54 Rewind 【巻戻し】

54 Rewind 【巻戻し】



通勤電車の中で、悠菜は吊り輪を掴んだ。

思いがけない場所で急ブレーキがかかり、車内アナウンスが入る。

事故が起きたのではないかと身構えると、前を走る電車との感覚が狭くなったため、

時間の調整をしながら進みますという内容で、とりあえずほっとする。



『君が許してくれるなら……』



昴の心は、悠菜から離れていたわけではなく、

抱えた事情の重さに、抑えつけられているだけだった。

どう問いかけても、納得出来る答えが戻らなかったのは、

昴自身に迷いも悩みもあったからだと、あらためて気付かされる。

何もかもを投げ出してと、見つめてくれた目を思い出し、

心だけでなく身体の中から悦びを感じ、胸を締め付けられた。

時間調整のために止まっていた電車は、またゆっくりと動き始め、

戦うべき場所へ企業戦士たちを運び出した。





地下鉄の階段を上がり、昴はまっすぐに『salon』へ向かう。

階段を2段上がったとき、小さなイヤリングが落ちていることに気付いた。

このままにしておけば、わからない誰かが踏みつけてしまうのは確実で、

昴はそれを拾い上げ、受付へ持っていく。


「おはようございます」

「あ……おはようございます」


受付には、すでに初美が座っていた。

昴は、今階段でイヤリングを拾ったと右手を開く。


「あら……」

「持ち主が現れるかどうかわからないけれど、とりあえずここで預かってもらえないかな。
探しに来ればわかるだろうし」

「そうですね」

初美は両手を広げ、昴からイヤリングを受け取ると、

ティッシュを折りたたんだ紙の上にそっと置いた。

昴は何気なく後ろを振り返ったが、探す素振りを見せる人は、現れない。


「畑野さん……」

「はい」

「あのお店へはもう行かれないのですか」


初美は、あれからも何度か店に顔を出したが、昴に会えなかったとそう言った。

昴は、あれから一度も顔を出していませんと返事をする。


「実はあれから……酔って手に怪我をしました。
妹が慌てて救急車を呼ぶことになって、強く怒られたものですから」

「救急車?」

「はい……。自分を見失うようなお酒の飲み方はするなと。それに……」


昴の横を、営業部の新入社員が通り過ぎ、『おはようございます』と挨拶をした。

昴もそれに答えるように、頭を下げる。


「深酒をしても、何も解決しないことがわかりましたので」


昴はそういうと初美に向かって頭を下げた。

エレベーターが到着したため、乗り込む人たちの流れに入っていく。

扉が閉まると、エレベーターはまっすぐに上がりだした。





悠菜が『STW』に到着すると、

『リアロ』との店舗関係で動くメンバーは、すでに社を出た後だった。

部長の席には、朝から珍しく田尾が座っている。


「おはようございます」

「あぁ、おはよう。住友さんのデスクの上に、『ブルーアイズ』の資料がありますから、
企画書の内容と照らし合わせて見ておいてください」

「はい……」


田尾の言うとおり、悠菜のデスクの上には『ブルーアイズ』の資料が積んであった。

バッグを横に置き、パンフレットをパラパラめくる。

ホテルにいくつか作られているテニスコートは、ナイター設備もあり、

会社帰りのサラリーマンたちが、仲間とプレーをすることもよくあると書いてあった。

悠菜は、江口のところで顔をあわせた佑のことを思い出す。



『同じものを背負う覚悟を決めた相手と……ともに生きていくこと、
それが『結婚』だと、そう思っています』



悠菜には、長い人生をともに歩むと決めることは、『覚悟』を決めることだと、

佑がそう言ったように思えた。それが何よりも大切であると宣言されたとき、

悠菜自身もその言葉に、強く共感できた。


「おはよう、住友さん」

「おはよう」


悠菜はパンフレットを閉じると、バッグを開き、手帳を開く。

忘れてきていないことを確認すると、必要な物だけ取り出して、バッグを閉めた。





その頃、綾音は『小麦園』でピアノに向かっていた。

子供たちはまだ学校で、園には康江と数名の職員しかいない。

康江は麦茶の入ったグラスを握り、その音色に耳を傾ける。

立て続けに3曲弾いた後、綾音は一度ピアノから離れ、康江の前に戻ってきた。


「近頃、悠菜さんから連絡、ありませんか?」

「私に?」

「はい……」


綾音は、悠菜と昴のことを、『STW』の関係者に語った後、

悠菜と連絡が取れなくなったと肩を落とした。

二人のことを思うあまり、余計なことをしてしまったのではないかと、下を向く。


「やはり、親のいない男はダメだって、強く反対されているのでしょうか。
ドラマなどで見ると、そういうことを言う人たちも多いみたいだし」


綾音は、昴と悠菜の間に流れる複雑な思いなど、何も知らず、

ただ、二人を結びつけてやりたいという思いでいっぱいだった。

康江は、事情を知っているだけに、どう答えていいのか迷ってしまう。


「綾音……」

「はい」

「綾音は綾音の思いで、そういう行動を取ったのでしょうけれど、
昴と悠菜さんにも、それぞれの思いがあるはず。だから、少し離れて見ていましょう」

「先生……」

「強く結ばれている絆があるのだとしたら、その絆を信じることも必要よ」

「絆?」


綾音は、昴と悠菜の間に、絆があるのかと康江に問いかけた。

康江は、それはわからないと首を振る。


「二人にしか……わからないものよ」


グラスの中に入っていた氷が、カランと音を立てる。

インターフォンが鳴り、宅配の男性が『こんにちは』と挨拶をした。





「それでは、これを通します」

「あぁ、頼んだよ畑野君」

「はい……」


昴は『HONEY』へ顔を出し、全ての契約更新を終えると店を出た。

区画整理によって流れを変えた商店街だったが、『HONEY』にはほとんど影響がない。

アンテナショップへの向かう波が、逆にあらたな客を生み出し、

オーナーも順調な流れに、満足そうな笑顔を見せた。

昴が時計で時刻を確認すると、すでに2時を回っていた。

このままなら、ほとんど定時に会社を出ることが出来る。


悠菜に告げた約束に、何時まで待つという条件はあえてつけなかった。

昴は、昨日、悠菜との別れ際に今日のことを約束し、今朝という日をを迎えるまでは、

来てくれると信じ、その時間が来ることを待っている気分だったが、

いざ、『その時』が迫ってくると、日付が変わるまで噴水の前にいても、

会えないのではないかという不安の方が強くなる。


商品を売り込み、迷う相手を導くのは得意だったが、

かけひきなど通用しない相手を待つのは、ただまっすぐな思いだけしかないのだと、

夏雲の浮かぶ空を見上げた。





悠菜が書類に目を通し終えて、壁にかかる時計を見ると、

時刻は午後4時を回ったところだった。

視線は広報部前の廊下に向かい、誰もいない窓を見る。

『STW』に初めて出社した日、あの窓から自分の姿を見ていたのは、

父のパートナー晴恵だった。ここへは世話にならないと決めていた自分が、

結局、こうして入ってきたことをよく思わないだろうと、

視線を合わせられなかったことを思い出す。

悠菜は席に座ったままで目を閉じると、少し大きく息を吸い込み、

ゆっくりと吐き出した。





「うわぁ……まずいですね」

「そうだな、今すぐに訂正の電話を入れて、納入日がどれくらい遅れるのか、
工場側に問い合わせないと」

「はい」


就業時間終了間際の『salon』では、小さなトラブルが起きていた。

入社4年目の営業部員はすぐに店舗側へ連絡を取り、

昴は工場側の返答を待つことになる。

立ち上がっているPC画面で時刻を確認すると、午後5時10分を過ぎていた。


「お先に失礼します」

「お疲れ様」


急ぎの仕事がない社員たちは、次々に営業部を出て行った。

席に荷物があるのは、外回りから戻っていない笠間と、

トラブルに関わっている昴と、残り3名ほどになる。

昴はポケットから携帯を取り出し、悠菜のアドレスを呼び出した。

会社を出るのが少し遅れるとメールを打とうとしたが、その手が止まる。

相手が来るつもりがあるのかどうかもわからないのに、送ってしまうと、

それがまた、別のプレッシャーを生み出す気がした。


「畑野さん、『春日部』から電話です」

「ありがとう」


春日部とは、今回の製品を作っている工場のことで、昴はすぐに受話器を上げた。

話は先にしておいたため、すぐに対処方法を話し合うことになる。


「申し訳ありません、こちらの発注ミスなのですが……はい。
あ、それでしたら3日後には届きますか」


昴はカレンダーで日付を確かめると、営業部から直接取りに向かわせると約束を交わす。

見上げた時計の時刻は、5時25分になったところだった。





「お先に」

「お疲れ様です」


トラブルの処理を終えた昴は、それから10分後、営業部を出た。

とりあえず携帯を取り出し、悠菜から何かメールが入っていないかを確認する。

自分にトラブルが起きたように、何か仕事で抜けられなくなる可能性もあると、

そう思ったからだった。しかし、メールの印は携帯になく、

『勝負』は今日だと、物語っているようにも思えた。





『salon』から、あの噴水がある場所までは30分くらいの距離だった。

今日も周りを囲む店には、大勢の客が入っている。

ヨーロッパ調の石畳を歩きながら、カフェオレを手に持ちながら歩くカップルもいて、

昴は、あのクリスマスの日、二人で座ったベンチへ向かい、黙って座った。

目の前の噴水は、あの日よりもさらに水の量を増やし、涼しさを演出する。

時刻は6時を回ったが、まだ、薄っすらと夕焼けの名残があり、

その光りが水に跳ね返るように見えた。


噴水を通り越した先には、『ブランカ』が見える。

悠菜があの日、店の前で立ち止まり、昴は店に入るかと問いかけたことを思い出した。

悠菜は強く否定し、足早に『ブランカ』から離れた。


悠菜の父親は、親からの遺産をしっかりと受け継ぎ、

『STW』を一流の企業として成長させた。

存在を確認し、受け入れた悠菜に対しても、それなりの期待があるはずだった。

『FLOW』に所属していた自分のことを、

温かく迎え入れることなどないこともわかっているが、

それでも、心の底から諦める気持ちにはなれなかった。



しかし、それも今日で、結論を出さなければならない。



昴は、石畳を歩く人の姿を確認しながら、だんだんと暗くなる街並みに、目を向けた。





「昨日?」

「はい、パーティーで少しお話をしたようですが、
昨日も佑さんの方から、我が社へ顔を出していただきまして」

「そうか……」


社長室では、勇が江口から仕事の報告を受けていた。

そして、佑が悠菜との縁談に、前向きになっていると話を付け加える。


「それがうまく運んでくれたら、我が社としてはありがたいことだけれど、
そううまく流れるのかどうか……彼女には、思っている男がいると、先日……」

「はい、しかし、それは……」

「『FLOW』に所属していた男だそうだな」


江口はポケットから書類を取り出し、目で内容を確認した。

勇にさらなる情報があると告げたとき、社長室の扉を強く叩く音が聴こえてくる。


「はい」

「申し訳ありません、広報部の田尾です。よろしいでしょうか」


田尾の慌てぶりに、江口は書類をポケットに戻し、社長室のドアを開けた。

田尾は1通の封筒を手に持ったまま、慌てた顔で飛び込んでくる。


「どうしましたか」

「すみません、まさかと思ったものですから、何も言わずに帰してしまいました」


田尾が握っていたのは『退職届』だった。

悠菜が退社する前、田尾のデスクに置いたのだという。


「退職届?」

「申し訳ありません、帰り際に『書類を置きます』と軽く言うものですから。
どうせ、取引先との書類だと思って、置いておいてくれと……」


田尾は、まさか『退職届』だとは思わなかったと、必死に頭を下げた。

江口は封を開き、中を急いで確認する。

ごく普通の社員が書くような内容の便箋と、もう1枚の便箋が一緒に入っていた。



『私は、住友悠菜として生きていきます』



「どうした、江口」


江口は悠菜が昴のところへ行こうとしているのがわかり、その便箋を握りつぶす。


「携帯電話に連絡を入れましたが、全く出てくれません」


田尾は汗をハンカチで拭きながら、申し訳ありませんを連呼する。

江口は、勇に向かって、悠菜が『退職届』を出してきたと言い、

これからの対処は自分に任せて欲しいと願い出る。


「今は、気持ちが乱れているだけでしょう。きちんと順を追えば、
理解できないわけはないはずです」


勇は、自分から逃げようとする悠菜の気持ちを思いながら、

すっかり暗くなった景色を、窓から見下ろした。





夕焼けの光りを受けていた噴水は、公園のライトによって、

色をつけ始めた。昴は時計で時刻を確認する。

笑いながら楽しそうに歩く人たちのことも、高く上がる噴水の水も、

風に揺れている木々の緑も、もう飽きるほど見ていたため、

どこに視線を置いていいのかがわからなくなる。

この場所を離れて、何か飲み物でも買おうかと思ったが、

もし、自分が見えないからと、悠菜が帰ってしまっては困ると、

ベンチから動くことなく、ただ座り続ける。

ポケットから取り出した携帯には、数件のメールが入っているが、

それは全て仕事がらみであり、悠菜からは1通も届いていない。


綾音を『ピアニスト』にするため、全ての感情を投げ捨ててきた。

それを辛いと思うことよりも、成し遂げたときの喜びの大きさを思い、

あえて見ない振りをし続けた。

世間一般からすれば、自分がしてきたことはとんでもないことで、

だからこそ、大きな報酬を得てきた。

昴は、今更ながら失ったものの大きさをかみ締め、ため息をつく。

心が寂しくなることが、これほど辛いことだとわかり、

戻らない日々に押しつぶされそうになる。


「畑野さんは、ブラックですよね」


下を向いた昴の耳に届いたのは、悠菜の声だった。

後ろを振り返ると、

確かに悠菜がプラスチックのコーヒーカップを二つ手に持ち立っている。


「のど、渇きませんか? これ、移動車のコーヒーなんですけど、
美味しいんですよ」


悠菜はブラックのコーヒーを昴に向かって差し出した。

昴はそのカップを受け取り、無言のまま小さく頷き返す。


「私、ここまで、後悔しないように、ゆっくり、ゆっくり歩いてきました。
途中で気持ちが変わったら、引き返そうと思って。
でも、気持ちはどんどん前に向かっていて、引き返そうとは一度も思わなかったんです」


悠菜は両手でカップを持ちながら、少し笑みを見せる。


「あなたに……会いたくて……」


昴は悠菜の言葉を受けながら、小さな声で『ありがとう』と答えを返す。

悠菜はベンチの隣に腰かけてもいいですかと尋ね、昴は少し右にずれた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント