55 Conflict 【対立】

55 Conflict 【対立】



クリスマスの日に並んだベンチで、昴と悠菜は再出発することを決意した。

二人の状況は変化してしまったものの、

互いの気持ちの中はあの日のままであることも確認する。

悠菜が渡したコーヒーの中身が、半分を過ぎた頃、空はすっかり闇の色になった。

無言のままだった二人の間に、言葉を戻したのは悠菜だった。


「私、『退職届』を出してきました」


悠菜は、広報部長の田尾が、おそらく『退職届』だとは気付かずに受け取り、

今頃、驚いているのではないかと、笑みを浮かべた。

昴は、悠菜が自分のために父親から離れる選択をしたのかと、気持ちが重くなった。

それでも、悠菜の性格からして、こうなることも予想できたため、

申し訳なさでどう答えていいのか、すぐには言葉が見つからなくなる。


「畑野さんのことがあるとかないとか、そういうことではありません。
今は、そう言っても、そう思ってはもらえないでしょうけれど」


悠菜は、『salon』を退職した時も、本当に『STW』に入社するつもりはなかったが、

笠間の気持ちに答えを出すために、あえて飛び込んでみたと口にした。


「ただ頭から嫌だと思うより、
中に入ってみて判断することが必要かもしれないと、思ったことも事実です。
実は、橋場部長にも言われました。企業としては『salon』よりも数段上だと。
私も、入ってみてそう思いました。優秀な方は多いですし、
何よりみなさん仕事に真剣です」


悠菜は、会議一つにしても、得るものが多く、勉強になったとそう口にした。


「だとしたら、なぜ」

「私が、私らしく生きていけないからです」


広報部長の田尾は、すでに悠菜が勇の娘であることを知っていて、

仕事をさせていること、そして、秘書の江口は、

悠菜が会社に深く関わることを望んでいて、自由を奪っていくこと、それを訴える。


「『ブルーアイズ』をご存知ですか? 畑野さん」

「はい、有名なホテルチェーンですよね。
『STW』のトータルコーディネートで話題にもなった」

「そうなんです。先日、パーティーでその専務……というか、
社長の次男の佑さんにお会いしました。
仕事で向かったはずなのに、急にそんな相手が目の前に出てきて……」


悠菜は、近頃、色々な動きが仕組まれているように思えてならないと、

そう不満を口にした。

昴には、渡瀬側が悠菜とその次男を結び付けたいと考えていることがすぐにわかる。


「佑さんに、こう言われました。
『同じものを背負う覚悟を決めた相手と……ともに生きていくこと、
それが『結婚』だと、そう思っています』と。好きだとか嫌いだとかだけではなくて、
同じものを背負う覚悟、それが大事だって」


悠菜はストローに口をつけると、まだ少し残っていたコーヒーを飲み干した。

そして、ふぅと軽く息を吐く。


「私、あの場所に何一つ、それを感じていなかったなって、そう思って……」


悠菜は、『salon』で仕事をし始めた頃、営業マンとして向き合う相手とは、

常にその緊張を持っていたと語り始めた。自分薦める商品に自信を持ち、

それが売れないわけがないと、強く企業側に迫り続けた。

『失敗も成功も、一緒に』という熱意が、相手側に伝わり、

盛業成績が自然と上がっていった。


「生きていくことは、甘いことばかりではないこともわかっています。
だからこそ、『同じものを背負う覚悟』なら、私は、『STW』ではなく、
畑野さんと一緒に、背負って生きたいと……そう思って……」


悠菜はそういうと、昴の方を向いた。

悠菜の見せる決意あふれた表情に、昴は、出会った頃の力強さを思い出す。

信じたものに向かって進もうとする、懐かしい顔がそこにあった。


「住友さん」

「はい……」

「君から、色々なものを奪うことは、本当に申し訳ないと思うけれど、
そう言ってくれるのなら、僕は精一杯それに応えようと思っている」

「はい……」

「誰に何を言われても、もう、引くつもりはない」

「はい」

「それで……いいよね」


悠菜は小さく数回頷くと、嬉しそうに笑顔を見せた。

お腹が空いたので、どこかに行きましょうと立ち上がる。

昴も遅れて立ち上がると、二人は並んで歩き出す。

昨年のクリスマスから、季節は真逆の夏を迎えていた。





今までのぎこちなさがウソのように、二人の食事は笑顔の絶えないものだった。

悠菜は、以前初美と『salon』を出て行く姿を見て、

昴がモデル並に綺麗な人だから、心を移したのだと思ったことを語る。


「あぁ……そう、園長先生からその話は聞いたんだ。住友さん見ていたんだね」

「はい、ちょうどタイミング悪く」

「彼女は豊川に言い寄られていて、苦労しているみたいだ。
その相談を受けただけで……」

「豊川? うわ……」


悠菜は、ある意味、全く何も考えない豊川みたいな男性が、

一番強いのかもしれないと、感想を述べた。昴もそれには納得したように頷き返す。


「住友さん、もう一度これを受け取ってもらえるかな」


昴がポケットから出したのは、先日『小麦園』で悠菜が返してきたパスケースだった。

昴は、戻されたことはわかっていたけれど、毎日背広のポケットに入れていたと、

正直に語る。


「これを持っていることで、
まだ、どこかでつながっていられる気がしていたのかもしれない」


昴は、諦めが悪いのですと口元をゆるめた。

悠菜はバッグから財布を出すと、中から定期だけを取り出した。


「私も諦めが悪いのかもしれません。自分でつき返したのに、
他のパスケースを使う気になれなくて。こうして財布の中に……」


悠菜は照れくさそうに笑うと、昴から戻されたパスケースに定期を入れる。

互いに気持ちだけはつながっていたのだとわかり、

どちらも言葉を出すことなく下を向いた。


「あ、そうです。綾音さんは元気ですか?」


悠菜は、少し重くなりかけた空気を取り払おうと綾音のことを話題にあげる。


「うん……君のことはあえて互いに話題から避けていたから、
近頃は部屋に篭っていることが多くて」


昴は、話をしてもどこかぎこちなく、続かないのだと正直に語った。

悠菜は、綾音と初めて会った頃の、少しおどおどした表情を思い返す。


「綾音さんが江口さんに詰め寄ったときには、どうしようかと思ったんですけど、
結果的には、それがよかったのかもしれません」


悠菜は、選考会の後、綾音が江口に訴えたことを昴にあらためて説明した。

昴は、綾音があの日戻ってきた後、そんなことは何も言わなかったと口元をゆるめる。


「お兄さん思いの、いい妹さんです」

「……ありがとう」


綾音の無謀とも言える行動によって、

大きな方向転換をすることが出来たことは間違いなかった。


「そろそろラストですよね、クリアコンクールのコンサート」

「あ……うん」


悠菜は、流れる空気を変えようと、コンサートのことを話題にした。


「見に行かなくちゃ」


悠菜は、また綾音の生演奏が聴けると喜び、

昴もチケットを忘れないようにすると、約束した。

そして、二人は食事を終え、揃って駅へ向かう。


「住友さん」

「はい」

「一つだけ言っておきたいことがあるんだ、いい?」

「はい」


昴は、悠菜が退職を希望したことで、間違いなく『STW』側が動き出すとそう忠告した。

勇も江口も、このまま黙っているとは到底思えない。

そうなると、まともにぶつからないとならないのは悠菜の方だった。


「君を守ろうとする人が、あれこれ言ってくるだろう。
その時は、僕をかばおうと思わなくていい」

「畑野さん……」

「自分を守ることを、優先に考えてくれ」

「どういう意味ですか?」

「たとえば、僕が『FLOW』にいたことを明らかにするとか、
そう……会社に話すとか、綾音に伝えるというようなことを言われたとしても、
それをやめさせようとして、条件を飲むようなことはやめて欲しい」


昴は、悠菜が我慢するような条件を、絶対に受け入れないで欲しいとそう言った。


「でも、綾音さん……」

「いいんだ。もし、それを綾音に伝えると言われたら、それはそれでいい。
綾音にも、本当のことを話すから」


昴は、綾音がもしそれに反発したとしても、裕が受け止めてくれるだろうと、

そう言った。悠菜は、昴の言葉に、『覚悟』を思い知る。


「君が、僕の過去を受け入れてくれた。それだけで十分だ。
あとは、何が起きても、怖いとは思わない」


悠菜の抱えている事情を知り、自暴自棄になった日々。

お酒を飲まないと毎日眠ることが辛くて、呆然とした時間。

うなされ続けた夜の暗闇と、心の穴。

昴は、目の前の悠菜をしっかりと見る。


「君を失うことの大きさに比べたら、乗り越えられないことは何もないと、
今は本当にそう思うから……」


悠菜は昴の気持ちに応えるように、何度も頷いた。

『同じものを背負う覚悟』を決めた二人は、明日を約束し、互いの電車に乗り込んだ。





悠菜が駅からアパートへ向かっていくと、1台の車が止まっているのが見えた。

おそらくこうなるだろうということも予測していたため、

前を見て、まっすぐ堂々とその車に向かって歩く。

中から出てきたのは、秘書の江口で、悠菜の顔を見ると、頭を下げた。


「どうして私がここへきたのか、お分かりですよね」

「はい」

「それならばよかったです。この『退職届』を受け入れるわけにはいきませんので、
お返しします」

「いえ、受け取らないという権限は、会社側にないと思います」

「悠菜さん……」


悠菜は、江口の差し出した『退職届』を、受け取ることなく押し返した。


「私は、一時の迷いで決めたわけではないのです。自分の人生を歩む覚悟で、
その届けを出しました。拒絶される理由がわかりません」


悠菜の言葉は、強くまっすぐだった。

昴が別れ際に語ってくれた誓いが、気持ちを強く変えてくれる。


「『FLOW』に出入りしていた男と、生きていくと、そう……」

「記号のように言わないでください。畑野さんにはしっかりと名前があります」

「畑野昴が、どういうことをしていたのか、全て……」

「わかっています。わかって、悩んで……それでも私の気持ちは変わりません」


江口は、全くひるむことのない悠菜に対し、目の前で届けを半分に破り捨てた。

悠菜は何度でも書いて提出しますと宣言し、江口を抜き去ろうとする。

数歩前に進んだところで、言い忘れたことがあると思い振り返った。


「江口さん……」

「はい」

「一つだけうかがいたいことがあります。聞いていただけますか」

「何でしょうか」

「私が渡瀬勇の娘だと、『salon』の耳に入れたのは、あなたですよね」


『salon』を退社する前に、橋場と話をした中で出た言葉を、

悠菜はずっと胸にしまっていた。

悠菜は、住友悠菜が渡瀬勇の娘だということを、『salon』側に伝えることで、

何か利益のある人物を、半年の時間の中であれこれ考えた末に、

それが江口であることを導いたと言う。


「始めは、渡瀬さんの奥さんとも考えましたが、それはあり得ないことです。
私が『STW』に入り込むことを、望んではいないので」


江口は黙ったまま悠菜を見続け、その言葉が途切れるのを待っているように見えた。

悠菜は、しっかりと江口を睨み、これで正しいのかという視線を送る。


「だとしたら……その推理が当たっているとしたら、何か問題はあるのでしょうか」


江口は否定をしなかった。

悠菜は、それだけで推理が当たっていたのだと確信する。


「渡瀬さんの秘書としては、問題はありません。でも、私は負けませんので」

「負ける? それは……」

「私は、一番欲しかった物を手に入れました。だから、絶対に負けません」


悠菜は、戸惑いとすれ違いを繰り返しながら、昴の気持ちを知ったことを、

そう表現した。江口は明日の予定を語り、悠菜の宣言を無視したような態度を取る。


「何度破られても『退職届』は出しますし、何を邪魔されても私は折れません。
私の人生は、私のものです」


悠菜はそう宣言し直すと、江口の目を見ることなく、アパートへ向かった。





悠菜と別れた昴は、駅を降りるとマンションへの道を歩いた。

いつもの何も変わらない道なのだが、街灯も明るく見える。

悠菜と別れてしばらくたった今の方が、喜びが大きくなっていた。

全てを知った悠菜が、自分を選んでくれたことで、

これからどんな問題にぶつかっても、支えになるような気がする。

昴は一歩ずつ前を向き歩き続けた。


「お帰りなさい」

「ただいま」


昴は綾音にそう答えると、着替えるために部屋へ入ったが、

すぐにまたリビングに顔を出す。


「綾音」

「はい」

「コンサートのラストは来月だったな」

「うん……」

「今度はチケット買い忘れないようにするから」

「うん……」


綾音は使っていたグラスを手に取り、それを流しに入れる。


「住友さんも、楽しみにしているって」

「……エ!」


昴の口から、悠菜の名前が出たことに驚き、振り返ると、昴は部屋に向かった後だった。

綾音は濡れた手をすぐに拭き、昴の部屋をノックする。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

「なんだ」

「今、住友さんって言ったよね」

「あぁ……」


昴は、扉を開けると照れている顔が見られてしまうので、

着替えているからと理由をつけた。扉を挟んだ状態で、今日も一緒にいたと話をする。


「そうなの? 今日?」

「食事をしてきた」


綾音は、どういうことなのか詳しく聞いてみたい気もしたが、

どうせ昴は細かく語ることはないだろうと思い、コンサート頑張るからと宣言する。


「失敗なく頼むよ」

「わかってます」


昴はネクタイを外し、それを椅子にかけると、

嬉しそうな綾音の声に、自然と口元がゆるんだ。





悠菜は次の日もまた『退職届』を田尾の席に置いた。

田尾は、周りを気にしながらこれは受け取れないと拒絶する。


「なぜですか、受け取れない理由が……」

「住友さん、君だってわかるだろ。僕がこれを受け取ることが出来ない理由は……」


江口から悠菜のことを頼まれている田尾の立場からすると、

それは当然のことだった。悠菜はそれならば結構ですと封筒を手元に戻す。


「住友さん」

「すみません、私もこれを撤回するわけにはいかないのです」


悠菜は田尾に頭を下げると、そのまま広報部を出た。

そして、エレベーターに乗り、勇がいると思われる5階へ向かう。

扉が開き、悠菜が外へ出ると、廊下はまだ静かなままだった。

悠菜は一歩ずつ社長室に近付いていく。


「悠菜さん」


扉を叩く前に声をかけたのは、江口だった。

いくら社員だからといって、社長室に勝手に出入りすることは許されないと言う。


「だとしたら、お会いできる時間を教えてください」

「今日は無理です」

「5分で構いません。部長に受け取ってもらえない『退職届』を出すだけですので」

「それなら、昨日お話を……」

「あなたには、何も言われたくありません」


悠菜は、江口の方を睨んだまま、常に前に出てこられることが迷惑だと言い切った。

江口は黙ったまま、その場に立ち続ける。


「私が父のことを調べたのは、こうなるためではありません。
母が愛した人のことを知りたかった。自分がどういう経緯で生まれたのか、
それを知りたかっただけです。なぜ母はその人と結婚をしなかったのか、
それがわかればよかった。渡瀬勇という人が、大きな会社の社長であっても、
どこかの土地を耕している人でも、船に乗る人でも、
そんなことはどうでもよかったんです」

「人には生まれ持った運命があるのです」

「いえ、違います。それは諦めた人が使う言葉です」


悠菜の後ろで、社長室の扉が少しだけ動きを見せた。

江口は一瞬その動きを捉えたが、そのまま悠菜の方へ視線を戻す。


「自分の気持ちを押し通すことなく、
親から言われたことを飲み込むことを選んだ人たちが、
苦し紛れにそういうことを言うのです。運命など生まれながらに決まっていません。
運命は……自分で切り開くものです」


悠菜は左手に持った『退職届』を強く握り締めたまま、

江口の方を見続ける。


「畑野昴が、『FLOW』で何をしていたのか、知ったとおっしゃいましたが、
所属していたという事実だけではないのですか」

「全て知りました。どういう方と契約をしてきたのか、それも全て知りました」

「では……」

「はい……渡瀬晴恵さんのことも……」


悠菜は、昴が自分のためにその事実を隠そうとしてきたこと、

それによって、二人がすれ違い、互いに傷ついたこと。

悠菜は、それでも昴を愛し、二人で荷物を背負う覚悟を決めたことを必死に訴えた。


「住友悠菜として、生きていきたいのです。それを認めてもらえるまで、
私は諦めませんから」


悠菜は黙ったままの江口の横を通り、エレベーターのボタンを押した。

扉が開き、それに乗り込むと3階へと戻っていく。

エレベーターの動く音が聞こえ始めたとき、少しだけ開いていた扉から、

勇が姿を見せた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

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こんばんは
ありがとうございました。直しました。

良かった~^^

良かった~
途中、読みながらウルウルしちゃってました(TT)

これから先、どんなことが起こっても
二人で立ち向かう決意、読んでる私にとって嬉しくて^^
悠菜の態度にも、ガンバレ!!江口に負けるな!!です^^

ありがとう

yokanさん、こんばんは

>これから先、どんなことが起こっても
 二人で立ち向かう決意、読んでる私にとって嬉しくて^^

突き進む時期から、惹かれ会う時期になり、
そして悩みの時期を越えた二人です。

結末まで、お付き合いください。
いつもありがとうございます。