第26話

第26話




慌しかったその年の夏は、思ったよりも早く進んでいく。

秋風がそろそろ吹き始める頃、正式な区域が『第2区域』に決定した。

候補地と呼ばれていた『陵州』は、建設地と名前を変える。

その頃には、落書きされていた『榎本食品』も、新しい持ち主によって取り壊された。



実家の母親からその話を聞いた時、わかっていたけれど、心がチクリと痛んだ。

思い出の家や建物が壊されていく姿を見なかった榎本は、

新しい場所で、少しは前向きに気持ちを変えているだろうか。



制服のボタンを付け替えるように、心が変わる日は、来るだろうか。



今はまだ、よくわからない。





青にも色々と種類はある。

海の色と空の色が違うくらいはわかるし、ワイシャツの水色と、

ネクタイの濃紺が別だということもわかる。

俺は休みの日、以前から杏奈さんと約束していた

『立南美大』の展覧会へ出かけることにした。

ホールの入り口でパンフレットをもらい、そのまま中へ入る。

今まで、そう23年生きてきて、こういった場所へ来るのは初めてのことだ。

美咲とのデートで、絵を見る機会もなかったし、

仕事で外を歩き、偶然美術館の前を通ったとしても、入ろうと思ったことはない。

いや、正直、学生時代からこういった科目は、大の苦手だった。

絵を書けば、教師にスケッチブックを上下反対に持たれ、

親には馬と牛とゾウの区別がつかないと、首をひねられた。

褒められて壁に飾られる他人の絵を見ても、

学生時代は何も感じることなどなかった気がする。


「SLかぁ……」


杏奈さんの1枚目は、『桜とSL』の絵だった。

花びらのピンク色が、SLの吐き出す煙のグレーとマッチングしている。

迫り来る黒の車体は、こちらに飛び出してきそうな迫力があった。

また、『朝露』というタイトルの絵には、

どこかに生えているような名もない草に光る露が描かれていて、

確かにそこに存在する命みたいなものが、表現されていた。

いや、本当の解釈がこれでいいのかどうかはわからないけれど、

俺にはそう感じ取れた。

年月が人の心を変えたのだろうか、

それとも、俺自身がこういった場所のよさを理解できる精神年齢に達したのだろうか、

動きのないものを見ている自分に、飽きが来ないのが不思議だった。


「大倉さん」

「……あ」


声をかけてくれたのは、杏奈さんだった。

忙しいの中、本当に見に来てもらい申し訳ないと頭を下げられる。


「そんなことないよ。部長の家の廊下に飾ってあるだろ、杏奈さんの絵。
俺、あの日本海の絵が好きなんだ。だから、どういう作品があるのか、
見たいと思っていたし……」


杏奈さんは、なんとか間に合わせたものの、まだ手直ししたいところもあるのだと、

照れくさそうに話してくれた。それにしても、他の学生は人物像などもあるのに、

杏奈さんは、風景画と植物に統一されている。


「杏奈さんは、自然を描くのが好きなの?」

「はい。ゆっくりなんです……」

「ゆっくり?」


杏奈さんは、景色や植物は、自己アピールがゆっくりなので、

テンポの遅い自分にはあっていると笑顔を見せた。


「芽を出して、少しずつ伸びて、花を咲かせて実をつけるまで、
ゆっくりと成長を見られるでしょ。人の自己表現は、慌しくて強すぎて、
私には向かない気がするんです」


人の自己表現。

杏奈さんは俺と違って芸術肌だからなのだろうか、たとえの仕方も独特だ。

それでも、言いたいことはわかる気がする。

山の景色などは、時間をかけてゆっくりと変化する。

人の心は、そう、ほんの5分でもがらりと変わる。

確かに、慌しいといえば慌しい。

部長の家へ行っても、まとわりつく柚奈ちゃんや、あれこれ動き回る紗奈ちゃんとは違い、

杏奈さんは自分のペースをしっかりと守る。

興味がない時には、輪の中に無理に入ろうとはせずに、

一人でも時間を楽しむ方法を知っている。

だから、こういった作品が、じっくりと描けるのかもしれない。



学生時代、女子の大きな輪に強引に入ることなく、

読書をしたり、ちょっとした編み物をしながら時間を使っていた、美咲の姿を思い出した。





「すみません、休みなのに」

「いいのよ、いいのよ。杏奈の作品、見に行ってくれたんでしょ、大倉君」

「はい」


その日は結局、杏奈さんと一緒に部長の家にお邪魔することになった。

仕事帰りだと当たり前のような気になっていたが、私服で上がりこむのは、

やはりずうずうしかったのではないかと、今更ながらに反省する。


「ちょうどよかった、大倉。これを見てくれ」


部長もすっかり休日姿で、今朝届いたという袋を開けてくれた。

それには航空写真が入っている。


「これ……」

「そうだ。『陵州』の建設地の航空写真。どうだ、イメージ沸くか?」


取り壊したアパートが2件、さらにこれを機会にと土地を手放してくれた人たちの畑、

それが全て合わさって、『ボルテックス』の流通拠点が一つ、出来上がる。


「これ……茶摘前の写真なんですね」

「あぁ……正式な決定をするまで、あえて押さえていた。
また、どこだ、あそこだって騒がれると、面倒だしな」


建設地だけを大きく撮った写真と、

もっと高い位置から全体を撮った写真の2枚を見比べる。

写真の隅には、美咲が働く『金村園』があり、

右上の方には、『榎本食品』のビルが、まだ存在した。


「うわぁ……」


食事の支度を手伝う杏奈さんが、写真を手に取り嬉しそうな顔をした。

茶畑の緑と、山の木々の深い緑が、素敵だとそう言ってくれる。


「あぁ……そうだね。新芽が出た頃の茶畑は、緑というより黄緑に近いのかも。
木の葉の緑は……」


頭の中に浮かべたのは、美咲とよく登った『晴日台』の景色だった。

あそこからの景色を美しいと思えるのは、確かに茶畑の存在が大きいはず。


「描いて見たい」


杏奈さんの言葉に、奥さんはまたなのかと呆れ顔をする。

部長は、来年の新茶時期には、建設も始まるだろうから、行ってみたらどうかと提案した。

奥さんは、部長の意見にも顔を曇らせる。


「もう、来年は4年なのよ。いくらなんでも就職のことを中心に考えないと。
今までさんざん好きなように絵を描いて来たでしょ」


テーブルの真ん中に、野菜の煮物が大皿に乗って現れた。

箸置きが並び、取り皿も増えてくる。


「杏奈はな、無理に就職なんか考えなくていい。お前、想像できるか?
慌しく人が動く場所で、杏奈が働く姿」

「想像って……」

「人には向き、不向きがある。
杏奈は好きなことをして、卒業したら早めに結婚するくらいの方がいいって」


部長は航空写真に付箋をつけまとめると、封筒へ戻した。

明日、メンバー全員にこれを見せ、具体案を決めていくという。


「あ、そうだ。大倉」

「はい」

「お前、杏奈をもらってくれないか」

「……は?」


部長が休みの日に、どれだけ酒を飲み、酔っているのかはわからないが、

こんな場所で、勢いよく了解する話では到底ない。

奥さんは何を言い出すのかと笑い、部長もすぐに大笑いし始める。


「お父さん、大倉さんに失礼なことを言わないで」

「おぉ……怒られた、怒られた」


杏奈さんは、申し訳なさそうに頭を下げてくれたが、申し訳ないのはこちらの方で、

俺も負けずに頭を下げた。





同級生との語らいなら、ふざけるなと頭の一つでも叩くところだが、

上司の家で語られた話だと思うと、どう反応するのが正解だったのか、

わからなかった。

部長が酔った状態で言った話に対して、自分には好きな女性がいるのだと、

美咲への思いを淡々と語るのも、あまりに大人気ない。

しかも、すぐそう言い返せば、杏奈さん自身に何も魅力がないと言っている気がして、

言葉が出なかった。

幸いだったのは、奥さんが冷静だったことと、

その後すぐに柚奈ちゃんがオセロ対戦を提案してくれたことで、

俺は美味しい食事だけをいただき、自分のアパートに向かう。

それでも、どこか浮いた話だった計画が、正式に決定したことだけはわかり、

出て行った榎本のためにも、全力で向かっていこうと、思うことは出来た。





「いいの? これ、私が見て」

「いいよ。美咲は誰に語るわけじゃないからね」


実際の区域が決定し、地元住民の説明会が来週に迫った。

その前に東京へ遊びに来た美咲に、全体が映る航空写真を見せる。


「ねぇ、これが『陵州一高』?」

「そう、そしてこれが『金村園』

「あ……本当だ。屋根の色がエンジだわ」

「あぁ……それでここ、ほら、ここ」

「何?」


俺は、高校3年生の時、美咲と初めてキスをした公園がここだと、

そうアピールした。美咲はよく覚えていると照れ笑いする。


「初めて入ったラブホテルは……映ってないな」

「バカ!」


考えてみると、学生時代あれこれ仲間と騒ぎ、

動いていた場所が、この1枚に入っているのかと思うと、少し複雑な気がした。

当時は、ものすごく悩み、苦しんだことも、

とんでもなく小さな出来事だった気がしてしまう。

サッカー部の朝練に向かう前に、美咲と待ちあわせた場所。

試合に負けてうなだれながら歩いた駅からの道は、恐ろしく長かった気がするが、

この写真で見ると、中指ほどの長さしかない。


「榎本君ね、お母さんのご実家がある『三田浜』の方へ越したらしい」

「『三田浜』?」

「うん……パートの東さんが教えてくれた。お母さんと親しかったから、
こっそり聞いたんだって」


『三田浜』は、俺たちの住んでいる『陵州』よりも、もっと海に近い場所になる。

どんな仕事をして暮らすようになったのかまではわからなかったが、

車で1時間もかからない場所にいると聞いただけで、

心の距離が少し近付いた気がしてしまう。


「駿介がしっかり仕事をすること、きっと榎本君も願っていると思う」

「うん……」


気持ちの奥からじわりと浮かび上がる安堵感を、一緒に感じて欲しくなり、

航空写真を手に持ったままの美咲を、背中から抱きしめる。

そう、この街を変えていきたいと願ったのは、美咲を好きになったから。

初心をもう一度自分に刻み込み、美咲の首筋に唇を寄せた。




第27話

小さな芽を出した駿介と美咲の『恋』、強い風に倒されず、花は咲くのか……
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コメント

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ありそう

ももんたさんこんにちは
前回からの榎本君話には、なんだか泣けそうになりました。
こういったことって、実際にもありそうですよね。
いろいろなものを背負った駿介と美咲
これからも楽しみにしています

歳月

pocoさん、こんばんは

>前回からの榎本君話には、なんだか泣けそうになりました。
 こういったことって、実際にもありそうですよね。

同級生であっても、歩く環境が変わってくると、
色々と面倒なところも出てきますよね。
榎本との話や美咲とのことで、駿介も成長していく……
はずなんですけど。

これからもよろしくお願いします。