57 Only 【唯一】

57 Only 【唯一】



昴は着替えを終えると、駅に向かった。

商店街では子連れの母親が自転車を走らせ、立ち話をする女性がいる。

そして、ラッシュではない昼間の電車に揺られた。

車内は、子供連れの女性や、問題集を睨みつける学生が多い。

いつもの風景ではないものがとても新鮮で、つい、あちこち目を動かしていく。


「ママ、ねぇママ」


幼稚園に入園する前くらいの小さな子供が、窓から外を見たいとごね始め、

母親は迷惑になるからと説得したが、その頬は膨らみ、首を振る。


「それじゃ……靴を……」


母親は子供の靴を脱がせ、座席の下に揃えた。子供は嬉しそうに反対を向き、

車内からの景色を見始める。

昴は、そんな親子を見ながら、ふっと口元がゆるんだ。





通勤時間からずれたため、オフィス街の駅に降りる客は少なく、

昴は広々とした階段を上がると、そのまま『salon』へ向かった。

早めのランチへ向かう人の波とは逆にエレベーターへ乗り込む。

営業部へ入ると、数名の社員から挨拶をされた。

部長の橋場は、大阪で会議があるため留守になっていて、

昴のデスクの上に、指示書が置かれている。

そのメモの隣に、女子社員が書いた別のメモが1枚、貼り付けてあった。



『江口様 午後1時にもう一度連絡を下さるそうです』



そのメモには、書いた社員の名前がサインされてあったので、

昴は江口という人が、どこの取引先の社員かと尋ねた。

女子社員は、所属がどこなのか何度か聞いてみたのだが、

江口というだけしか名乗ってくれなかったと頭を下げる。


「名前だけ」

「はい」

「会社名を名乗らなかったの」

「何度かお聞きしたのですが、畑野さんと直接話が出来れば、
どういう内容でかけているのか、お分かりになるはずだと」


女子社員は申し訳なさそうに頭を下げ、

昴はそれならば相手の電話を待とうと、メモをデスクの隅に動かした。


昴が、部長代理のポストになってから、主な仕事は社員のまとめになったので、

個人的な契約相手と連絡をすることは減った。

会社名を告げない江口と言う名前が誰なのか、すぐにはわからなかった。

しかし、頭を下げた女子社員が席に戻る頃、昨日悠菜から聞いた言葉を思い出す。

悠菜は、渡瀬宛てに退職届を送り、それがすでについているはずだとそう言っていた。

だとすると『STW』関係者ではないかと、思いを巡らせる。

そして、その電話は、時間通りにかかってきた。


「はい、畑野ですが」

『私、『STW』渡瀬勇の秘書をしております、江口秀作と申します。
お忙しいところ、申し訳ございません』


昴の予想通り、江口は、渡瀬の秘書だった。

なぜ電話をかけてきたのか、問いかけなくてもわかる気がしたが、

昴はあえて尋ね返す。


「どのようなご用件で」

『住友悠菜さんのことです』


昴は『はい……』と返事をし、江口の言葉を待った。


『よかったです。すぐにわかっていただけて』

「何か」

『申し訳ありませんが、電話で語れるような話ではありません。
お忙しいでしょうが、今日の夜、お時間をいただけないかと思い、
電話をさせていただきました』


江口は丁寧な言葉を使い、口調は穏やかだった。

昴は、何を言われ、どういう態度に出られるのかわからないため、

負けないくらい冷静に、返事をする。


「わかりました。どちらにでも伺いますので、時間と場所を決めていただけますか」


昴は、そう切り返すと、江口の話す内容をメモに書き写し、

必ず伺いますと電話を切った。





「社長、このまままっすぐでよろしいですか?」

「ナビをあてたのだろう」

「はい、でも……ずいぶん細い道ですが」

「南雲、山道はこういうものだ」


江口が昴に連絡を取っていた頃、勇は南雲に運転をさせ、

悠菜の母、苗子が眠る墓地へ、向かうところだった。

山道に入ると、道幅がどんどん狭くなり、車とすれ違うのにも緊張する。


「本当にこの奥でよろしいですか?」

「あぁ、そうだ、今右に墓地の名前が書いてあった。
そうおどおど運転をするな。お前の技術を評価して連れてきたのだから、
しっかり運転してくれ」

「はい」


勇が座る横には、お供え用の花が置かれている。

勇は携帯を開くと時間を確認し、そのまま番号を呼び出した。





「それじゃ、お先に」

「あ、お疲れ様でした」


仕事を終えた昴は、同僚に挨拶を済ませると、江口に指定された店へ向かった。

混雑する車内で携帯を開き、

悠菜に、江口から連絡があったことを話そうかとも思ったが、

自分もその場所へ行くと言われる気がして、あえて黙っていることにした。


今日、江口だけが来るのか、それとも父親である勇が顔を出すのかはわからないが、

どう出てこられても、それを跳ね返すだけの思いは、しっかりと固めてある。

店を探し扉を開け、ウエイターに名前を告げると、奥の席へ案内され、

そこには江口が一人、座っていた。

昴の姿を見つけると、立ち上がり挨拶をする。


「お待たせしてしまい申し訳ありません。はじめまして、畑野です」

「江口です。こちらこそ、お呼び立てして、申し訳ございません」

「いえ……」


二人の前にコーヒーがそれぞれ置かれ、小さな部屋は静かになった。

江口は、以前、悠菜にも見せた『FLOW』の写真を昴の目の前に置く。

店の玄関と、『リザーブ』の札が置いてあるカウンターの写真だった。

昴は、この江口という男性が、全てを調べ、悠菜に事実を告げたのかと、

あらためて顔を見る。


「これがどのような写真なのか、畑野さんにはお分かりですね」

「……はい」


何年もその扉を開け、カウンターに座り続けた。

忘れたくても、忘れられない場所が、『FLOW』であり、

正しい方法とはいえなったかも知れないが、結果的には、綾音の夢も広げてくれた。


「それならば、お時間をとらせてしまっても申し訳ないので、
本題に入らせていただきます」


江口は、すでに昴がどんなことをしてきたか、全て調べさせてもらったと話し、

それは間違いがないことかと尋ね返した。

昴は、話を聞き終えて、全て事実ですと認め、江口を見る。

江口は『事実』だとハッキリ答えた昴の顔を見た後、大きく息を吐いた。


「冷静ですね、さすが『salon』で営業のトップを走る方だけある。
相手には弱みを見せるつもりがないと」

「そういうわけではありません。取り乱して、言い訳を並べても、
事実は事実です。変わることはないですし」


昴は、こうなることも全てわかってここへ来たのだと、

そう間接的に宣言した。江口は頷きながらも、表情を変える。


「これが全て事実なのだとしたら、あなたの今やろうとしていることは、
到底、常識人のすることではないでしょう」


江口は少し口調を強めそういうと、コーヒーに初めて口をつけた。

昴は黙ったまま、写真を見続ける。


「いくら妹を『立原』に入れるためとはいえ、
あなたは世間に堂々と顔向けできないような、金の稼ぎ方をしてきた。
しかし、今度はそれを勝手に水に流して、悠菜さんと付き合おうとする。
申し訳ないが、あなたのしようとしていることは、異様なことですよ」


江口は、2枚の写真を前に押し出すような仕草を見せ、昴に罪を追求した。

昴は黙ったまま、その言葉を受け続ける。


「普通の企業に勤めるお嬢さんなら、隠し通すことも出来るでしょう。
しかし、住友悠菜という女性が、どういう立場にいる人なのかもわかって、
いや、渡瀬の家につながりがあるということもわかっていて、
それでも付き合いたいと、おっしゃるのですか……それとも……」


江口はそう言いながら、少し前かがみになり、昴に顔を近づける。


「悠菜さんに近づけは、もっと大きな金が楽に手に入る……とでも?」


江口は、昴が金のためにならなんでもするのだと、そう付け足した。

勇の妻である晴恵と、金の関係を結んだことも知っていると話し続ける。


「あなたにとって、女性は金儲けの手段でしかないのでしょう。
そうでしょ」

「違います」

「何が違うんだ」


江口は昴に反論の隙を与えまいと、すぐに強い口調で言い返した。

昴は、ここであれこれ言っても、打ち消されるだけだと、顔だけを前に向ける。


「今すぐに別れてください。悠菜さんの優しさに甘えていないで、
現実を知り、あなたの方が去るべきだ」


江口は、悠菜にはこれから『STW』の中心部に入ってもらい、

社長である勇を支える役目があるのだと、そう宣言する。

具体的に『ブルーアイズ』の名前は挙げなかったが、別企業の方と、

それなりの話が持ち上がっていることも、つけ加えた。


「畑野さん、それでもあなたが身の程をわきまえずに、
悠菜さんにこだわるというのなら……」


江口は、これ以上悠菜に近付き、揺さぶるつもりなら、

こちらにも考えがあると、そう言い出した。

『salon』へ話す事はもちろん、妹の綾音に対しても、真実を告げると迫っていく。


「あなたが、自分の学費をどういう方法で稼いできたのか、
妹さんが知ったら、どう思うでしょうか。
うちのCM作りをお手伝いしていただいた時には、
あなたのことをいい兄なのだと、一生懸命かばっていた妹さんですよ」


昴の脳裏に、幼い頃から懸命にピアノを練習してきた綾音のことが蘇った。

母の願い、そして妹の夢をかなえるために、重ねてきた時間。

『クリアコンクール』で銅賞を受けた日の笑顔、そして、ワインで乾杯した時のこと、

昴の両手は、自然と力強く握られる。




「……構いません」

「は?」


昴は、『salon』に『FLOW』でのことを話すのも、

綾音自身に昴の過去を語るのも構わないと言い、前を向き続けた。

江口は、予想外の対応に、言葉が出なくなる。


「しかし、『salon』に『FLOW』のことを語るのでしたら、
どういった人が出入りしていたのかまで、相手が調べることも、
覚悟しなければならないのではないですか?」


昴は、『FLOW』を活用しているのは、経済界でも力のある人たちであり、

それを公にしてしまうことは、困る人が他に出るのではないかと忠告する。


「畑野さん、その言い方は、こちらを脅しているつもりですか?
知られたくないことがあるのは、そちらも同じでしょうと」

「いえ、違います」

「今の言い方ではそうでしょう。渡瀬の妻が通っていたという事実も、
世に知られますよと、そう言いたいわけですよね」


昴は、興奮気味に意見を述べる江口に、冷静になりましょうとそう言った。

『FLOW』の存在を明らかにするという行為は、

一瞬の判断ですることではないのだと付け足していく。


「江口さんのおっしゃる通りです。私自身も、自分の重ねてきた時間を、
今さら正当化しようとは思いません。
『FLOW』にいたことを人様に知られることが、どれほどのことなのか、
どれほど恥ずかしいことなのか、それくらいはわかります。
しかし、ピアノに夢を見た母と妹の願いを叶えるためには、
当時、大学から社会人に出たばかりの私には、あの方法しか浮かびませんでした。
自分の中にあるプライドを守り、夢を諦めることと、
人には言えない道を歩くこと、どちらにも後悔が生まれるのなら、
私は、与えてやることを選びたかったのです」


どちらに進んでも、苦しいことは予想がついていた。

だとしたら、その苦しみは自分だけが抱えていこうと、そう思い足を踏み入れた。

昴は、江口の顔を見つめ、しっかりとそう答えを返す。


「妹さんが、事実を知り、苦しんだとしても……ですか」

「はい」

「自分の経歴を恥じて、一生哀しんだとしてもですか?」


綾音が事実を知れば、苦しむことはわかっている。

それでも、昴は首を縦に振る。


「妹を支えてくれるのは、私だけではありませんので」


綾音には母代わりの康江もいるし、迷いの中から救い出してくれた裕もいる。

昴は自分を軽蔑したとしても、周りの人たちが支えてくれると話した。


「妹を、ピアニストにすることだけを考えていました。
でも、その気持ちを押し進める中で、妹自身の幸せなど、
いつの間にかどこかに追いやったままでした。
そんないびつな愛情を与えていることに、気付かせてくれたのが彼女でした。
悠菜さんとの出会いが、私に、新しい道があることを教えてくれたのです」


江口は、何を言っても動じることなく、堂々としている昴の態度に、

どう出て行けばいいのかわからなくなっていた。

昴にとって、何よりも嫌なことが『salon』への報告と、

綾音へ話すこと、その二つだと思っていただけに、

あっさりとかわされたことに、言葉にバランスが保てなくなる。


「自分が積み重ねてきたことが、どれだけ愚かなことだったのかわかり、
始めは逃げることばかりを考えていました。
その結果、何も知らない彼女を苦しめてしまったのですが、
それでも、互いに気持ちを変える事が出来なかった」


離れてしまえば心も変わるのだと、必死に信じ込んだ日。

それでも、思いは募り、苦しむばかりだった。


「彼女は私の罪を責めながらも、しっかりと受け入れてくれました。
生きてきた時間が罪なのなら、一緒に背負っていくと、そう言ってくれたのです。
ですから……ここで諦めるわけにはいきません」


江口と昴が話をする半個室の裏で、一人の男性が立ち上がった。

昴は背中を向けているので気付かないが、その姿を見た江口は、驚きで声が出なくなる。


「全てを捨てても、彼女を守ること、彼女の気持ちに応えること、
それが今の私に出来る、唯一のことです」


昴は、そういい切ると、申し訳ありませんと頭を下げる。

そこで初めて、自分の後ろから迫る人影に気付き顔を上げた。

立っていたのは勇だった。





勇は江口の隣に腰かけると、昴が語ったことは全て聞かせてもらったと口にした。

ウエイターがさらに一つ、コーヒーカップを置く。


「社長……」

「江口、お前は黙っていてくれないか。私が彼と話をしたい」


江口は申し訳ありませんと言葉を止めた。

昴は、悠菜の父であり、晴恵の相手である勇を前にして、さすがに下を向く。


「私が悠菜の母、苗子と出会ったのは、まだ20代の前半だった。
勢いがあれば何でも出来ると思い込み、突っ走るだけだった。
苗子を愛し、そばにいさせることだけを考えて、
彼女にかかるプレッシャーを思いやる余裕もなく、結局、身を引かせてしまった」


自分の成功を相手に伝えることはしてきたが、

交際をする中で出来る障害を、どう乗り越えるのかと言うことは、

何も話すことがなかった。それが苗子の不安を取り除けなかった原因だろうと、

勇は冷静に分析する。


「今、君が言ってくれた『全てを捨てて……』という気持ちが私に見えなかった。
苗子が消えたのは、そういうことだろう」


勇は、目の前に座る昴の顔をじっと見た。

昴もここで引くわけにはいかないと、勇の顔を捉え続ける。


「私が、もっと勇気を持てていたら、
君のような息子を、迎えることが出来たのかもしれないな……」

「社長」

「黙っていてくれと、言ったはずだ」


勇はあらためて姿勢を正すと、昴に対し頭を下げた。

昴は思いがけない状況に、どうしたらいいのかわからず、自分も頭を下げる。


「悠菜がくれた私への手紙に、君が何よりも大事なのだと、そう書いてあった。
あの子も……『全てを無くす覚悟』が出来ている」

「社長……」

「いいんだよ江口、もうこれ以上深追いをするのはやめよう。
あの子は……悠菜は、苗子の娘なのだから」


勇の潔い態度に、昴を責め立てた江口は、何も言えなくなる。

昴は、テーブルに置かれたままの写真を、一度見たあと、コーヒーカップを持った。





昴が店を出たのは、勇の言葉を受け取ってから、10分後のことだった。

携帯には、2度ほど悠菜からメールが入っていた。

失礼だと思い電源を切っていたため、返事が出来なかったのだが、

何かが起きたのではないかと心配する内容に、昴は番号を押し、電話をかける。

呼び出し音が鳴るとすぐに悠菜は受話器をあげた。


「もしもし……」

『もしもし……どうしたの? 返事が全く来ないから』


悠菜はすでにアパートへ戻り、何度か連絡をしたのだと言う。

昴から何も連絡がないため、『STW』の方から、

嫌がらせでもされたのかと問いかける。


「何を心配しているの、大丈夫だ」

『本当?』

「あぁ、それより、今からそっちに向かってもいい?」

『今から?』

「迷惑? 早く知らせたい、いい話があるのだけれど」


昴は、心配そうな悠菜に対し、精一杯明るい声でそう告げた。





『Flow』
時は誰にも、流れ続ける……
いつも訪問ありがとう。パワーの源、1日1回の『ポチ』……してくださると嬉しいな。

コメント

非公開コメント

No title

昴の言葉に、嬉しいような
終わりが近くて寂しいような
複雑な気分です

そうですね

あいさん、こんばんは

>昴の言葉に、嬉しいような
 終わりが近くて寂しいような
 複雑な気分です

ありがとうごさいます。
創作を気に入っていただけて、こちらも嬉しいです。
でも、始めたからには終わらないとならないので、
どうか最後までお付き合いください

覚悟

江口の単独行動か?渡瀬を思うあまりの行動だったと思うけど
昴たち二人に渡瀬が理解を示してくれてよかったです^^;

二人がこのまま幸せになってくれれば・・・^^
ゆるぎない二人の覚悟に乾杯!かな^^

思うあまり

yokanさん、こんばんは
お返事遅れてごめんなさい。

>江口の単独行動か?渡瀬を思うあまりの行動だったと思うけど

渡瀬も本音は、悠菜をそばに置きたいのでしょうね。
江口はそれがわかっているからこそ、突っ走ってしまった。
時間をかけて理解してきた昴と悠菜なので、
強引さには負けませんでした。

どうか最後までお付き合いください。