59 Pendulum 【振り子】

59 Pendulum 【振り子】



季節が夏から秋へと向かうある日、

クリアコンクール受賞者が行う、コンサートの最終日がやってきた。

裕は前日に東京へ入り、先輩のアパートから会場へ向かう。

綾音から送られたチケットを忘れていないかと、何度もポケットを確認した。

昴は最寄り駅で悠菜と待ち合わせをし、

演奏を楽しみに集まる人たちと同じように歩いていく。


「なんだか、もったいないですね」

「もったいない?」

「そう……もうあの演奏が、こういった場所で聴けなくなるのだと思うと、
自分で、ピアニストだけが道じゃないよねなんて言ったくせに、
考え直せばって言いたくなるような……」

「どういう意味、それは」

「うーん……よくわからないけれど、なんていうのか」


悠菜は、綾音のピアノがとても心地よいものなのだと、そう言った後、

それだけではないのだけれどと、また迷いだす。

昴は、聞きたければいつでもマンションへ来ればいいと笑い、

少し前に会場入り口についていた裕を見つけると、

こちらに気付くように軽く手をあげた。


「お久しぶりです」

「ありがとう、崎本君。仕事は大丈夫なのか」

「はい、前からこの日だけはとお願いしてありましたので」


裕は、来年の夏前には東京へ戻れるようになりそうだと、昴と悠菜に告げた。

悠菜は、綾音が喜ぶのではないかと笑顔を見せる。


「園長先生は、まだみたいですね」

「迷わなければいいけれど」

「駅から1本道だ、迷うことはないと思うけれど」


3人は、駅から会場へ消えていく人の中に、

康江がいないかと入り口の前で待っていた。

何台かタクシーが止まり、降りてくる人はいるものの、康江の姿はない。


「やはり、迷われたのですかね。僕、駅まで戻ってみましょうか」

「いや、崎本君、演奏時間が迫っているから、
君は先に会場に入っていてくれないか」

「でも」

「そうしてください。綾音さんが会場を見て、誰もいないと思ったら困るし」


昴と悠菜の言葉に、裕はそれなら先に席に座っていますと頭を下げ、

会場の中に入っていった。昴と悠菜はその場に立ち続ける。

開園時間まで5分を切り、会場へ入る人の姿は減ってきたが、康江の姿は見えてこない。


「携帯に連絡をしてみましょうか」

「うん……」


そこへ、駅から運転されたマイクロバスが到着し、康江が降りてきた。

悠菜は康江に気付き、手をあげる。


「先生、園長先生、ここです」

「あ……あぁ、悠菜さん、昴。ごめんなさい。もう始まってしまった?」

「大丈夫ですよ」


やっと3人が揃ったと、入り口から体を会場内へ向けた時、

1台の高級車が横を通り抜け、中へ進んでいくのが見えた。

昴は、ほんの一瞬、後部座席にいる人の顔をとらえ、その車は会場正面につけられる。

コンサートを運営する職員たちが数名並び、車から降りる人を待った。

運転手が後部座席を開き、スーツに身を包んだ女性が姿を見せる。

昴と悠菜は、その女性の姿に、前へ進む足が止まった。


車から降り、会場内に入っていったのは、晴恵だった。


「どうしたの? 二人とも……」

「いえ……」


悠菜は、先日晴恵に会ったとき、自分には自分の思いがあるといい、

どういう結論を出したのか、結局聞くことが出来なかったことを思い出した。

『ブランカ』のCMを制作した縁で、綾音の演奏を聴きに来てもおかしくはないのだが、

以前と違い、晴恵も全てを知ることになったため、

何も知らない綾音に対して、何か余計なことを言うつもりではないだろうかと、

気持ちが乱れていく。


「住友さん」

「はい……」

「どうした? 楽しみにしていたというわりには、うかない顔をしているけれど」


悠菜は、隣に康江がいるのもわかっていたので、無言のまま昴を見た。

昴は、悠菜の不安材料をわかっていると、笑顔を見せる。


「君が気にすることは何もない」

「畑野さん」

「向こうが前に出ると言うのなら、それはそれで構わないと、僕はそう言ったはずだ」

「でも……」

「どうしたの? 何かあった?」


悠菜の心配がわからない康江は、チケットを取り出すと席はどこかしらと探し始める。


「先生、この列です。早く座りましょう。もう始まります」


昴は、悠菜の右手をそっとつかむと、大丈夫だと伝わるように強く握りしめた。





綾音の登場は3番目だった。

パンフレットにも『クリアコンクール銅賞受賞』の文字があり、

会場内からもより一層、大きな拍手が沸き上がる。

昴は、丁寧に挨拶を済ませ、ピアノの前に座る綾音を見ながら、

長い間、積み重ねてきた日々を思い返した。

まだ鍵盤にうまく手を乗せられない頃から、綾音は母の膝の上で、

ピアノに触れていた。叩けば音がすることを喜び、

母も綾音が楽しむことをよく褒めていた。


大好きな母が笑う姿が、昴の心に蘇る。


綾音の1曲目は、『愛の夢』だった。

演奏者は、各自が自由曲を1曲だけ選んでいいことになっている。

綾音は、自分を長い間応援し続けてくれた兄のために、

そして、その兄を救ってくれた悠菜のために、言葉代わりの音を届け続ける。



そして、その演奏を、2階に用意された特別席で、晴恵も聞いていた。

今日が『クリアコンクール』受賞者の最後のコンサートであることを知り、

『立原音楽大学』の方へ連絡をしたのは、晴恵の方だった。

大学側はすぐに席を用意し、企業からの応援を望む主催者側も、

『STW』社長の妻が興味を持つことに、積極的な態度を見せた。

他の客を見下ろせる場所にある席から、晴恵は昴と悠菜の姿を探す。

会場に入る前に、一瞬捕らえた二人の顔は、とても穏やかなものだった。



『会いたい』と願えば自分の側に現れ、哀しくて淋しくなる気持ちを、

抱き締めてくれた男へ、いつのまにか支配的な愛情を向けるようになっていた。

上下関係の決まっている心地よさの中で、

いつの間にか『愛情』の意味を、取り違えていた。



『でも、それが、彼の苦しみを、一緒に背負うことだと思っているので。
それが……人を愛することだと思うので、負けられません』



勇が探し求めた娘、悠菜は、難しい状況の中でも愛することを諦めず、

そして、笑うことのなかった人を、優しさの中に包み込んだ。


綾音の奏でる『愛の夢』は盛り上がりの部分になり、

そしてエンディングへと向かって行く。

晴恵は綾音の音を耳に受けながら、左手にはめている指輪をそっと引き抜いた。





綾音の演奏は3曲行われた。

悠菜は、舞台の上で堂々と演奏する綾音を見ながら、

初めて『立原音楽大学』へ行った日のことを思い出していた。

どうしても綾音をピアニストにすると、強い口調で言い切った昴のことを不思議に思い、

兄のしがらみから出て行こうとする綾音を、応援し、そして励ました。


「さすがに緊張しているな、あいつも」


悠菜は隣に座る昴の横顔を見た後、それでも綾音がいい顔をしていると言い、

また視線を前に向けた。康江も裕も、それぞれが綾音のことを思い、

今日の演奏を忘れないように、聞き続けている。



全てを弾き終え、観客に向かって頭を下げた綾音に、

昴たちは精一杯の拍手を送り、そのピアノにかけてきた日々をねぎらった。





午後3時を少し過ぎた頃、全ての演奏者がプログラムを終え、会場は開放された。

ホールから出て行く場所には、

次回の『クリアコンクール』が開催されるという掲示がある。

人が4分の1くらいに減った頃、昴たちも腰を上げた。

演奏者も同じように解散となるため、少し待って一緒に食事をしようと、

康江が提案する。


「それじゃ、携帯にメールを入れてみます」


裕がそう話し、携帯を取り出すと、逆に携帯が鳴り出した。

相手が綾音であることがわかり、裕は受話器を開ける。


「もしもし……」

『もしもし? 私』


裕は綾音が明るい声で電話をしてきたと、昴たちに話し、

食事に向かおうという康江の提案を、話していく。


「うん……そう。どれくらいで……ん?」


語りかけたのはこちらだったはずなのに、途中から裕は聞き役に回り、

何度か頷いてみせた。

悠菜は掲示の中に、昨年のコンクールで綾音が受賞した時の写真を見つけ、

康江の肩を叩く。


「あら……本当だ。これが綾音なのね」

「はい……」

「お兄さん、綾音が楽屋にきて欲しいと言ってますけれど」

「楽屋?」

「はい。なんだか誰かが……」


『誰かが……』という言葉に、悠菜は昴の顔を見た。

昴も、悠菜の視線に気付き、目を合わせる。


「あ……うん。ちょっと待って。あの、『STW』の社長夫人が楽屋に来てくれていると、
綾音がそう言っています」


晴恵の存在を告げられ、康江も昴の方を向いた。

昴は何も知らない裕の顔を見た後、電話を替わってくれと言う。


「もしもし、綾音か」

『あ、お兄ちゃん。ねぇ、裕さんから聞いた?』

「あぁ……」

『CMの選考会の後、私がお兄ちゃんのことを話したの。
それを奥様が覚えていて下さって、会場に来ているって話をしたら、
会いたいって……ねぇ、今すぐにこっちへ来て』


晴恵は、コンサートが終了した後、綾音の楽屋に顔を出し、

演奏が素晴らしかったと感想を述べた。

綾音は、以前話をした兄が、最後のコンサートなので見に来てくれたと話し、

晴恵は、全てを知っていながらも、『会ってみたい』と言ったという。


「どうしたの?」


昴の表情が優れないことに気付き、悠菜はすぐにそう問いかけた。

昴は、綾音が話をした通りのことを、3人に告げる。


「『STW』の社長夫人って……」


事情を知っている康江は、それが誰であるのかに気付き、

自分はここで待っているとそう言った。同じように事情を知らない裕に対しても、

一緒に待っていてくれないかと話していく。


「先生も、裕君もきて欲しいと、綾音が言っています」


昴は、康江がせめて裕にだけは事情を知らせまいとしていることに気付き、

綾音がみんなに来て欲しいと言っていると話した。


「綾音の願いです。どうか一緒に……」


昴はそう言うと、受話器の向こうにいる綾音に、すぐに向かうと言い、

裕へ戻した。





その頃、勇は江口とともに、『ブルーアイズ』の会議に出席し、

少し早めに自宅へ戻るところだった。

家のことを任せているお手伝いの女性が出迎えてくれる。


「お帰りなさいませ」

「ただいま」

「旦那様、奥様は今日……」

「あぁ、わかっている。出かけているのだろう」

「はい、旦那様がお帰りになったら、渡して欲しいと言われておりまして」

「渡す?」

「はい……」


勇はお手伝いの女性から封筒を受け取り、

お茶を入れましょうかという言葉に首を振ると、そのまま部屋へ上がった。

着替える前にナイフで封筒を開け、中身を確認する。

中には、先日勇が渡した『離婚届』が入っていて、晴恵の名前が記入されていた。

勇はその用紙をしばらく見つめ、中にもう1枚入っている紙を取り出した。





昴は、警備員に事情を話し、無線で連絡を取ってもらうと、

確認はすぐに取れ、楽屋への道が開けられた。

裕は、初めて入る裏側に、興味を持ったのか、あちらこちらに目を動かしている。


「ねぇ、待って!」


いきなり声を出した悠菜に、他の3人の歩みが止まる。


「どうした?」

「どうしたって……」


悠菜は、自分は勇の妻とあまり親しくないので顔を合わせたくないのだと、

咄嗟にウソをついた。頭を下げることが嫌だから向こうに残ると言い、

康江や裕にも行かないでくれないかと言い始める。


「そ……そうね、私達が行っても、ねぇ……」


康江も気まずさを感じていたのか、悠菜のセリフに同調し、

向こうに残っていると言い出した。

二人の雰囲気を見た裕も、それなら昴だけで楽屋へ行った方がいいのではと

遠慮し始める。


「行きましょう。遠慮をする必要もないですし、住友さん……」

「はい」

「あなたは堂々としていればいい」

「……でも」

「綾音の願いだと、そう言いましたよね」


昴はそう言うと、隣でどう動けばいいのか迷っている裕の肩を叩く。

裕は、それに応えるように、『行きましょう』と悠菜と康江に声をかけた。





勇は自分の左手にはめた指輪を外し、晴恵が預けた封筒の上に置いた。

ネクタイを外し、椅子に座ると、

調査会社に依頼した時の資料を、机の引き出しから取り出していく。

懐かしい苗子の笑顔と、まだ未来を夢見ていた頃の自分が、そこにいた。


「なぁ、苗子。君は今の僕を、どう思うんだ?」


勇は、答えの戻らない写真に対しそう問いかけると、

背もたれに寄りかかりながら天井を見た。





「先日、話をした兄です」


何も知らない綾音は、晴恵に対してそう昴を紹介した。

昴は名前をあらためて名乗ると、晴恵に向かって頭を下げる。

昴と晴恵は、契約金を上げるので、自分との時間を増やせと迫り、

それを跳ね返したあの日以来の再会だった。

晴恵は、昴の顔をしばらく見た後、横に並ぶ悠菜を見る。

悠菜は、昴の方を向き、その表情を心配そうに見つめた。


「私がピアノを続けてこられたのは、ここにいる4人のおかげです。
苦しい時、辛いとき、この4人が励ましてくれました。
今日という日を迎えられたのも、なんとか学生時代に結果を残せたのも、
みんな……助けてもらったからです」


綾音は、悠菜がいつも優しく自分の話を聞いてくれ、

その存在を姉のように慕っていること、

そして、親のいなくなった自分を『小麦園』で受け入れ、

育ててくれた康江のことを話す。


「『小麦園』では、どれくらいの子供たちを預かっているのでしょうか」

「はい……現在は12名ほど」

「そうですか……年齢も性別も違う子供たちでしょうから、大変ですね」

「はい」


晴恵の言葉に、康江は軽く頷き、これ以上話をするのはと少し後ろへ下がった。

綾音は、裕の横に並び、自分のピアノの音に『愛がある』と褒めてくれたことで、

本当にピアノを楽しむ気持ちになれたことを語る。


「それから……」


綾音はあらためて昴の横に立ち、兄が自分をここまでにしてくれたのだと、

感謝の気持ちを述べた。


「今の私の年齢くらいから、兄はずっと私を支えてくれました。
たくさん遊びたい時期に、何もかも我慢して、頑張って働いて。
今の自分の状況を考えると、兄のしてくれたことが、信じられないくらいです」


綾音はそう話を終え、自信満々な顔で晴恵を見た。

晴恵は話しを頷きながら聞き続け、それぞれの顔を見た後、

最後に昴へ戻っていく。


「そうよね、信じられないわよね……お兄さんのしてきたことは……」


悠菜は、それ以上のことを口にしないで欲しいという思いを込めて、

晴恵を見る。晴恵はその視線を受け流し、何も知らない綾音を見た。




「綾音さん……私の話を聞いてくれますか?」




何も知らない綾音は、晴恵のセリフに『はい』と返事をし、もちろんだと頷いた。





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