56 Belief 【信念】

56 Belief 【信念】



「江口……」

「申し訳ありません、社長」

「いや……そうではない」


勇は、悠菜に気付かれないまま、江口との会話を全て聞いていた。

悠菜がエレベーターに乗った後社長室へ戻り、江口はその後に続き中に入る。

江口は、自分の力不足だと謝罪し、これから畑野昴と連絡を取り、

こちらの立場を訴えると言い始めた。


「よしなさい」

「社長……」

「江口、今、強引にことを動かそうとすれば、
さらにあの子は、頑なにこちらを拒絶することになる」

「しかし……」

「あの子のいうとおりだ。私も、幸せにしてやれなかった苗子がどうしているのか、
現在幸せに暮らしているのか、それを知りたくて、調査を依頼した。
もし、別の男性と結婚し、生活をしていたのなら、気持ちの整理がつく気がした。
悠菜という娘がいて、成長してくれたことを知っただけで、
それでよかったはずなのに……いつの間にか、それを取り込もうとしていて」

「社長、悠菜さんは間違いなく娘さんなのですから、それは……」

「今の私の行動を見たら、苗子はきっと怒るだろう」


勇の言葉に、それまで強きな態度を見せていた江口は、言葉が続かなくなる。


「悠菜は、苗子の娘だと、今の話を聞いて、あらためてそう思ったよ。
自分を持ち、決して流されることはない。あの頃の苗子、そのものだ」


勇は、黙ったままの江口に背を向けると、窓の外に広がる景色へ目を向けた。





昴が取引先から戻ると、女子社員が二人立ち話をしていた。

それまで笑っていた二人は、昴の顔を見ると慌てて離れていくように思えてしまう。

悠菜が会社を辞めると宣言し、それを実行に移したとしても、

向こうからの邪魔が、これだけ早く入ってくるとは思えなかった。

しかし、目をそらす人がいると、思わず『FLOW』でのことが耳に入っているのかと、

考えてしまう。


「お疲れさまです」

「あ……うん」


声をかけてきたのは、笠間だった。

笠間は、昴がうかない表情を見せているので、どうしたのかと尋ねてきた。


「いや、今そこで話をしていた女子社員が、
私がここへ来たら急に離れて仕事へ戻った。避けられているのかなと、少し……」


笠間は、昴が見ている方へ視線を動かし、

会話に上がった女子社員たちの動きを確かめる。


「そんなこと、当たり前じゃないですか、畑野さん」

「当たり前?」


笠間は、昴が以前と違い『部長代理』のポストに正式につき、

人を評価する立場になったのだと説明した。

社員たちは低い評価を受けたくないため、

どうしても構えることが増えると付け足していく。


「評価……」

「そうですよ。あの子は仕事中私語ばかりしていると、報告されたら困るって、
みんな多少は考えますからね」


笠間はそう言いながら、それでも昴の人柄を知っていけば、

また変わりだすと前を歩く。


「まぁ、俺くらい畑野さんの評価が高ければ、構えちゃうこともないんですけどね」

「ん?」


昴と笠間は、互いに席につくと、無言のまま顔をあわせた。


「畑野さん、そこ、そこはそうだなって笑って言ってくださいよ、
冗談にならなくなるじゃないですか」


笠間は、以前のように、また昴と接してくれるようになっていた。

昴は、笠間の潔さと、男らしさに頷き、デスクの上が汚いとわざと指摘し、

その好意をありがたく受け取った。





悠菜は田尾が受け取らない『退職届』を、勇宛てに送ることにした。

住所は、調査依頼をした手紙に、載っていたのでそれを使う。

自分が住友悠菜として生きて行きたいことを手紙に書き、封筒に入れ、

封を閉じようとしたが、その手が止まった。


母を失い、ひとりになったと思った自分の前に、勇が現れてくれたときは、

戸惑いながらも嬉しさの部分が多く、母へ贈ろうとした指輪をくれたことも、

悠菜にとっては、ありがたいものだった。

勇は常に紳士的に悠菜に接してくれ、決して無理なことは言わなかったし、

強引な態度に出てくることもなかった。

昴と生きていく以上、これから先は二度と会わないくらいの思いがなければ、

互いに傷つくことになる。

それでも、全てを覚悟したうえで、自分を選んでくれた昴のために、

悠菜はしっかり糊付けをすると、封を閉じた。





「はい、これ」

「ありがとうございます」


綾音が続けてきたコンサートの最終公演が、

東京の『ハーモニーホール』で開かれることになった。

その日は、九州から裕が出てくることも決まっていて、

チケットはすでに送ったと説明を受ける。


「綾音がこれだけ大勢の前でピアノを弾くのは、これが最後でしょう」


昴は、綾音が大学の紹介から、音楽教室の講師をすることになったと言い、

悠菜はカップに口をつけようとしたが、その動きを止める。


「小学校の音楽教師になりたいと言っていましたが、どうも変えたようです」

「変えた?」

「綾音は、将来、自分で音楽教室を開くのだと、そう言っていました。
『小麦園』に出入りして、ピアノを教えているうちに、
ピアノを持てない子でも、音楽が好きな子がたくさんいるから、
そういった子供たちが、遠慮なく来られて、楽器に触れる場所を作りたいと……」

「そうなんですか」

「はい。いずれは裕君が独立して、調律も引き受けるそうですよ。
夢だけはどんどん膨らんでいるみたいで……」

「素晴らしいですね」


昴は、こうしてまた悠菜と会っていることを綾音が知り、

とても喜んでいることも、合わせて語った。

悠菜は、常に心配してくれた綾音のことを思い出す。


「綾音さんがいてくれたから……諦めなかったのかもしれません」


昴とのことももちろんだけれど、綾音自身とのつながりがとても大事だったと、

悠菜は色々な出来事を思い出しながら語り続ける。

昴もそれには何度か頷き、自然と笑みがこぼれていく。


「渡瀬さん宛てに、『退職届』を送りました。
もう届いているはずなのに、何も言われていません」

「そうですか」

「畑野さんの方には、何か……」

「いえ、何も」

「そうですか」


二人の食事が終わりに差しかかった頃、外から雨の音がし始めた。

その雨粒は大きく、さらに雷が加わると、強いものへと変わっていく。


「こうした雨が降って、夏から秋へとだんだん涼しくなるのでしょうね」

「そうですね」


二人はしばらく外を見つめ、雨が上がるまで、話し続けた。





雨が上がったために駅へ向かうと、そこには人だかりが出来ていた。

地下鉄の構内にが水が入りこんでしまい、電車が止まっているというアナウンスが入る。

すでにバスやタクシーを待つ場所は、長蛇の列になり、

何時間待てばいいのかすらわからなくなっていた。

帰宅を諦めたサラリーマンたちが、

駅前にあるいくつかのビジネスホテルに入ったようで、

その場所もすでに満員状態となる。


「あの雨で、こんなことになるとは思わなかったですね」

「そうだね」


駅員に尋ねると、3つ先の駅では、折り返し運転が始まっていると聞かされる。

悠菜は、散歩のつもりで歩きましょうかと声をかけ、

二人は少しずつ駅を離れた。


「少し待ってもらってもいいですか」

「何か」

「歩きやすい靴を買ってきます」


悠菜は駅近くにあった店に入り、ジョギングでも使えそうなシューズを買ってきた。

道の端で履き変えると、これならどこまででも行けそうだと笑顔を見せる。


「どこまでも?」

「はい……明日の朝が来るまで、でも」


悠菜はそう自信たっぷりに言うと、軽くなった足で前に進み始める。

昴もその後を続くように、歩き始めた。

駅の混雑を逃れた人々で、しばらくは道にもそれなりの人の姿があったが、

2駅越えたあたりで、その慌ただしさは消えていた。

思っていたよりも、電車の復旧は早かったようで、

地下鉄の駅へ向かう人の姿もちらほら見え始める。


「電車、動き始めたみたいですね」

「そうだね……」


歩いていた時の話題は、二人が一緒に関わった『HONEY』のこと、

綾音の話、そして、悠菜が『STW』で感じた『salon』との違いなど、

昔と同じようなものだった。

それでも、昴の足も悠菜の足も、歩みを止めようとはせずに、さらに先へと進み出す。


「畑野さん」

「何?」

「最初の予定通り、もうひと駅、歩いてもいいですか?」


悠菜はそう言うと、昴の方を向いた。


「もちろん。あ、そうだ。もし住友さんが望むのなら、最初に言っていた通り、
明日の朝まででも……僕は構いませんが」

「ありがとうございます」


悠菜は自分の足元を見ながら、それでも嬉しそうに返事をした。

二人は人が集まる場所を離れ、いくつかの街灯が並ぶ道をまた歩き出す。


「今振り返ってみると、私にとって、母が亡くなったことは大きなことでした。
兄弟もいないので、心を見せられるのが母だけだったから」

「わかります」


昴も、同じように母親を亡くした過去があるため、

気持ちだけは理解出来ると答えを返した。


「私は自分が一人だから、一人でも仕方がないと思って生きてきましたけれど、
でも……本当は畑野さんも、ずっとひとりで生きてきたんですね……」


悠菜は、同じように親を亡くした昴が、誰にも思いを話せないまま、

長い間ずっと、ひとりで過ごしてきたのだとそう言った。

少しだけ笑みを浮かべていた昴の表情が、一瞬で変化する。


「私が父を捜したのは、この世に誰か自分とつながっている人がいてくれたらと、
そう思ったからでした。確かに、納得も出来ましたし、
色々とわかったこともあったけれど、くすぶっていた気持ちは、
何も解決出来ませんでした」


並んでいたはずの歩みが、少しずつ遅れ始める。

昴は、後ろに残される悠菜の方を向く。


「畑野さんに仕事を教えてもらえることになってから、
私、その歩く速さについていくのが大変で、必死に歩いた記憶があります」


悠菜にそう言われた昴は、

いつも聞こえたヒールのカツカツという音を思い出した。

あの時は、悠菜が着いてくるとか来ないとか、そんなことを気にしたこともなく、

マイペースだった。


「それでも、だんだんと進み方に慣れていって、並べるようになったときは、
本当に嬉しくて」


昴は、悠菜の話を聞きながら、歩みの中に自分の心境の変化があったことに、

あらためて気付かされた。

悠菜が隣に歩くことを期待し、当然だと思うようになった頃、

頑なだった心は、いつの間にか溶かされていた。


「そうか……そうでしたね。人にあわせて歩くことなんて、
全く考えてもいませんでした」


昴はそういうと、また横に並んだ悠菜の顔を見た。


「今日の歩みは、大丈夫かな」


昴は、悠菜に無理をさせてはいないかと、そう問いかけた。

悠菜は、笑顔のまま首を横に振る。


「畑野さん」

「はい……」

「私は、あなたの心を、包むことが出来ますか? ひとりじゃないんだって、
そう思うことは出来ますか?」


悠菜は昴の心がずっと抑えられてきたことを知り、

あらためてそう問いかけた。

自分という存在が、その苦痛を和らげることが出来るのかと、心配そうな顔をする。

昴は、悠菜の腕をつかみ、そのまま体を引き寄せた。

悠菜のぬくもりが、昴の肩から全身に触れていく。

悠菜は、昴の孤独だった気持ちを理解し、寄り添うことを選んでくれた。

昴は、その問いかけが嬉しくて、離れがたい思いを示していく。


「僕は……あなたを包むことが出来ますか?」


一人ではないことを知りたくて、父を捜した悠菜から、

結局はその父を奪ってしまうことになった自分に対し、

その罪を許すことが出来るのかと、昴もあらためて問いかけた。

悠菜は、首を軽く振りながら、昴の不安を取り除こうとする。

昴の左手が、悠菜の髪にそっと触れ、その感覚に動きが止まる。


「……はい」


悠菜は、恥ずかしそうに、それでいてハッキリと思いを伝えた。

昴は悠菜の答えに安堵し、ありがとうと返事をする。


「初めて畑野さんにお会いした時から、今もずっと……
私はときめいたままです」


悠菜はそう告げると、もう一度、自ら昴の胸に顔をうずめ、

昴は大切なものを包むように、悠菜の背中に腕を回した。





窓の外から、2匹の猫が威嚇し合う声が聞こえ、

リビングのテーブルでうたた寝をしていた綾音が目覚めると、

時計は夜の12時を回っていた。

レッスンを終えたピアノは、まだ開いたままになっている。

綾音はピアノの蓋を閉じると、楽譜を上に置いた。

灯りのない玄関の方を見るが、昴が戻って来た雰囲気はどこにも感じられない。

綾音は、書きまとめたレポート用紙を集め、ファイルに入れると、

火の元をもう一度確認し、リビングの灯りを消した。





昴は、隣に眠る悠菜の寝顔を見ながら、心の底から沸き上がる思いを感じ続けた。

何も語らない人の顔を見ているだけで、気持ちが落ちつき癒されるという感情は、

思い出せないほど昔に、かすかにあったと言えるくらいのものだった。

長い間、互いに抑えていた感情が表へ出たことで、

そこから先は、語らなくても歩みが揃ってここまで来た。

思いあう気持ちを伝え合うために、昴は悠菜を抱きしめ、

そして全てを重ねあった。



今、心と体の中に残る余韻は、何ものにも変えられない気がして、

昴は思わず、悠菜のほおに触れてしまう。

ピクリと動いた悠菜は、両目を開け昴を見た。


「……ごめん」

「ううん……狭くてごめんなさい」


悠菜は、ベッドが狭くて眠れないのかと昴に問いかけた。

昴はそうではないのだと首を振る。


「……離れたくなくて」


昴は、悠菜を見つめながら、そう自然につぶやいた。

互いの目が、心と体を動かし、二人はもう一度抱きしめあいながら唇を重ねた。





次の日、昴は、悠菜のアパートからマンションへ戻った。

綾音は大学に出かけた後で、リビングに入るとネクタイを外す。

ワイシャツを脱ぎ、風呂場でシャワーを捻ると、湯気を上げるお湯を体に受け始める。

目を閉じたまま、愛しい人を抱き寄せた幸せの余韻を、胸に刻み込んだ。





悠菜の送った『退職届』は、確かに勇に届いていた。

会社に提出しなければならない正式なものと、勇宛の手紙も一緒に入っていて、

折られた便箋を開くと、悠菜の文字が現れる。

母を亡くした自分の前に、勇が出てくれたことがとても嬉しかったことや、

いざとなったら頼りにしなさいと声をかけてくれたことも、

とても有り難かったと、書き込まれていた。

しかし、自分が生きていきたいのは、渡瀬勇の娘としてではなく、

住友悠菜としてであり、そのわがままを認めてほしいと締めくくられている。

勇は便箋を閉じ、封筒に入れると内線ボタンを押した。


「江口は……」


勇は、江口が社に戻ったら、すぐに社長室へ顔を出すようにと告げ、

内線を切った。





『Flow』
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