3 愛だけに生きる女 【3-4】

【3-4】

「お母さんが行かないのなら、私も行かない。
別に、お父さんが倒れたって、何も変わらないから」

「歌穂、お父さんが会いたがっているのよ」

「会いたくないの、私は」

「歌穂……」

「情けない声を出さないで」


謙が言った、『妻にしかなれない女』というセリフが、脳裏に浮かんだ。

父が外に愛人を作り、家庭など顧みない態度を取っても、

それを無条件に許し、ずっと耐えている母。



それが意地でも、嫌味でもなんでもなく、

それでもまだ、父を愛しているのだとわかることが、とてつもなく嫌だった。




『形』だけの愛もいらないし、『不』のつく愛もいらない。

それなら私は、一人で生きていく。





日曜日。

真夏を前に、川沿いはご年配の方々が、雑草を刈りだしていた。

タオルを首に巻き、ちょっとした世間話でもしているのだろうか、

この毎年見られる光景は、そろそろまた『花火大会』の季節なのだと、

知らせてくれる。

ベランダに小さな椅子を出し、そこで買ってきたジャスミンティーを飲む。

小さな白い犬が、年配の男性に連れられて、楽しそうに散歩を続けていた。

少し進んではクルリと周り、そしてまたスキップするように進む。

口に広がるジャスミンの香りが、感情が入り交じり複雑に絡み合う心を癒すように、

優しく語りかけてくれる気がした。


「あ……こまち!」


隣の住人の声がして、その声に応えるように、犬がいきなり立ち上がった。

年配の男性は、帽子を取り、隣の住人に回して合図をしている。

ここからは見えないけれど、梶本君も何か合図を返したのだろう。

男性は、また大きく頷き、両手で丸を出し、手を振って散歩の続きを始める。

あの犬は、『こまち』という名前。

私は椅子から立ち上がり、身を乗り出すようにして、隣を見た。

梶本君は上下スエット姿で、頭が寝癖で乱れている。


「ねぇ……」

「……あ、おはようございます」

「おはよう。あの犬、『こまち』って言うの?」

「そうなんですよ、あのおじさん、駅前の不動産屋があるでしょ、『ナリタ』。
あそこのご主人です。俺、この部屋を紹介してもらったから、知っているんです」

「へぇ……」


同じマンションでも、同じ不動産屋とは限らない。

梶本君は、あのおじさんの趣味がマラソンで、外国まで走りに行くのだと、

聞きもしない情報を入れてくれた。

その情報は必要ないと断ると、梶本君はまた何かを思いついたのか、

嬉しそうな顔をする。


「駅の裏にあった喫茶店、閉店した後、何になるのか、
米森さん知ってましたか?」

「裏? あぁ、水玉模様が好きだったあのお店ね」

「そうです、そこです。それが、次も喫茶店になるそうです。
なんだかおかしいですよね」

「ふーん……」


『喫茶店』かぁ。今までの店も使った覚えはないけれど、

今度も私には無縁そうだ。わざわざコーヒーを外で飲むなんて、あり得ないと思う。


「おかしくないですか? また同じ喫茶店なんですよ」

「……そう?」


梶本君は、私があまり反応しないのが寂しかったのか、少し首を傾げてみせたが、

すぐに立ち直り笑顔に変わる。


「前は少し変わった店でしたからね、今度は雰囲気がいいといいなぁ……」


私はこの町に住んで、もう8年以上が経っているのに、

引っ越してきて数ヶ月の梶本君の方が、町の情報に詳しかった。

耳鼻科の先生は気難しいが、電車の模型が大好きで、部屋にたくさん走らせていること、

保育園の園児たちが週に1度この川沿いをマラソンし、

それをご近所のお年寄りたちが、旗を振って応援していること、

止めないと、どこまでも『どうでもいい情報』を披露しそうだったので、

私はあえて別の話題を振ってみる。


「ねぇ、『竹原川花火大会』のこと、どうして知っていたの?」

「花火大会ですか?」

「そう、そんなに大きなものじゃないし、地元の人でなければ、
あまり有名でもないでしょ」

「まぁ、そうですね」


梶本君は、川の向こう側を指差し、以前、あちらの方にある小さな町工場は、

自分の祖父母が経営していたものだったことを教えてくれた。


「あれ? あの大きな木の横にある?」

「はい、あの場所で父方の祖父母が、部品を作っていたんです。
タンスとかに使う引っ張り部分とか、あれこれ細かいものですけどね。
俺にとっては遊び場でした。機械の周りにはいかない約束でしたけれど、
階段の上から、作業をしている職人さんたちを見ているのが好きで……」


梶本君が小学校に上がる年齢で、工場は他人の手に渡った。

風の噂で経営者が代わったことだけは聞いたらしいが、

自らそばに行くことを、どこかで避けているという。


「避けているの?」

「はい。色々と詳しく知ってしまったら、悔しさも倍増する気がして」

「悔しさ?」

「……戻らないものに、腹を立てるのも、バカバカしいでしょ」


悔しさ。

私が父に会いたくない理由も、そこだろうか。

取り戻せない思い出の日々と、現実とのギャップ。


「あの工場の2階から見ていたた花火大会が、強烈な印象に残っているんですよ。
だから、どうせ東京に住むのなら、あの場所を見られるところって決めていて。
でも、なかなか空きが出なくて、やっと見つかりました。
細かく知りたくはないのに、離れがたいと言うか……」

「ふーん……」


私が父とこの花火大会を見たのは、小学校4年生だった。

梶本君と、私の年齢差を考えると、

もしかしたら同じ大会を見ていたのかもしれないなと、ふと考えた。



【3-5】

『愛されたい』という思いは、誰にもあるものだけれど、
年齢を重ねた歌穂は、そう素直に言えなくて……
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