50 Darkness 【闇】

50 Darkness 【闇】



悠菜は、昴の残した湯飲みを見つめたまま、自分の湯飲みを空にした。

お酒を飲んだことで喉が渇くのか、急須にお湯を注ぐ。

時計を見ると、夜の11時を少し過ぎていた。


「悠菜さん、入ってもいい?」

「あ……はい」


悠菜の返事を聞いた後、康江は襖を開け、

今日の星空は綺麗だと、あえて明るく振舞った。


「畑野さんは……」

「昴は今、タクシーを呼んで、もう玄関を出たわ」

「そうですか……」


重い話だったはずなのに、あまりにもあっけなく時間は過ぎていった。

悠菜は、急須に入れたお茶を、自分の湯飲みに入れる。

康江の分も入れようと、新しい湯飲みを取るために立ち上がった。


「私はいいわ」

「……でも」

「いいのよ、それと、今日はここへ泊まりなさい。
まだ、酔いも完全に覚めてないだろうからって、昴も気にしていたし……」

「畑野さんが……ですか?」

「そうよ。お酒が強くないのに、無理して……。
酔ったままで店を出るようなことになったらどうするつもりだったの。
若い女性が、状況の判断も出来ないような状態になったら、
色々とあぶないことも多いでしょ」

「はい……」


悠菜は少し前に昴がいた場所に座り、自分の湯飲みを手に取った。

しばらく黙っていると、遠くにエンジン音が聞こえ出す。

それから数秒後、静かな部屋にも音が届かなくなった。

悠菜は、昴が『小麦園』を離れたのだとわかり、お茶を一口飲んだ。


「先生……」

「何?」

「先生は、畑野さんの事情をご存知だったんですね、
だからこの間、昴は諦めなさいって、そう……」


昴のことをどうしても諦められないといった悠菜に、

康江は諦めなさいと強く言った。

悠菜は、自分を理解してくれない康江に対し腹を立て、『小麦園』を飛び出した。


「ごめんなさい。でも私も、最初から全てを知っていたわけではないわ。
昴から話を聞いたのは、救急車騒ぎのあとのことよ。
まっすぐに自分へ気持ちを向けてくれるあなたと、
何も知らないで、お酒を飲む自分を心配している綾音に、
申し訳ないとそう思ったみたい」


康江の言葉の中にも、ここにはいない綾音が登場した。

悠菜は、どうしようもないことだと思いながら、それでも唇を軽く噛んでしまう。


「綾音……綾音……綾音……」

「悠菜さん?」

「そうなんです、綾音さんなんです。
今も、畑野さんは私が知ってしまったことを、淡々と語りながら、
綾音さんのことばかり心配していました」


康江は、昴のことを語る悠菜の表情を見ながら、

真実を語れないもどかしさに、気持ちが重くなる。


「確かに、大学で頑張ったのは綾音さんです。実力でコンクールにも通りました。
それは誰もが認めるところです。
いくら畑野さんが、どういうことをしていたのかがわかったとしても、
綾音さんのことまで責められたくないという思いはわかります。でも……」


昴が残した湯のみを、悠菜はあらためて手に取った。

少し前まで感じていたようなぬくもりは、すでになくなっている。


「でも……私が『FLOW』にどんな気持ちで向かったのか、
どんな気持ちでお酒を飲み続けたのか、畑野さん、全然わかっていないんです。
知ったのなら仕方がないみたいに話をしてきて。
今の言い方だと、わからなければ話すつもりもなかったと、
そう言っているように聞こえました。今も、その不満をぶつけたけれど、
結局、答えはもらえませんでした」


江口から突然に『FLOW』の話を聞き、

昴がどういう別の顔を持っていたのか知った自分に対し、

あまりにも事実を淡々と語っていたことに、悠菜は悔しい思いが湧き上がる。


「私が傷ついて、哀しい気持ちになって、気持ちが乱れてしまって、
諦められない思いにつぶされそうになっているのに、畑野さんにとっては……
そんなこと、どうでもいいことだったみたいです」

「悠菜さん……」

「クリスマスに話してくれたことはウソじゃないって言いながらも、
綾音が……綾音がって……」


悠菜はそういうと、膝を抱えて顔を下に向けた。

親のいない兄と妹の絆は、わかっていると思っていたけれど、

それを越えられるものは自分になかったと、唇をかみ締める。


「私が綾音さんと近すぎて、何かを語ってしまう気がするなんて、
あまりにもひどすぎませんか? 私、そんなにデリカシーもない人間だと、
思われていたことが、悔しくて……」


心の奥の底で、信頼されていなかったのだと、悠菜は心の声を掃き続けた。

康江は背中を丸め、昴に怒りをぶつける悠菜を、見続ける。


「綾音さんが悪いわけではないことは、十分わかっているつもりですけれど、
綾音って名前が憎いと思ったのは……今日が初めてです」


昴がどんな思いで自分のもう一つの顔を語り、何を『守ろう』としているのか、

悠菜には、何一つ伝わっていない。康江は、それが辛くなる。

このまま、昴が悪いものだと悠菜に思い込ませることが、果たして正しいことなのかと、

何度も自分に送ってきた手紙の入ったダンボールを見た。


「結局、畑野さんは、綾音さんに知られたくないだけです。
自分がそんなみっともないお金の稼ぎ方をしていたことを、知られたくないから、
だから……知っている人は全て遠ざけようとしているだけなんです」


悠菜は、昴の仕事に対する姿勢に憧れ、

その強い眼差しに一人の女性として、心を奪われた。

もっと近付きたい一身で、毎日を過ごしてきた。

この充実した1年間が、今日のこの時間で崩れ去っていく。

悠菜は、何かを言えば言うほど、苦しくなる気がした。


「先生、遠慮なく、今日はここに泊めてもらいます。
一人になると、うじうじしそうだから。
明日になればきっと、全て忘れられる気がします。
もう……思い出さなくてもいいくらい……。あんな男! って……」

「……違う」


悠菜は顔を上げ、そばにあったバッグに手を動かした。

康江のつぶやきに気付き、その手が止まる。


「違うの……悠菜さん、あなたは何もわかっていない」

「先生……」

「昴が淡々と話をしたのは、そうしなければならなかったから。
感情を込めていたら、言ってはいけないことまで、言ってしまうから」


康江の言葉は、力強く、悠菜の心の動きを封じ込めた。

昴を諦めようと、あれこれ言ったセリフ全てを、断ち切ってしまう。


「先生……」

「わかっていないのは、あなたの方よ。綾音が憎い? 違うのよ。
昴が綾音のことを思う以上に、悠菜さんのことを思っているのに……
あなたは何もわかっていない」


悠菜は、康江が訴える姿を、じっと見続けた。

そして、昴が語ったこと以上のものが、やはり隠されているということがわかり、

一度大きく息を吐く。


「……やはり、まだ何かあるんですね」


康江は、悠菜が『隠し事』があるのではと思い、自分を揺さぶったのだと気付き、

開こうとした口をしっかりと閉じる。


「先生、知っているのなら教えてください。畑野さんは何を隠しているんですか?
どうしてきちんと話してくれないんですか。
私のことを思ってくれていると言うのなら、その証拠が知りたいです」


悠菜は、康江の前に座り、その両手をしっかりと握り締めた。

何を聞いても取り乱すことはしないし、冷静に心にしまうと宣言する。


「悠菜さん……」

「お願いします。割り切れるなんてウソなんです。
この状況の中にあっても、自分の気持ちがどこに向かっているのか、
ハッキリとわかるから」


悠菜は、『FLOW』でのことを聞いても、諦めて欲しいと言われても、

自分の気持ちが昴に向かったままだと、そう言い切った。


「先生……」


悠菜のすがるような目を見ながら、この悠菜の苦しみを救うには、

全てを知ってもらうしかないと思い始める。

どうせ傷つくのなら、何に傷つき、何を許せるのか、

その判断は悠菜自身がすべきだと、考えだす。


「わかった……」

「先生」

「これから私が話をするから、落ち着いて聞いてね」


康江はそういうと、目の前の悠菜を抱きしめた。





「この景気の悪さでね、タクシー業界も大変なんですよ」


昴が乗ったタクシーの運転手は、数年前までサラリーマンだったが、

リストラに遭い、タクシーの運転手になったことを語り始めた。

昴は黙ったまま、ポケットに手を動かし、悠菜から戻されたパスケースを見る。

あのクリスマスの日、こんな日が来るとは思わずに、

ただ、悠菜への思いだけを詰め込み、渡したはずだった。

あまり負担に思われないように、

それでいて、常に持っていてもらえるものとして選んだのに、

送り主である自分のところへ、戻ってきてしまった。


「子供が2人いてね、一人が音楽大学へ行きたいなんて言い出しまして。
ピアノなんて家内が習わせたから、その気になっているんですよ。
無理だって言うのが、かわいそうでねぇ……」



『ママね、ピアニストになりたかったの……』



ピアノを愛しながらも、家庭の事情で諦めた母の思い。

妹に、そのハンデを乗り越えさせるため、全てをかけてきた自分の思い。

そして、その中で何も知らずに純粋な思いをぶつけてくれた人を、

とことん傷つけてしまった。

このパスケースを受け取った時、悠菜が見せた嬉しそうな笑顔が、

さびしくなる昴の心の中で、より鮮やかに蘇ってしまう。


「一生懸命に働いたって、手に入らないものは入らないのでしょうけれど、
今の世の中、金のない貧乏人は、黙って指をくわえていろってことですかねぇ」



『私は今でも……あなたが好きです』



送別会の日、そう言ってくれた悠菜の言葉が、パスケースから聞こえてくるようで、

昴は両手で握り締めたまま、心の中で申し訳ないと謝り続ける。

タクシー運転手の愚痴はしばらく続き、車は順調に駅へと向かい、

昴は、何も返事をすることなく、下だけを向き続けた。





「渡瀬……」

「そう、昴が契約をしていたという女性の中に、
あなたのお父さんが奥さんとして迎えた『渡瀬晴恵』さんがいた」


悠菜の脳裏に、初めて『STW』の広報部へ出社した日、

自分の様子を見に来た、父のパートナーの姿が思い出された。

年齢はそれほど自分と変わるとも思えない相手だった。


「あなたが渡瀬勇さんの娘だと知って、昴がショックを受けたのは、
お金持ちのお嬢さんだったからじゃないのよ。
隠しておこうと思った過去も、隠せないのだということがわかって、それで苦しくなった」


昴の過去。

江口から聞いた話も、実際に『FLOW』を尋ね、現実を見たことも、

それなりに悠菜にとっては、刺激的な話だった。

しかし、契約相手の中にあの女性がいたのだというこの事実が、

何もかもに勝るくらい、現実を思い知らされる。


「男と女の関係なら、離れてしまえばそれで終わるけれど、
親子の関係は、そう簡単なものではないでしょ。
お母さんを亡くしたあなたが、お父さんと出会って『STW』に入り、
新しい道に向かおうとしている。だからこそ、自分勝手に耳に入れる話ではないと、
昴はそう判断したの」



『FLOW』



経済界などで地位や名誉を持つ男性が、

妻たちの不満を解消させるために立ち上がった組織。

たとえば、世の中には明らかに出来ない関係があったり、

愛情などない間柄でありながら、

世間的にはむつまじさを保たなければならない人間もいる。

パートナーの遊びを、『承認』しているところが、世間一般的な常識とは、

かけ離れていた。


「……これが、本当の意味で全てなのよ」


康江は、昴との約束を破り、悠菜に真実を告げたことを謝った。

悠菜は、無言のまま首を振る。


「昴のことは許せないでしょうけれど、
それでも、私はこの話を聞いて、あの子だけを責める気持ちにはなれなかった。
時はいつでも、同じ条件を提示してくれるわけではないから……」



『時はいつでも、同じ条件を提示してくれるわけではないから……』



昴は、綾音をピアニストにするため、ただ、そのことだけを考え続けて生きてきた。

その努力はいつでも出来たわけではなく、

決まった時間の中でしかありえないものだった。

悠菜は、すっかり冷たくなった湯飲みをつかみ、

過ぎていくときを、じっと考え続けた。





悠菜は布団の中で何度も寝返りをうちながら、揺れる思いの中にいた。

仕事に対する姿勢に憧れた日々から、

いつの間にか畑野昴は、一人の男性として自分の気持ちに中で大きく膨らんだ。

豊川の理不尽な振る舞いに対し、かばってくれた時のこと、

仕事で迷う自分へも、的確なアドバイスを出し、

チャレンジする気持ちを大きくしてくれた。

初めは横に並ぶのが厳しいくらいの速度だった歩みも、

自然と悠菜の歩幅を意識して、並ぶようになっていた。


しかし、畑野昴には、もう一つの顔があった。

妹の綾音を、どうしても『立原音楽大学』に通わせ、

ピアニストにするという目標があったにしても、

とても人には言えない方法で、そのお金を稼いできた。



『FLOW』



この世に、この場所を知っている人間は、どれくらいいるのだろう。

一生を誓い合いながら、平気で相手を裏切り、またそれを承認するような関係が、

自分の身の回りでも、起きていた。



『渡瀬晴恵』



あの女性と昴がと思うだけで、悠菜の胸は締め付けられるように苦しくなった。

しかも、『FLOW』のルールから言えば、

父、勇は晴恵の遊びを承認しているということになる。

この部屋の持ち主康江は、悠菜に気をつかったのか、子供の部屋で寝てしまった。

悠菜は布団から起き上がり、カーテンを開けると、輝く月と星に目を向ける。



『時はいつでも、同じ条件を提示してくれるわけではないから……』



ごちゃ混ぜになり、息苦しい悠菜の心に、康江の言葉が降りてくる。

いつまでも、迷っているわけにはいかなかった。

右に向かうべきか、左を見るべきか、

悠菜は、無理に眠ることをやめ、月のあかりとともにその時を過ごし続けた。





その月を、昴も部屋のベランダに出たまま、じっと見つめていた。

綾音はすでに部屋へ入り、眠ってしまったのか音も聞こえてこない。

綾音をCMにと悠菜から言われた時、反対をすればこうならなかったのか、

それでも結局、こうなったのではないかと、どうにもならない現実が、

押し寄せては引いていく。

康江に語るよりも、悠菜に語るときの方が数倍も緊張し、鼓動がはやくなった。

気持ちの整理をつけてほしいと思いながらも、心のどこかで悠菜の目を気にしていた。

呆れるほど嫌いになって欲しいと考えていたはずなのに、

諦めの悪い自分は、『それでもいい』という言葉を、どこかで期待していた気がして、

空しくなる。

悠菜の思いは、事実を知ったことで自分から離れていくのだとしても、

この自分の思いは、どう区切りをつけていけばいいのだろうかと、

昴は答えを寄こさず闇の中に揺れる月に、すがりつきたいような気分だった。





「おはようございます」

「おはよう」

「先生、昨日は色々とありがとうございました」


次の日、朝早く起きた悠菜は、食堂で支度を進める康江に頭を下げた。

康江は、悠菜が昨日ここへ来た時よりも、

すがすがしい顔になっている気がしてほっとする。


「ねぇ、朝食を食べて行くでしょ? 今朝はパンなのよ」

「朝食は食べずに出ます」

「悠菜さん……」

「すみません、先生。今日は子供たちと笑顔で会話が出来る気がしなくて。
このまま、ここを出させてください」


康江は、あえて悠菜に心の答えを聞くことはしなかった。

どういう結論を出したとしても、それは悠菜が決めることであり、

昴もそうしてほしいと願っているはずだと思っていた。


悠菜は、食堂から廊下に出た後、昴と綾音が揃って映る、セピアの写真をじっと見た。

不安そうな顔をした綾音と、まだ高校生でありながら、

小さな妹は、なんとしても自分が守ると肩に手を置く昴。


「おはようございます」


悠菜は、写真の二人にそう声をかけると、一人静かに出て行った。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

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