3 愛だけに生きる女 【3-2】

【3-2】

「はぁ……」


毎日使っている記憶媒体は、上書きをすれば前のものは消えてしまう。

私の身体もそうだとよかったのに……。


「ふぅ……」


あの男の目的は、誘われたときからわかっていたのだから、

無理してお酒など飲まずに、酔ったふりだけをしておけばよかった。

酔いの回ったまま、激しく動きすぎたのが悪かったのか、

目の前にある不動産屋の看板が二重に見える。


「はぁ……もう……やだ」



胃の中身が……



「米森さん」


両手を口の前に置いた時、声をかけてきたのは梶本君だった。

マンションの中ならともかく、どうして今ここにいるのだろう。


「何? 何をしているの」

「俺は買い物です。それより……」


梶本君の声って、こんなに響いたっけ。

頭がガンガンするんですけど。


「大丈夫……です」

「どうしたんですか、どうしてそんなふうに……気分、悪いんですか?」

「いいの……」

「いや、でも、顔色もあまりよくないし……」

「いいから、あっちに行って!」


話しかけないで欲しいし、興味など持たないで欲しい。

私は梶本君を振り切るために、必死に吐き気を堪えながら、なんとかマンションへ戻る。

こういうところは意地っ張りのおかげで、急に気持ちがしっかりしてきた。

梶本君は自転車置き場へ向かい、少し遅れてエレベーター前に戻ってくる。


「風邪……ですか?」

「……いいって言っているでしょ」


裏切られた男に再会したのに、恨むどころか気持ちがまた向かいそうになり、

そんな自分の記憶を忘れたくて闇雲に飲み、どうでもいい愛を求めて、

初めて出会った男と、本能のまま身体を重ねていましたなんて、

ここで話せるわけがない。


「薬……ありますか?」

「ほっといて、平気だから」


梶本君は、本当におせっかいだ。

社会人同士なのだから、一度言ったらさっさと離れてくれたらいいのに。

持っていたカギを差し込み、私は部屋へ入ると、そのままトイレへ向かった。

座り込み、顔をうずめ、今日の全てが消えて無くなるくらいになって、

初めて気持ちが落ちつき、しばらく脱力感をその場で味わった。

なんとか立ち上がり、部屋の灯りをつける。


「はぁ……」


水道の蛇口を捻り、違和感のある口をうがいで落ちつかせ、

鏡に映る自分の顔を見た。



『どうしたんですか、どうしてそんなふうに……』



そう、確かに、どうしてこんなふうになったのだろう。

ここまで、自分をおかしくしなければならないことそのものが、

謙を忘れていない証拠で、それだけの思いを意味不明な出来事で紛らわせても、

こうして全てを吐き出してしまうのだ。


結局、あの日々を忘れることなど出来なくて……

謙の記憶を、別のものに置き換えることも出来なくて、

私は悔しさに、唇をただ噛みしめた。





次の日は、悪い行いのせいなのか、頭痛とだるさのミルフィーユ状態になり、

ほとんどベッドから出られなかった。

休みでなかったら大変だったが、なんとか夕方には立ち上がり、買い物をする。

閉まったままの隣のドア。出てきたら謝ろうと思うのに、

そういう日には、すれ違うこともなく、また新しい週が明けた。



銀行の月曜日、今日は朝から忙しい。シャッターが開き、待っていたお客様が、

どんどん店内に増えていく。


「おはようございます」

「あ……おはよう」


梶本君が、書類の束を持ったまま、体調は戻りましたかと尋ねてくれた。

昼休みにでも謝ろうと思っていたのに、先を越されてしまう。


「うん……」

「そうですか、それならよかった」

「電車に乗って揺られていたら、気分が悪くなったみたい。
ごめんね、色々とキツイ言い方をして」

「いえ、いいんです」


そう、思い出すだけで申し訳なさが膨らんで破裂しそうなくらい、

私は失礼な言葉を彼に浴びせていた。

あんなふうにキツイ言い方になったのは、バカなことをしたと、

自分自身が一番気付いていたからだけれど。


「寝込んだりしなくて、よかったですね」

「……うん」


梶本君は、私のウソを疑うことなく受け入れ、近頃どこか顔が辛そうだったと、

余計な情報を入れてくれた。


「辛そう? 私が?」

「はい。ここのところ米森さん、どこか辛そうな顔をしていたので、
ちょっと気になっていたんです」


いくら同じ職場の行員とはいえ、とりあえず異性である以上、

『気になっていた』という言葉は、少し構えて言うセリフなはずなのに、

梶本君はさらりと言ってくれた。まっすぐな目と言葉に、なんだかこそばゆくなる。


しかし、先日の態度は、明らかに私が悪い。

ここでまた『かわいくないこと』を言うのは、いくらなんでもひどすぎる。


「すみませんでした、ご心配をおかけして」

「いえ……以前、米森さんが笑ってくれたところを見たじゃないですか。
あれから、また笑ってくれないかなと、つい……」


書類の照らし合わせ、落ちてしまった紙の束、

慌ててデスクに頭をぶつけた梶本君。そういえばあの日、久し振りに笑った気がする。


「そんなに私、変な顔をしていました?」

「違いますよ。変な顔だなんて、そうではなくて」


見ている書類の数字を間違えるので、あまり話しかけないで欲しいと、

結局、いつも通りかわいくない言葉を押し出し、私はキャッチボールを止めた。



【3-3】

『愛されたい』という思いは、誰にもあるものだけれど、
年齢を重ねた歌穂は、そう素直に言えなくて……
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