46 Question 【問いかけ】

46 Question 【問いかけ】



選考会の終了した『立原音楽大学』では、サロンが開放され、

全ての参加者が軽い食事をすることになった。

大学関係者は、CM制作を通して、

『STW』という大手企業と縁が持てることを素直に喜び、

そして、その輪の中心に位置した晴恵も、自分が予想していたものより、

学生の演奏が素晴らしかったと、笑顔を見せる。


「今まで、こういった機会があまりなかったので、とても新鮮でした」

「そう言っていただけると、学生達もみな、喜ぶと思います」


晴恵のことを、少し離れたところで見ていた綾音は、

事務局長と目が会い、そばに来るようにと手招きされた。

持っていたグラスをテーブルの上に残し、綾音は緊張した顔のまま前へ進む。

事務局長は、晴恵が『STW』の社長夫人であり、

今日は忙しい社長の代わりに、わざわざ足を運んでくれたこと、

そして、学生の演奏にとても感動してくれたと説明する。


「社長夫人……」

「そうだ、普段ならそうお会いできる方ではないから、挨拶をして……」

「はい」


綾音は、社長夫人だと言われた晴恵を見ながら、出そうとした言葉を奥に押し込んだ。

言いたいことはあるのだが、話す相手を間違えると、

余計にこじらせてしまうかもしれない。


「お名前は……畑野綾音さんでしたよね」

「はい」

「あれだけの演奏をされるとなると、
どれくらいの年齢からピアノを習っていらしたの?」


晴恵は、自分も幼い頃にピアノを少しだけ弾いたことがあるが、

とてもレベルが違うと、笑ってみせる。


「本格的に習い始めたのは、中学生になってからです。
それまでは家にあったピアノを、母が弾くのを見ながら、時折触るくらいで」

「お母さんがピアノを?」

「はい。でも、母は私が幼い頃に病気で亡くなりました」

「まぁ……では、お父さんと?」

「いえ、小学校に上がったくらいから、児童養護施設で育ちました」


綾音は、自分が『小麦園』という施設で育ちながらも、

ピアノを習っていたと素直に語った。

晴恵は、ご両親が亡くなっていて、誰がピアノを与えたのかと問い返す。


「兄です」

「お兄さん? お兄さんが……あなたにピアノを?」

「はい……少し歳の離れた兄が……」


綾音が昴の話を晴恵にし始めた時、

外に車が準備されたことを告げるために、広報部員が会場に姿を見せた。

悠菜もその隣に立ち、晴恵に頭を下げる。


「奥様、選考会の時間が思ったよりも長くかかりましたので、
申し訳ないのですがこのあたりで……」


今日の夜、別の会場へ向かう用事があることがわかっていたため、

晴恵は軽く頷いた。自分から声をかけておいて、

話が途中になってしまって申し訳ないと、綾音に言葉をかける。


「いえ、私の話など、どうでもいいことなので……」

「お兄さんが習わせてくれたと、そう言ったわよね」

「はい……」

「感謝しないとならないわね」


晴恵の言葉に、綾音は『はい』と返事をし、そしてもう一度頭をさげる。

男性が2人、晴恵と一緒に会場を出て、そのまま車に乗り込んだ。





晴恵が会場から去り、緊張気味だった広報部員達も、

一段落付いたと飲み物を片手に、笑い声が聞こえるようになる。

悠菜もグラスを2つ持つと、会場の隅に立つ綾音に近付こうとする。

綾音の視線は悠菜の方を向くことなく、一人の男性に向かっていた。

そして、その男性が会場を黙って出ると、そのまま後ろをついていく。


「すみません」


綾音が視線を送っていたのは、江口だった。

江口は、晴恵が会場をすでに出たこと、選考会が無事に終わったことを連絡しようと、

携帯を取りだしたところで、学生がなぜ自分に声をかけてくるのか、

その意味がわからず、黙ってしまう。


「あの……『STW』の関係者の方ですよね」

「そうですが……何か」

「私、畑野綾音と申します。選考会でピアノの演奏者に選ばれたものです。
本当なら、今日、社長さんがいらしていれば、
直接お話しをさせていただきたかったのですが、いらっしゃらないので……」

「社長に話があると……」

「はい」


江口は取り出した携帯をしまうと、どういう用件なのかと問いかけた。

綾音は、江口がどのような立場の人間だかわからず、

話し出していいものなのかと迷ってしまう。


「失礼いたしました。私はこういうものです」


江口は名刺を取り出すと、その肩書きをしっかりと見せた。

綾音は、『社長秘書』という肩書きに、思った通りだと安心する。


「申し訳ありません。社長はとてもお忙しい方なので、まずは私が全てうかがい、
それからアポイントを取って頂いています。ですので、ここで一度聞かせてください」

「はい」

「それではあらためてお伺いします。どのようなご用件で、社長とお会いしたいと……」

「兄のことです」

「お兄さん?」

「はい……あの……」

「綾音さん」


綾音が江口を追うように会場を出るのを見た悠菜が、遅れて外へ出てきて声をかけた。

江口は、悠菜に知り合いなのかと尋ねる。


「はい……」

「兄と、悠菜さんの交際は、認めていただけないのでしょうか」

「綾音さん!」


綾音は、江口に向かってそう言うと、自分たちが親のいない兄妹で、

頼りになる親戚もいないことが、問題になるのかとさらに付け足した。

江口は、綾音の言っていることの意味がわからず、

悠菜は必死に前へ出る綾音を、止めようとする。


「綾音さん、ちょっと待って。今ここでその話は……」

「悠菜さん、待てないの。私は、このために選考会に出たんです」

「綾音さん……」

「CMなんて興味はなかった。どうしても『STW』の方と、話がしたくて……」


江口は、綾音の発言を止めようとする悠菜の肩に触れ、首を横に振った。

そして、綾音に言いたいことがあるのなら、全て聞きましょうと目を合わせる。


「ありがとうございます」


綾音は、自分たちと悠菜の立場が違うことに身を引いた昴のことを語り、

自分の兄が、決して人間として周りの男性に劣っていないことを強く訴えた。

悠菜は、綾音の真剣な思いに、発言を止めることが出来なくなる。


「私にピアノを与えて、ここまでにしてくれたのは、兄です。
頑張って働いたお金で、『立原音楽大学』に通わせてくれました。
ずっと、私のことばかり心配して、考えて生きてきた兄が、やっと……いえ、
初めて自分のことを考えたのに。相手としてふさわしくないのかどうか、
兄をみていただけたらわかります」


江口は、綾音の発言に驚き、お兄さんが『立原』にあなたを通わせたのですか? と、

思わず聞き返す。


「はい、兄が通わせてくれました」


江口はその言葉を聞き、驚きを隠せなかった。

視線を綾音から、その後ろに広がる『立原音楽大学』の校舎に動かす。


日本の中にある音楽大学の中でも、名声、そして学費もトップクラスだった。

親の助けがない状態で、妹を通わせ続けたという兄の存在に、

疑問が浮かび上がっていく。


「失礼ですけれど、お兄さんはどのようなお仕事を……」

「江口さん、畑野さんは、『salon』のトップ営業マンです」


江口は、自分の横でそう答えた悠菜の表情から、

綾音の言っていることがウソではないのだと気付かされた。

悠菜の気持ちも、その畑野という男性にあり、『STW』への入社に難色を示し、

『salon』に残ろうとした気持ちも、そこで初めて理解する。


「『salon』の営業マンのトップですか。そうですか、それならば……」

「あの……」

「綾音さん……でしたよね」

「はい」

「あなたのおっしゃりたいことは、よくわかりました。
私は社長ではありませんので、正しいことが言えているのかわかりませんが、
しかし社長は、お相手が親のない男性だから反対をするような、
心の狭い方ではありません」

「本当ですか?」

「はい。その方が素晴らしい方なら、認めてくださるはずですよ。
その証拠に、我が社には、優秀な大学を出たから出世するというような
レールはありません。小さな店の店長だった男が、
本部の役員になったという事例もあります」


江口の言葉を聞きながら、綾音ほっとしたのか小さく頷いた。

悠菜は、綾音の行動に驚きながらも、江口の言葉に同じような思いを抱き、

どこかで気持ちが落ちついていく。


「……そうお兄さんにお伝えください」


江口は綾音にそう告げると、あらためて携帯を取りだし、会場の外へ向かった。

綾音は江口の背中に向かって、しっかりと頭を下げる。

江口はポケットから携帯を取りだし、会場から見えなくなった。


「ごめんね、悠菜さん」


自分勝手に行動したことを、綾音は悠菜に謝罪し、

そのままそばに立っている悠菜に抱きついていく。


「綾音さん」

「ごめんなさい。頼まれてもいないのにこんなことをして。
でも、だって、このままじゃ苦しかったから。
私、これ以上お兄ちゃんが我慢している姿を見たくないの。
お願い、悠菜さん。お兄ちゃんのことを諦めないで」


昴は、他に好きな人を作ったわけではないのだと、綾音は必死に訴えた。

今は、どこかうまく流れていないだけで、またその流れが変わると話し続ける。

悠菜はどういう返事をしていいのかがわからず、ただ『わかった』と伝え続けた。





江口は、勇と行動をともにした別の秘書に選考会の終了を告げ、そのまま携帯を閉じた。

悠菜や綾音がいるはずの、サロンの方を振り返る。

悠菜が、綾音の兄を『salon』のトップセールスを誇る営業マンだと言い、

それならばと納得する態度を見せたものの、

実際に沸きあがった疑問は、解決できたわけではなかった。


「畑野……か」


さらに、もし、綾音の兄がそれだけ特別に優秀な男であるのなら、

別の意味で悠菜との付き合いを認め、

『STW』の組織に組み込むことが得策ではないかとも、考えだす。


「江口さん……」


会場の外で江口を見つけた南雲は、広報部員と一緒に会社へ戻るのかと尋ねた。

江口は、別の場所に寄ってから帰ると返事をし、そのまま『立原』を後にした。





江口とは別の思いを、先に会場から出た晴恵も抱いていた。

ピアノを見事に弾きこなし、素敵な演奏を奏でた『畑野綾音』は、

親がなく、兄が自分を支えたとそう言った。

今時、自分の幸せを考えず、妹のためにそれだけ尽くす兄がいるのかと、

不思議に思えてくる。

自分のことを振り返って見れば、渡瀬との結婚が決まった後、

ひとりで暮らす父の元には、会ったこともないような親戚が急に増えた。

今まで誰も何も言わなかったのに、急に自分たちが父親を見守るからと、

勝手に役割分担をし始めた。

人は、自分が有利となるためには、どんなに小さな縁でもたぐり寄せるのではと

逆のことを考える。


「畑野……綾音……」


その時、車に急ブレーキがかかり、晴恵は咄嗟に左手を前に出した。

飛び出した子供を抱きかかえ、必死に謝る母親の姿が見える。


「どうしたの? 誰かをはねてしまったの?」

「いえ……大丈夫でした。全く、気をつけてくれないと……」


運転手は申し訳ありませんと晴恵に謝り、車はまた前へと進み出す。

晴恵がその親子の顔を確かめようとすると、左側に止まっていた車から父親がかけより、

真剣な顔で子供に何やら話しかけていた。

親子3人が並ぶ姿を見た後、晴恵は会場で自分に頭を下げた悠菜の顔を思い返した。

勇は、悠菜が入社して以来、それについては自分に何も語らず、

少しずつ会社の中心へと近づけている。

今はまだ、頭を下げてくる悠菜が、いずれ自分よりも前に出て行くのではないかと、

晴恵は、心の中に入り込む不安を遮るため、その場でサングラスをかけた。





部屋に戻った綾音は、自分がピアノを担当することになったことだけを昴に語った。

社長秘書の江口に、交際を反対しないで欲しいという意見を述べたことは黙っている。

言えば、余計なことをするなと言われることも、わかっていた。


「そうか、音だけの参加なのか」

「うん……私もその方がいいもの。タレントになるつもりもないし」

「そうだな」


テーブルの上には、コップに入った麦茶が置いてあった。

昴は新聞を読みながら、左手でコップをつかむ。

昴は、取り乱し、ワインを割ってから、確かにお酒を飲むことをやめていた。


「先に、お風呂へ入るね」

「あぁ……」


生活は以前と同じように戻ったはずなのだが、兄妹の会話はどこかぎこちないままで、

テレビの音だけが、やたらに響き渡った。





『ブランカ』のCM作りは、それからしばらく続き、店の前で行うポスター撮影や、

映像を流すための段取りなどが進められた。悠菜はまどかとともに現場へ向かい、

代理店の担当者たちと打ち合わせをする。


「小物はもう少し絞れませんか? あまりあれこれ出してしまうと、
結局、どれも印象に残らない気がするので」

「そうですか。『ブランカ』側として、一押しのものなどはありますか?」


店の設置されている場所によって、売れ筋も違っているため、

3パターンあるCMの中で、表現を変えていこうと意見がまとめられる。

その頃、都内にあるスタジオでは、南雲ともう一人の広報部員が立会い、

綾音たちの録音本番が行われていた。


「緊張せずに、いつものように弾いてください。
何度か弾いていただいて、みなさんが納得してくれたものを
採用させていただきますので」


南雲の説明に、学生たちは頷き、それぞれが準備に入る。

綾音も鍵盤を軽く叩き、手に届く感触を確かめた。


そして、『salon』では、昴が開かれた営業会議の中心になり、

これから秋の商品展開について、それぞれの意見を聞く。


「笠間はどう思う?」

「はい。今年の夏がいつもに比べて暑いので、
実際、秋を感じられる時間は短い気がします」


昨年のデータをPC上に呼び出し、今年の予想を埋め込んでいく。

昴は、橋場に代わり、しっかりと営業部を仕切るようになっていた。





「これは……」


それぞれが、次なるステップへ向け、新しい扉を開こうとしているとき、

『STW』の本社ビルでは、江口が調査データを確認し、大きくため息をついた。

綾音の発言から、悠菜に思いを寄せる男性がいることを知り、

その男性自体に興味を持った。

『畑野昴』という男が、どういう経歴を持つのか調べているうちに、

『FLOW』という場所が浮かび上がる。

細かいことは語らずに、以前、悠菜のことを調べさせた調査会社に、

『畑野昴』が『FLOW』に出入りしている人物かどうかだけを調べさせた。

結果は、昨年の秋くらいまで出入りしていたことがわかり、

常連客に写真を見せると、よくカウンターで酒を飲んでいたという証言を得る。



『FLOW』



江口には、そこがどういう場所を意味し、どんなことが行われているのか、

全てわかっていた。常連客はカウンターに座る意味など知らず、答えたようだったが、

その店の『カウンター』に座る男たちが、別の仕事を持っていることは、

その組織を知るものにしてみると、明らかなことだった。


勇とのすれ違いから、

妻である晴恵が『FLOW』に出入りしていることも知っている江口としては、

悠菜と昴の交際を、認めるわけにはいかないと思い出す。



『大企業の妻たちが、金で愛を買う遊び』



江口は、『FLOW』の写真と昴に対する報告書を重ね、

その全てを封筒に入れると、机の引き出しへ押し込んだ。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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