は、何を言えばいいのかすらわからなくなる。


「男女の間柄なら、気持ちが離れてしまえばそれで終わりですけれど、
親子の関係は、そういきません。母親を亡くし、やっと見つけた父親の相手と、
僕の関係を知ったとしたら、苦しいのは彼女自身です。
そんな遊びに踏み込んだ義理の母のことも、それを許した父のことも、
切り離すことなど、出来ないのですから」


どんなに気に入らなくても、親子関係はついて回るのだと、

昴は言葉を終えた。

そして、自分が『FLOW』にいたことを悠菜に語ろうと思っていると宣言する。

康江は、全てを語るのかと問い返す。


「いえ……渡瀬晴恵さんのことは、触れないつもりです。
でも、彼女の気持ちの中に、まだ僕がいるのは、正しいことではないから。
真実を話して、彼女に非があるわけではなくて、
僕が愛してもらうだけの価値がない人間なのだと、わかってもらうつもりです」

「昴……」

「『世界で一番嫌い』だと、言ってくれたら……楽になります」


昴は、悠菜には同じ話を康江にしたと話すつもりだと言った。

すると康江に連絡を取ってくるだろうと、先を読む。


「そうしたら先生は、『昴はやめなさい』とそう言ってください。
面倒なことをお願いしますが、
彼女が先生を母親のように思っていることを知っているので、
それを頼みたいと、ここまで来ました」


康江も、おそらく話を聞かされた悠菜は、自分に救いを求めるだろうと、

予想していた。昴の気持ちを思えば、互いに別の方角を向いた方がいいのは、

間違いのないことだった。それはわかっているのだが、康江の視線は、

たんすの上に乗せたダンボールへと向かっていく。


「昴……」

「はい」

「最後まで聞き続けて、こんなことを言うのは申し訳ないのだけれど、
この話は、悠菜さんに語るべきではないと思うわ」


康江は目の前に座る昴に、そう言い切った。

話をすることで、誤解はとけるかもしれないが、

悠菜の性格からすると、それでは済まなくなるはずだと助言する。


「済まなくなる?」

「確実にそうだとは言えない。もしかしたら、昴のことを本気で嫌がるかも知れない。
でもね、私は、少し前に私が言ったように、悠菜さんならきっと、
『過去のことは……』と、あなたをかばうような気がして」


『FLOW』に入った昴の思いを理解し、それを受け止めようとするのではないか。

康江はそう判断する。


「その時、渡瀬さんとの関係を、話さないまま誤魔化すことが出来る?
それが出来ないのであれば、結局はまたウソをつかなければならないでしょ。
それなら、昴は辛いでしょうけれど、
悠菜さんに本当のことを話すべきではないような気がするわ……」


昴を先輩として尊敬し、そこから愛情を持った悠菜の立場からすると、

確かに、康江の言うとおり、過去の事実を責めることなどせずに、

一緒に乗り越えようとするかもしれない。

昴は、結局、自分には何も出来ることがないのかと、肩を落とす。


「ごめんなさい、昴」

「先生、どうして謝るのですか」

「心のどこかで、あなたの生活を危ういものだと思いながら、
私は救ってやることが出来なかった。自分を幸せにする余裕もなかった昴の気持ちに、
寄り添ってやることも……」


康江の言葉を聞きながら、昴はそれは違うと何度も否定した。

綾音がここで育ち、まっすぐな性格になったのは、

間違いなく康江のおかげだと頭を下げる。


「綾音をピアニストにするのだと信じていた僕に、たとえ先生が正論を言ったとしても、
その時には耳を傾けることなどなかったでしょう。これは誰の責任でもなく、
過去など、どこかに葬り去ることが出来ると思い込んでいた、
自分の愚かさから来たものですから」


昴が康江に全てを語った日、

『小麦園』の庭では、その年初めてセミが鳴き始めた。





まどかは、出版社に原稿を届けた後、店の様子を見に行こうと言い出した。

悠菜が黙ってついていくと、向かった場所は、あの噴水の前にある店で、

クリスマスの光景が、蘇ってくる。


「ねぇ、住友さん、このお店小さいけれど、結構売り上げがあるのよ。
まわりもヨーロッパ調で、イメージも沸きやすいでしょ」

「そうね」



『同僚だという以上の感情を持つことは……迷惑になりますか?』



悠菜の脳裏に、あの日の昴が見せてくれた表情が思い出された。

これから始めようという前向きな言葉だったとはいえ、『愛している』でもなければ、

『好きです』でもない表現に、たった一度でもその思いを聞いておきたかったと、

哀しくなる。


「ねぇ、どうしたの?」


見つめる噴水から、あの日と同じような水が吹き上がり、

悠菜は視線を上へ向けた。


「物があることで、音も声も、すぐに思い出す……」

「何? どうしたの?」


父と初めて会った日、悠菜は『ブランカ』へ立ち寄り、ジュエリーの箱を購入した。

姿を確認するだけでいい、もう二度と会うまいと決めたため、

思い出を形に残そうと、そう考えたからだ。

そして、クリスマスの日、昴と交換したプレゼントは、『みつばち工房』のもので、

その偶然さに、自然と笑みがこぼれた。

言葉にしなくても、互いの気持ちが寄り添っているのだと、そう感じた瞬間。


「『物』で見えてくる心がある……」

「住友さん?」

「沖本さん、ごめん、すぐに会社に戻ろう。私、ちょっと思いついたことがあるの」

「あ……うん」


悠菜はまどかの手を引きながら、アイデアを形に残すため、

まっすぐに駅へと向かった。





その頃、綾音はレッスン室にこもり、

今年も行われることになった、チャリティーコンサートの課題曲に取り組んでいた。

主任教授の望月には、音楽家としての道は選ばないことを告げたが、

昨年の『クリアコンクール』の好成績に、考え直さないかという意見が届き続ける。



『ここまで君に対して、尽くしてくれたお兄さんに対しても、
一線から去るというのは……』



望月の本音はどこにあるのかわからなかったが、昴に対する申し訳なさは、

心のどこかにいつも存在した。

綾音は、昴に迷惑をかけずに目標に向かう方法はないかと、鍵盤を叩き続けた。





昴は、仕事に復帰をすると、すぐに『HONEY』へ向かった。

オーナーの佐藤は、何事にも慎重な畑野さんが、

こんな怪我をするなんて珍しいことがあるものだと笑われる。


「畑野さんも、ごく普通の人間ってことか」

「そう言わないでください」


秋からの商品リストはすでに渡していたため、注文の紙を受け取りながら、

昴はサインをした。


「そうそう、ほら、畑野さんの下で働いていた住友さん。一昨日来てくれてね」


サインをする昴の手が、悠菜の名前に一瞬だけ止まった。

すぐに冷静を装い、彼女は元気でしたかと話をあわせていく。


「あぁ……元気だよ、元気。『STW』の広報部に入ったそうだね。
立ち話のつもりだったのにさ、家内が実家の美容室を改装する話しになって。
今じゃあれなんだってね。待ち時間を過ごす喫茶店のような機能を加えて、
営業する美容室もあるんだって、『STW』が輸入する家具を使いませんかって、
いやぁ……しっかりアピールされちゃったよ」


佐藤は、悠菜がしっかり仕事をしていると語り続けた。

昴は書類の確認をしながら、

『STW』でもすでに自分の場所を確保しつつある悠菜の頑張りを感じ、

自然と笑みが浮かんだ。





「CMのアイデア?」

「はい、田尾部長、私は広報のことがよくわかっているわけではないので、
ピントが違うと言われてしまうかもしれませんが、ぜひ、見ていただけませんか」


まどかと広報部に戻った悠菜は、先輩方の企画書の形式をマネながら、

自分なりのCMプランを考えた。タイトルは『思い出』。


「『思い出』?」

「はい。人は毎日慌しい中で生活をしています。
その時は忘れないと思っている大事な出来事も、どんどん重なるうちに、
記憶も薄れていきます。でも、そこに『形』があれば、
思いを蘇らせることが出来る気がして」

「うちの扱っている商品が、その『物』になると……」

「はい……『ブランカ』の商品は、日常生活に毎日組み込まれるものとは違います。
ハッキリ言ってしまえば、なくても生活が出来ると思うのです。
でも、それならなぜ、お客様が購入してくれるのか、
それは少しの贅沢や、少しの遊び心が入り込んでいて、
何かしら、物に対してのエピソードがあるのではないかと」


悠菜は、『ブランカ』の商品をプレゼントにする気持ちや、

自分へのご褒美に買う客たちの思いを訴えた。

田尾は悠菜の話を聞きながら、それはおもしろいかもしれないねと頷き返す。


「音楽は……クラシックにしたいと思います」

「クラシック? オーケストラ?」

「いえ、ピアノのソロで行きたいです」

「ピアノ?」

「はい……『愛の夢』を……」


悠菜の脳裏に浮かんでいたのは、

昨年、チャリティーコンサートで初めて聞いた綾音のピアノだった。

聞きながら自然と涙があふれ、演奏が終わったあとには、満足感が残り、

固くなっていた気持ちが楽になった。

悠菜は、プロのピアニストではなく、演奏は学生に頼みたいと意見を言う。

田尾は、あてでもあるのかと問いかけ、悠菜は小さく頷いた。





その日の午後、悠菜の出した企画が、さっそく会議にかけられた。

細かいところには、色々とチェックが入ったものの、

『思い出』というコンセプトには、全員が賛成してくれる。

悠菜はピアノを主張したが、せっかくCMは3パターン作られるので、

ピアノだけではなく、バイオリンや管楽器も含めようとまとめられる。


「先日、ポスターになるかもしれないと言われていた場所はどうでしょうか」


まどかは、少し前まで悠菜と訪れていた、あの場所を提案する。

それぞれが色々なアイデアを出しながら、日にちが重なるたび、

企画はだんだんと形付けられた。





悠菜は仕事を終え、携帯電話を取り出した。

しばらく呼び出すことのなかった昴の番号を探し、受話器をあける。

呼び出し音が数回鳴った後、『はい』という昴の声がした。


「すみません、お忙しいところを……」


『住友悠菜』ですというセリフが、すぐに出てこなかった。

それでも気持ちを切り替えるように、名前を告げる。


「お久しぶりです」


昴は、電話の相手が悠菜だとわかり、一瞬、出ることをためらった。

それでも、避けることは出来ないと思い、受話器を開けた。

悠菜は、自分が『STW』に入ったこと、今は広報部にいることを語り、

今回はお願いがあって電話をしたのだと、そう言った。


「お願いですか」

『はい……正式に上層部から決定を受けているわけではないので、申し訳ないのですが、
まずは畑野さんに許可をいただかないと、
綾音さんに話を持っていけないと思いましたので』


悠菜は、『STW』の『ブランカ』がCMを作ることになり、

その企画に、綾音の参加を認めてもらえないかと話を切り出した。

昴は、思わぬ展開に、返事が出来なくなる。


『一度、会って頂けませんか』


悠菜は、電話では細かいことが語れないので、一度会ってもらえないかと昴に尋ねた。

悠菜の顔を見ることは、申し訳なさが残る昴としては、避けたいところだったが、

前向きに動き始めたその思いに、協力してあげるべきだという気持ちも強くなる。


「すみません……会社を離れても、畑野さんに相談することになってしまって」


昴からの返事が、受話器の向こう側からすぐに戻らず、

悠菜は自分たちの間に、埋めることが出来ない距離があるのだと再確認する。

それでも、今回会うことが、自分のためにもなるのだと、

辛い気持ちを押し殺したまま、受話器を握り続ける。


「わかりました、一度、お話を聞きます」


昴は、悠菜に向かってそう返事をし、

悠菜はありがとうございますと受話器の向こうで頭を下げた。





二人が再会をする日は、突然の電話から1週間後となった。

ワインの瓶を割り、その破片で怪我をした昴の傷も癒え、

固く巻かれていた包帯も、すでにない。

待ち合わせをした店に昴が到着すると、悠菜は先に座っていて、

その場で立ち上がると、丁寧にお辞儀をした。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

昴の告白が辛いです。
康江が二人を結びつけてくれないかしら

べるりなさん、こんばんは

昴にとっても、康江は母と言える存在です。
康江はキーマンとなるのかどうか、もう少しお付き合いください