52 Resolution 【覚悟】

52 Resolution 【覚悟】



『FLOW』には、今日も数名の客が入っている。

それぞれが、会社の中で気をつかい、

外へ出て取引先に気をつかったストレスを解消するために、

1杯のカクテルを楽しんでいる。


「昴、あれから彼女と、話はできたのか」

「はい……」


昴は、あれからお世話になっている人の家へ向かい、

自分の事情を語ったと朋之に報告した。具体的な名前までは出さなかったが、

契約者と悠菜が親戚関係にあり、隠しておきたかったことも、

全て知られてしまったと付け加える。


「そうか……」


コースターの上に、いつも飲んでいたお酒が用意された。

『FLOW』に所属し、不快感や罪悪感も全て目をつむり、ただ一つの願いだけのために、

自分を奮い立たせた日々が思い出される。

カクテルグラスを持ち、今日も一口、喉に押し込んだ。


「知りませんでした。朋之さんに会った、あのクリスマスまでは。
彼女が契約者と親戚関係にあるとは」

「うん……」

「だから都合よく、ここを去ることさえ出来たら、何もなかったように過ごせると、
そう思い込んでいました」


悠菜が自分にとって、会社の後輩でもなく、綾音の友人でもないと気付いた日、

あの日には、まさかこんなときが来るとは思ってもいなかった。

昴は、繕うことに必死で、結局、彼女をひどく傷つけてしまったと、

自分の行動を後悔する。


「振り回したようになってしまって、申し訳なかったと思う反面、
でも……今、心の中では、ほっとしている部分もあります」

「ほっとした?」


もう隠すことは何一つないという現実に、

昴はなぜか自分の気持ちが落ち着いたと告げる。


「……彼女は」


昴は、今日、悠菜が昨日の料金を支払いに来ていないのかと問いかけた。

朋之はグラスを布巾で拭きながら、無言で首を横に振る。


「そうですか、それならこのお酒と一緒に、昨日の分も払います」

「いいよ、昴、それは……」

「いえ、一つずつクリアにしていかないと、ならないことですから」


昴の言葉に、朋之は話し合いが前向きなものではなかったのだとそう思った。

どこか寂しげな表情の昴に、そう堅苦しく考えるなと忠告する。


「昨日の今日、すぐに来られるとは限らないだろ。
仕事があって抜けられないのかもしれないし、どうしようかと今日は悩んでしまっても、
明日は来るかもしれない……」


朋之は空のカクテルグラスを、昴の前に置く。

カウンターの上にあるライトが当たり、ガラスがキラリと光った。


「そう、飲んでみて下さいと勧めた、途中になっているカクテルが気になって、
明日は来るかもしれない……。複雑な事実を知った人の気持ちを、
たった一日で判断するな」


朋之は、昨日、酔って寝てしまう前の悠菜に、

出してあげようとしたカクテルがあるのだと言った。

昴は、空のグラスを見ながら、昨日、ここでふらついた悠菜の顔を思い出す。


「彼女が来るかも知れないと思って……ここへ来たのか……昴」


昴は朋之にそう問いかけられ、違うのだと言おうとしたが、

言葉は外へ出て行かないままになってしまう。

昴が持っていたもう一つの顔を知った悠菜が、

その現実を感じられるこの場所へ、再び来ることなどないだろうと思いつつも、

あの性格なら、未払いになっている料金を、払いに来るのではないかという願いも、

どこかにあった。


「僕が望んで会えるような……立場ではありませんから」


昴は自分に言い聞かせるような口調でそういうと、グラスに口をつける。

それでも扉の開く音が聞こえると、視線は自然と動いた。


「きっと、彼女はここへ来るよ」


朋之はそう言うと、野菜のスティックを氷の入ったグラスに刺していく。

オレンジや緑、黄色というカラフルな野菜達が、並び出した。


「なぜ、そう……」

「うーん……なぜかと言われたら、こうだと言い切れるわけではないけれど、
それでも、俺には彼女が流されてしまう人には、見えなかったから……かな」

「流される?」

「彼女には、しっかりとした意思があるように、思えたからだ」


朋之は、バイトの男性から注文の用紙を受け取り、カクテルを作り出す。

昴は、朋之が振るシェイカーの音を聞きながら、

悠菜が昨日見せた哀しい目を思い出した。





悠菜は仕事を終え、駅のスーパーで買い物を済ませると、

重たい足取りのまま、アパートへ向かっていた。

今日一日、江口に振り回され、結局あの後、次男の佑と立ち話をすることになった。

その前に話をした大串と同じように、佑もすでに悠菜を勇の娘と知っていて、

『salon』でどんな仕事をしていたのかと、色々と質問をぶつけてきた。


何も準備をしていなかった悠菜は、佑の問いに答えるのが精一杯で、

残されたのは重苦しい空気だけだった。

目の前を歩いていた男性が、自動販売機で缶ビールを一つ買い、

ガシャンという音がする。


「あ……」


ホテルを出るときから、気持ちが下向きだったからなのか、

悠菜は『FLOW』へ向かい、

未払いの料金を払いに行かなければならないことを、すっかり忘れていた。

少なくともカクテルを3、4杯は飲んでいたはずで、

昴が迎えに来てからの出来事を、あれこれ思い返してみるが、

支払いをしていたのかどうだったのかまで、浮かんでこない。

それにしても、自分が払っていないことは確実だった。


「もう、やだ……何をしているんだろう、私。最低だ」


悠菜はそこから少し早足で部屋へ戻り、

手帳を開けると書き出してあった『FLOW』の番号を探した。

携帯を開き番号を打ち込もうとしたが、その動きが止まる。

酔ってしまった自分を迎えに来た昴の顔や、

『FLOW』に出入りしていたことを認めた昴の顔、

そして『小麦園』を去ろうとした時の昴の後姿が、順番に浮かんでは消えていく。



『渡瀬晴恵』



昴が、父の再婚相手が契約者だった事実を、最後まで隠そうとしたのは、

悠菜がこれから、渡瀬の中で生きていくことになると思ってのことだった。

綾音を思う以上に、悠菜を思っていると告げた康江の声が、胸に突き刺さる。

呼び出し音が、男性の声に変化した。


「もしもし……昨日、急に店を訪れた住友悠菜と申します。
酔ってしまったまま、お支払いも済ませずに出てしまい、申し訳ありませんでした」


悠菜は、冷静に謝罪をすると、今日は仕事で動けなかったため、

明日必ず支払いに行きますと受話器を閉じた。





時計は、そろそろ10時になろうとしていた。

朋之は店の電話を、元の位置に戻す。


「彼女からだ」


朋之の言葉に、昴の顔が上がる。

電話が悠菜からのもので、支払いを済ませていなかったことを謝罪し、

今日は仕事で行けなかったが、明日必ずうかがいますと言ったことを告げた。


「もう一度、会った方がいいんじゃないのか、昴」


朋之は乾いた布巾で、再びグラスを磨きながら、ぽつりとそうつぶやいた。

昴は、黙ったままカクテルグラスを見つめ続ける。


「本当の気持ちを、ぶつけた方がいいんじゃないのか。
全部知られてしまったのなら、逆に真正面から向き合えるぞ。
みっともなくても、いいじゃないか。それでも会いたいと思うのなら……」



『会いたい』と思うのなら……



朋之の言葉が、昴の心を奮い立たせた。

スーツを着替えたのに、戻されたパスケースをポケットにしまったのは、

捨てることが出来なかったからだった。

諦めきれない思いが、まだ心を支配し続ける。


「朋之さん」

「何だ」

「明日は、この店の近くで時間をつぶします。
彼女が、支払いだけを済ませて、すぐに店を去るのならそのままで結構です。
でも、もし、このカウンターに座ってくれるようなことがあれば……」

「あれば……」

「携帯に、連絡をいただけませんか」


悠菜の気持ちがまだ、自分に向かっているとは思えなかったが、

昴は、全てを知ってしまった悠菜に、本当の意味で謝罪をするべきだと考えた。

何も隠すことなく、ウソをつくことなく向かい合うことが出来たら、

途切れてバラバラになってしまいそうな気持ちにも、整理がつけられる気がしてくる。


「わかった」

「お願いします」


昴は朋之に頭を下げると、残った酒を飲み干し、『FLOW』を後にした。





悠菜は電話をテーブルに残し、CDを取り出すと『愛の夢』を聴き始めた。

初めて、綾音の演奏を聴き、奏でられる音の深さと優しさに、自然と涙が浮かんだ。

この曲に対する感動が、綾音への気持ちにつながり、そして、昴への思いにつながった。

母の願いをかなえるために、妹をピアニストにしようとした『畑野昴』。

そのやり方を褒め称えることなど出来ないが、

昴はその分、自分を犠牲にして生きてきた。

『小麦園』に飾られている二人の写真。

絶対に綾音を守ってみせるという決意の表情は、固く冷たいものだったが、

クリスマス前に見せてくれていた昴の顔は、とても柔らかく、穏やかになっていた。


自分という人間が、渡瀬勇の娘でなければ、その事実さえこの世に存在しなければ、

昴をここまで追い込むことなく、救えたのかもしれない。

『新しい恋』をした時、人が『過去の恋』を切り捨てられるように、

優しい笑顔を、本物に出来たかもしれない。


悠菜は、貼り出してあった昴の手書きメモを手に取り、じっと見る。

そのメモを手帳に貼り、はがれないように閉じると、

目の前の鏡に、自分の顔を写し、しばらく向き合い続けた。





次の日、『STW』へ出社すると、デスクの上にメモがあり、

悠菜は渡された資料を手に持ち、江口のところへ向かった。

扉を2回ノックすると、返事が戻ったため、そのまま開く。

頭を下げて挨拶をした後、顔をあげた悠菜の前に飛び込んだのは、

昨日、会場で会話をした佑の姿だった。

しかし、昨日のようなスーツではなく、足元もスニーカーで、

これから仕事をするようには思えない。


「おはようございます」

「あ……おはようございます。昨日は……」

「いえ、こちらこそ、ゆっくりお話もできなくて、申し訳ありませんでした。
江口さんが意地悪なんですよ、綺麗な方が一緒なのなら、
そうなんですとあらかじめ教えておいてくれたら、問題がなかったのに」


佑は軽く足を組んだまま、指を江口に向け、そう文句を言った。

江口はその言い方に、口元をゆるめる。


「いえいえ、専務がお忙しいのはわかってましたので。
昨日はご挨拶だけでと考えておりましたから」


佑の前には、すでに飲みかけのコーヒーが置いてあった。

その横には、テニスのラケット入れがある。


「悠菜さんは、テニスやりますか?」

「いえ……私は……」

「今度、よろしかったら僕が教えますよ。二人でやるのも楽しいですし、
一人でも、結構暇はつぶせます。ストレスがあっても、発散できますしね。
父にはゴルフをやるようにと言われているのですが、
どうも動きがなくて好きになれないんです」


悠菜は軽く頭を下げると、書類を江口に手渡した。

そのまま部屋を出ようとすると、ソファーに座るように指示をされる。


「いえ、私は……」

「これも、仕事ですよ」


江口はそういうと、悠菜をソファーに残し、

自分は逆に理由をつけて部屋を出て行ってしまう。

悠菜は、この場所に残されたまま、どうしたらいいのかがわからず、

うらめしそうに扉を見た。

佑はコーヒーカップを手に取り、口をつけようとしたが、笑い出してしまう。


「あはは……」


佑がなぜ笑うのかわからず、悠菜は一度大きく息を吐いた。

ここへ残されたのも江口の考えなのだろうが、近頃の態度はあまりにも強引で、

時折社員の目の前で、爆発しそうになる。


「悠菜さん……」

「はい」

「突然、渡瀬社長の娘だと知って、戸惑っているのでしょうね。
顔に出てますから」


佑にそう言われてしまい、悠菜はすぐに下を向いた。

無理に否定しても、またそれを笑われる気持ちさえしてしまう。


「本当に一度、テニス行きませんか? 
全くラケットを触ったこともないってことはないでしょ」

「まぁ……あの、学生時代の授業で少しした程度です」

「十分ですよ、空振りしなければ」


佑はそういうと軽く頷き、それまでよりも深くソファーに座った。

目はしっかりと悠菜を見ている。


「付き合っている男性は、いますか?」


佑の突然出てきた質問に、悠菜は無言のまま呆れた表情を作ることで精一杯だった。

初対面にも近いくらいの相手に、聞く内容ではないと、思ってしまう。


「失礼だと思っているのでしょ。僕も承知で聞きました。
答えたくないのでしたら、答えなくても結構です。まぁ、いたとしても、
今の江口さんの態度を見ていたら、どうってことないのかもしれませんけどね」


佑はそういうと残ったコーヒーを飲み干した。

悠菜は、このまま話をしているつもりにはならないと、席を立ちあがる。

佑に頭を下げて通り過ぎようとした瞬間、その左手が強く掴まれた。


「あの……」

「知らないふりはやめましょう。あなたがなぜ、昨日、会場につれてこられたのか、
薄々感じるものはあるでしょう。もし、全くわからないと言うのなら、
僕の口からお教えします」


佑は悠菜の腕をつかんだまま、どうですか? と問いかけた。

悠菜は、返事をすることなく、黙ってしまう。


「僕は来年31です。それなりに恋愛もしましたし、女性とも付き合いをしてきました。
でも、結婚をしようと思ったことはありません。結婚は別だと思っているからです」


佑は悠菜の腕を握ったまま立ち上がり、距離を近づけようと1歩前に出た。

悠菜は、元通りの距離にしようと、そのまま1歩後ろへ下がる。


「同じものを背負う覚悟を決めた相手と……ともに生きていくこと、
それが『結婚』だと、そう思っています」


同じものを背負う相手……

悠菜は、佑の言葉にふと昴のことを考えた。

佑は掴んでいた腕を離し、ラケット入れを持つ。


「直感を信じる方かどうか、わかりませんが……。僕は……」


佑は驚いたままの悠菜の横を通り、先に扉へ手をかけた。

そのまま振り返り、口元をゆるめる。


「僕は、あなたの驚きながらも、相手を睨む、
その強気な顔、結構好みですよ……それではまた」


佑が部屋から廊下へと向かい、パタンと音がして、扉はまた閉じられた。

悠菜はまた、江口の思うままに動いてしまったと腹立たしくなり、

そのまま部屋を出て行こうとする。

ドアノブに手をかけた状態で振り返ると、佑の残したカップだけが、

テーブルに残っていた。





いつもランチを一緒にするまどかが、今日は有給を取ったため、

悠菜は一人で会社の外に出た。

午後は特に急ぎの仕事もなかったため、資料集めをすると掲示板に書き込み、

駅から電車に乗り込んでいく。

『STW』に入り、広報部へ所属した後、すぐにCMの話が上がり、

必死に取り組んできた。綾音の協力もあり、それは成功に終わったものの、

そこから先へと続く、新しい意欲が沸いてこない。


『salon』の子会社にいた時も、『salon』へ移動してからも、

仕事が一つ終わると、また次へと気持ちがステップアップしていたのに、

どうしてそうならないのかと、電車に揺られながら考えた。

ある駅へ降り、流れと逆方向に歩き坂を登る。

悠菜が訪れたのは、以前、昴と来た公園だった。

昴の母親が、木々の中に見える『立原音楽大学』への思いを語った場所。

そして、昴が綾音へのこだわりを捨てた場所。

以前はさび付いていたブランコも、一度取り払われ、また新しいものが設置されていた。

悠菜は右側で不快な音をさせていた方を選び、座ってみる。

少しだけ体を揺らし漕いで見るが、嫌な音は何も聞こえてこなかった。

見上げた空には、夏の真っ白い雲が浮かび、少しずつ左へ流れていく。

悠菜の視界の中にいる雲は全てが消え、一面が水色の世界になった。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
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