第35話

第35話




『ボルテックス』本社ビル、目の前にある横断歩道。

そこを渡ると建物の1階は、大きな喫茶店だった。

うちの営業マンたちはよくここを利用し、重厚感のあるソファーで、

昼寝をしている人たちも多い。

俺は挨拶してくれたウエイトレスに返礼し、店内を見渡した。


「駿介!」


榎本は、スーツに身を包み、本当に目の前に現れた。

俺はその姿を見失わないようにしながら、一歩ずつ前へ進む。


「どうしたんだ……お前」

「どうしたのかは今から話すよ。まぁ、座れって。それとも忙しくて時間がないか?」


俺はそんなことはないと首を振り、ブレンドを注文した。

榎本はポケットから1枚のハガキを取り出し、テーブルに置く。


「これは?」

「これは、金村からのハガキだ」

「玲から?」


俺が杏奈さんを連れて『陵州』に戻った日。その前に立ち寄ったサービスエリアで、

榎本の家の漬物を見つけ買って帰った。美咲に渡すつもりで『金村園』を訪れ、

1袋を玲にあげたことを思い出す。


「お前がサービスエリアでうちの漬物を買ってくれたこと、
それを喜んで配ってくれたこと、玲のハガキに書いてあったよ。
あ、そうそう、自分の婚約が室井のせいで壊れたってこともな」


やはりそうだったかと苦笑すると、

榎本は、金村の室井話は、ほとんどウソだと思っているよと、笑ってくれる。

そう、榎本も昔、一緒に転校生だった美咲を受け入れた『坂田中学』の仲間だ。

しかも、俺がしてもらったことのない、ボタン付けまでしてもらっていた。


「『陵州』を離れてみてさ、あの土地のいいところも悪いところも、
逆に感じ取れるようになったわ」

「うん……」

「お前が東京へ行って、『陵州』を変えると戻ってきたとき、
やめてくれと思ったのに、今は違う」


玲の家ほどではないけれど、長い間あの場所で商売をしていた榎本の家も、

昔からの『陵州』に満足していた方だろう。


「うちのお袋と親父が、趣味程度に漬物作りは続けているんだ。
規模としては大きくないし、事業展開なんてものじゃないんだけどね。
でも、偶然漬物を知ってくれた料理人がさ、
お気に入りとして店におきたいと言ってくれて、それで東京へ来た」

「……そうだったのか」

「あぁ、一応営業ってことかな」


榎本の家は、榎本の家なりに再出発をしていたのだとわかり、

俺は少しほっとした。ファミレスで見送った時の寂しさは、

今でも脳裏に焼きついている。


「あの時は、お前に八つ当たりをしてしまって、悪かった」


榎本はそういうと、頭を下げた。

俺は、そんなことは辞めろと言いながら、あいつの頭を軽く叩いてやる。

過ぎたことなどどうでもいい。こうして顔が見られただけで、

また笑ってくれているだけで、十分だとそう思えてくる。


「本当か? それならそういうことにしてやる」

「威張るなよ」


微妙な言いまわしと、自分たちにしかわからないような間。

くだらないことだけれど、懐かしくて心地いい。


「突然来たのには、少しわけがあるんだ。ちょっと気になることがあってさ、
金村の手紙をもらって、お前に話しておこうとそう思って」


気になることとと言うのは、美咲のことだった。

榎本は『陵州』を離れてからも、両親の付き合いがあった人たちから、

それなりの話を聞いていたという。


「室井に対して、嫌味を言うような人も多かったみたいだ……」


地元の議員を狙おうとする男が、いきなり美咲の家に顔を出し、

俺とのつながりがあるのなら、

そこから『ボルテックス』へのつながりを持てるよう頼めないかと言い出したり、

そうかと思えば、『よそ者のくせに、いい気になっている』と、わけもわからず、

自転車のタイヤをパンクさせられたこともあったと言う。


「そんな話、何も耳に入ってこなかった」

「そりゃそうだろ。お前にはにらまれたくないからな、みんな」


『金村園』とのつながりから、美咲親子にやきもちを焼くもの。

『よそ者』である美咲に、地元の有志達が何やら気をつかうのを見て、

陰口を叩くものなど、俺の知らない『陵州』が榎本から語られる。


「あの時、うちにスプレーで書いた人ほどではないかもしれないけれど、
何か大きなものを得る人がいると聞くと、ねたむ人間は、必ずいるんだよ。
それでなくても室井は我慢するヤツだから、駿介が見てやらないとな……」


榎本の言葉が、ずっしりと重かった。

まさしく、その重みに美咲は気持ちが切れてしまった。

俺は、美咲がいなくなってしまったことを、榎本に正直に語る。


「いなくなったって、どこに行ったんだ」

「それがわからない。警察にも頼んで探してもらっているけれど……」


榎本は、今までずっと我慢してきたのに、

ついに気持ちが切れてしまったのかなと、つぶやいた。


「あいつ……妊娠しているんだ」

「妊娠? お前の子か?」

「あぁ……」


榎本は、驚いた表情のまま、もう少し早くこの状況を知らせてやるべきだったと、

そう悔しそうに言ってくれた。その気持ちはありがたいが、俺は黙って首を振る。

榎本自身、こうして乗り越えることがどれだけ大変だったのか、

それは見なくてもわかるからだ。


「いや、俺が悪いんだ。お前の言うように、もっと美咲に気をつかってやればよかった。
あいつ会っても、大丈夫ばっかりでさ、そんなの昔からなのにな」


大丈夫じゃないときだって、美咲の答えはいつも大丈夫だった。

そんなこと、わかりきっていることだったのに。

『金村園』にいいようにされ、我慢してきた日々を、ずっと見続けてきたのに。

俺は、あいつと何年付き合ってきたのだろう。本当に全く進歩していない。


「駿介、お前たちに俺が薦めた映画、覚えてるか?」

「……『恋するモルモット』か?」

「あぁ……」


高校生になった俺たちの初デート。

榎本に言われて見たのは、『恋するモルモット』という映画だった。


「室井、次の日に榎本君ありがとうって、すごく喜んでいたんだ。
だからきっと、戻ってくるよ」

「……どういう意味だよ」

「覚えてないのか? モルモットを持って、主人公が逃げてしまっただろ、
研究結果が出ないこと、周りからのやっかみ、そして色々なプレッシャーから。
でも、結局、自分だけではモルモットたちをどうにも出来なくなって、
支えてくれた男のことを、思い出すんだ」


相手がどれだけ自分にとって大事だったのか、

主人公はそれに気付き、戻ってくる……


「室井もきっと、戻ってくるよ。
駿介がどれだけ大事なのかって、それに気付くさ」


戻ってくるだろうか……

美咲は……

抱えたものを一緒に守るべきなのは、俺だと思い出してくれるだろうか。


それはわからないけれど、それでも、榎本の声援に、どこかの栓が緩みそうになる。


「榎本」

「なんだよ」

「お前、来るなら夜に来いよ。久しぶりなんだ、酒でも飲めたのに……」

「あ……あはは……」


榎本は、それはまだ今度にするよと、笑ってくれた。

俺は絶対に約束だと強く言い、子供のように指切りを迫ってやった。





『室井もきっと、戻ってくるよ。
駿介がどれだけ大事なのかって、それに気付くさ』


その時にはそうだと思えても、誰もいない部屋に寝転ぶと、

ただ苦しさだけが自分を支配していくのがわかる。

なんてことのない1日でも、頼れる人のいない美咲にとっては、

長く苦しい時間に違いない。



きちんと食べているだろうか、暖かい場所で眠れているだろうか。

俺と出会い、過ごしてきた日々を後悔していないだろうか。

考えても答えが出てこない問いを、心で何度も繰り返す。



親父が言ったように、俺は美咲に比べて、苦労が足りなかったのかもしれない。

自分の夢をかなえるための努力はしてきたが、

その分、見えないものもあったのかもしれない。

未熟者なりに、毎日苦しくて、胸が締め付けられそうなのに……




……どこまでため息をついたら、美咲に追いつけるのだろうか。




9月、車内には、半そでと長袖が入り混じるが、

まだラッシュ時には汗をかくくらいだった。

書類を提出し、工事の報告を聞いていると、無性にコーヒーが飲みたくなり、

自動販売機ではないものを買おうと財布を持つ。


「大倉さん、ロビーにお客様」

「俺?」


『お客様は女性だ』というコメントを女子社員から聞き、俺は慌てて階段を駆け下りた。

もしかしたら美咲が、ここへ来たのかもしれない。

転げ落ちそうになりながらロビーへ向かうと、そこに美咲の姿はなく、

ソファーに座っていたのは、見たこともないおばさんだった。

この人が俺を訪ねてきたのだろうか。


「あの……」

「はい」

「もしかしたら大倉さん?」

「はい……」


仕事をするようになってから、それなりに人と会う機会も増えたので、

顔を覚えるのは結構出来るようになった気がするのだが、

名刺を出され名前が『能美さん』だとわかっても、どこでどう会ったのか、

あれこれ頭を回転させても、全然浮かんでこない。


「ここへ、ほら、ここへ座って」

「あの……申し訳ありませんが……」

「いいから、いいから」


押しの強い人だと思いながら、とりあえず向かい合う。

その女性は、『にこやか生命』というパンフレットをテーブルに出すと、

いきなり保険の説明をし始めた。

そういえば以前、高瀬先輩から聞いたことがあった。

展示会などで名刺をあちこちに出すと、その名刺を利用する人間が出てくるという話。


営業マンなどが名刺を持ち帰り、何か都合が悪くなると、人様の名刺を勝手に出して、

その場を逃れていくのだという。俺の名刺でもこのおばさんはどこかから手に入れて、

こうして営業活動をしに来たのだろう。

そうはうまく行かない。


「保険は結構ですから」


これ以上聞かされてはたまらないので、俺は立ち上がると頭だけ下げた。


「みんなそう言うんだよ。結構だと思ううちに入らないと保険じゃないでしょうが。
ほらほら、もう一回座ってって」

「いえ、今仕事中なんです。お帰りください」

「あんたまだ未婚だね。それに……」


おばさんは俺の姿を上から下へと見た後、一人暮らしをしているだろうと言い当てた。

どうしてそう思うのかと、ついこっちも尋ねてしまう。


「指輪していないし……」

「それじゃ、一人暮らしだっていうのは?」


おばさんはしっかりパンフレットを準備し終え、とにかく座れと繰り返す。

俺は仕方なく再度ソファーに腰掛けた。


「勘だよ、勘!」


具体的な答えは返らないまま、勝手なセールスレディーは自分流の営業をし始めた。

こういう人の言葉の攻撃には、隙がない。


「年齢は?」

「24です」

「ほら……ほらほら、もういいところだよ。今だよ、今」

「いえ、結構ですから」

「彼女だっているだろう。結婚だって考えてもいい年じゃないか」


その時、一瞬言い返すタイミングがずれてしまった。

そう、彼女だっているし、結婚だって考えてもいい年齢だからこそ、

そういったステップを踏み出すつもりだった。

それまで強気で言い返していたのに、俺は一瞬で何も言えなくなってしまった。




第36話

小さな芽を出した駿介と美咲の『恋』、強い風に倒されず、花は咲くのか……
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